FC2ブログ

翁長雄志知事を「粛々」と殺した悪代官菅官房長官

翁長雄志知事を「粛々」と殺した悪代官菅官房長官 18・8・11
 国家権力は恐ろしい。知事選挙も県議選も、名護市長選挙も、参院選挙も辺野古基地反対派がこの十数年圧勝しているにもかかわらず、仲井真前知事が、自民党の菅官房長官に籠絡されて、突如として辺野古基地工事容認に変った。そして直ちに辺野古埋め立て工事を強行した。2014年12月の知事選挙で翁長知事が圧勝したにもかかわらず、工事を強行している。これが東京とか山口ならとっくに工事は中止していただろう。沖縄にたいする差別きわまれりだ。翁長知事の死は菅官房長官など、日本の中枢政治の対米従属の象徴だ。民主党政権の辺野古最低でも県外、国外という約束を破り、選挙で勝っても勝っても日本の政治かは左右を問わず沖縄を見捨てている。菅官房長官ら日本の国家権力によって翁長雄志知事は「粛々」と殺されたのだ。以下は琉球新報が伝える翁長雄志知事追悼の記事だ。
◆〈評伝〉沖縄の自己決定権求め 翁長知事死去 琉球新報2018年8月9日 10:30
 辺野古新基地建設の阻止に命を懸け、「殉職」した。新基地建設を強行する安倍政権と対峙(たいじ)したのは、ウチナーンチュの自己決定権と民主主義を求める強い意思からだった。 知事初当選後、4カ月以上たってようやく安倍晋三首相との面談が実現した際、記者として立ち会った。報道陣に公開された冒頭、翁長知事は畳み掛けるように県民の思いをぶつけた。「世界一危険だから沖縄が負担しろ、こんな理不尽なことはない」―。政権への痛烈な批判に、官邸側は慌てて知事の発言を遮り、報道陣を退席させた。追い立てられ部屋を出される間際、振り返ると知事がなおも話し続けていた。その怒りのこもった目が忘れられない。政治家としての前半生は“自民党本流”であり、沖縄の保守政治を牽引した。消費税導入の逆風が吹いた1989年の那覇市議選では、無所属を選ぶ議員が相次ぐ中、あえて自民党公認候補となり、2期目の当選を果たした。
 98年の知事選では大田昌秀県政の与党だった公明党を稲嶺恵一氏への選挙協力に導いて自公態勢を構築した。県議で自民県連幹事長だった99年当時、辺野古移設に関しては今とは正反対の移設推進派だった。
 その自民党と距離を置き始めたきっかけは2007年の教科書検定問題だった。高校歴史教科書で沖縄の「集団自決」(強制集団死)の「日本軍に強いられた」などの文言を削除・修正する検定意見が出た時、検定意見撤回を求める県民大会の実行委員会に加わった。「ウチナーの先祖があれほどつらい目に遭った歴史の事実が無かったことにされるのか」と憤った。 10年の仲井真弘多知事の2期目の選挙では、当初断っていた選対本部長を務めた。渋る仲井真氏を説得し、普天間飛行場の「県外移設」を公約に掲げさせた。応援演説で「県民の心を一つに」と何度も呼び掛けた。4年後には自身のスローガンとなり、オール沖縄のシンボルとして沖縄の民意を背負った。
 5月25日、琉球新報の新社屋落成式典でお会いし、病状を聞いたのが最後だった。首筋が痛々しいほど細く、しかし眼光は炯々(けいけい)として強かった。知事選に当選した時、妻・樹子さんと「万策尽きたら辺野古のゲート前に夫婦で座り込む」と約束したという。日本という先進国で、公正な選挙で選ばれた地域のリーダーが、地域の海をどうするかを巡って座り込み、それを本土から来た機動隊員が排除する。その光景が現実になった時、日本は民主主義の国と言えるだろうか。知事は沖縄の自治権、民主主義を繰り返し問うた。
 政治家の息子として生まれ、「基地を巡ってウチナーンチュ同士がいがみ合うさまを見せつけられた」とよく語っていた。「それを高見で笑っているのは誰か」と付け加えるのが常だった。それへの憤りが国との対峙を支えたのだろう。 「僕は政府に怒っている姿しか報じられないけど、酒を飲んだら僕ほど楽しい人はいないよ」と茶目っ気のある表情を見せた。繰り返した「子や孫へ誇りある沖縄」が実現した時は、大好きな泡盛で乾杯をしてほしい。(島洋子)
スポンサーサイト

細川内ダムを阻止した藤田前村長

細川内ダムを阻止した藤田前村長の便り 18・8・5
 旧知の藤田恵さん、神戸在住からハガキが来た。今回の全国的な大雨やダムの大災害は、戦後の拡大造林政策で、雑木林を杉林に替えた農林省の政策の失敗だということを改めて確認したというのだ。藤田さんは、かつて徳島県木頭村の村長をしていた。1990年代半ばのことである。地元の木頭村に千数百億円を投じてのダム計画、細川内ダムの計画に対して、反対運動を始めた。艱難辛苦の末、1997年6月10日、当時の亀井静香建設大臣の決断でダム計画は中止となった。巨大ダム計画を中止させた初の事例で、その後日本全国のダム計画を見直す契機ともなった。藤田さんとのつきあいは、その当時からである。
 藤田さんはすべては異常気象のせいにした報道がなされているが、大雨災害の原因は戦後のめちゃくちゃな拡大造林政策にこそ根本的な原因があるというのだ。以下に藤田さんのハガキ全文を紹介する。
―暑中お見舞い申し上げます。 今回の大水害と毎年の災害は①拡大造林②ダムの放流が主な原因ですが、災害の元凶である拡大造林後の山林崩壊の現場を見た報道は皆無のようです。拡大造林で山とノ11が壊れた理由、下草刈り、間伐の手入れ不足→林内へ日が当たらず→下草が生えない→表土の過大侵食・山林の崩壊→土砂災害。拡大造林後の山と川(洪水逓減力の喪失→ダムの放流)
 山からは、上記のように土砂災害と、全体に山林の保水力が無い(腐葉土が皆無)ため、雨水が一挙に下流に流出。
 川は、山からの土砂の流出が過大で川の処理能力を超えた結果、淵(淵のワンドは濁流が逆流気味に大きく渦巻いて遊水地状になり洪水を逓滅していた)が無くなると同時に蛇行も消え川が直線化したため、川の自然な洪水逓減力が失われ、下記のダムと共に大水害が全国各地で毎年発生しています。
 大雨でダムが満水となる頃には、下流の住宅街も川の水位が上がり内水も多くなり危険が迫っています。この最悪時に上流のダムのゲートを開くため下流では一挙に川の水位が上がり大水害となっています。最近の大洲市・岡山県なとがその典型てす'。
 拡大造林は1950年代から、広葉樹林を皆伐し、補助金で主に杉を密植する国の政策で広葉樹林敵視の悪策です。1064年の貿易自由化で、木材価格は暴落して林業は間伐や下草刈りの費用もなく、約70%の荒れた杉林は保水力も獣の餌もありません。近年の大雨時の大災害、イノシシ、熊等の出没、沿岸漁業の衰退の元凶が「拡大造林政策」です。
殆んどの政治家、学者、官僚、マスコミは「拡大造林政策」など無かったことにしています。
 いまや新聞記者さえ拡大造林の用語さえ知らず。大水害は止まりそうもありません。台風も東京から沖縄へ下る時代です。何が起こるか分かりません。
〒655-0854 神戸市垂水区桃山台5-21-10藤田恵

日本たばこ産業のロゴ付きのコラム掲載へ抗議

日本たばこ産業のロゴ付きのコラムへの抗議 18・7・11
 わが畏友渡辺文学氏は、日ごろ穏健なる人物でなかなか怒らない。温和な人物である。その文学さんが最近怒っているのは、長年愛読している毎日新聞に対してである。これについて、文学さんの怒りに同調する人物が、これまた元毎日新聞の社会部記者の川名英之さんである。川名さんが毎日新聞の会長朝比奈豊に送った抗議文が文学さんから送られてきた。川名さんもまた長年の付き合いのある温和な人物である。以下に文学さんや川名さんの抗議の趣旨を掲載する。
 毎日新聞社会長  朝比奈 豊様  2018年7月9日 川名英之
 お忙しい日々を過ごしのことと拝察いたします。1つ、お知らせしたいことが起こり、お手紙を送らせていただきました。実は、40年以上前の盟友、渡辺文学氏から7月2日の毎日新聞に「充実のいととき」という日本たばこ産業のロゴ付きのコラムが掲載されたという手紙をもらいました。渡辺氏は40年前に「たばこの煙は公害」という観点から嫌煙権を提唱、喫煙や受動喫煙による健康被害をなくすことを目標にして献身的に運動を続けてきた人です。渡辺氏のご尊父、渡辺三樹男氏は毎日新聞モスクワ特派員、論説委員を経験された方です。
 この渡辺氏が今、毎日新聞に日本たばこ産業のPRとも言うべきロゴ付きのコラムが掲載されたことを怒り、抗議行動を起こしています。渡辺氏の怒りは、もっともだと思います。私は喫煙と喫煙による健康被害をなくす運動に関係している人々が、毎日新聞に日本たばこ産業のロゴ付きのコラムに載ったことをなぜ怒っているのか、なぜこの種のPRを新聞に載せてはならないかについて、私が知っていることを、現在の毎日新聞社の幹部の中で唯一、お知り合いである朝比奈会長にお伝えし、今後は新聞にこの種の記事を載せないようお願いしたいと思います。
 日本の嫌煙権運動は渡辺氏の献身的な運動のお陰もあって、成人の喫煙率は1978年の男性74.7パーセント、女性16.2パーセントから、35年後の2012年には男性32.7パーセント、女性10.4パーセントと劇的に減りました。しかし男性の喫煙率(2011年のOECDの調査)はスウエーデンの3倍近い36.6パーセントと高く、喫煙率の低い国の順位はOECD加盟34か国中、21位という有様。その主要な原因は、たばこ規制枠組条約は第13条でたばこの規制を禁止し、先進諸国では、たばこの宣伝、広告、販売促進、スポンサー行為の規制が進んでいるのに、日本は大きく立ち遅れています。
 そのうえ、日本ではたばこ事業法があり、同法に「わが国たばこ産業の健全な発展を図る」と書かれていて、財務省がたばこ産業の株を保有しているのです。たばこ産業が財務省の庇護のもとにあり、広告・宣伝の規制が緩いために、日本の喫煙率がはかばかしく低下しないのです。たばこによる人々の健康被害を防止するための運動に携わっている人たちが毎日新聞にたばこ産業のPR 記事が載ったことに怒っているのは、このためです。このことに留意し、たばこ産業のPR関連の記事は今後、一切載せないよう、お取り計らいください。ご参考までに関連の資料をお送りします。  
                 
     

無言館で反戦句人の碑に詣でる 

無言館で反戦句人の碑に詣でる 18・6・29
 先週、長野市から上田市などを訪ねた。一つの目的は上田市の塩田平にある無言館を訪ねることだった。ここに今年2月、反戦句人の碑が金子兜太らの発起人によって建立されたと聞いたからだ。第二次世界大戦中、反戦の句を詠んだ俳人らが検挙・投獄された「新興俳句弾圧事件」を語り継ぐ石碑が長野県上田市に完成し、2月25日に除幕式があったが、建立の筆頭呼び掛け人兜太は2月20日に九十八歳で亡くなった。東京新聞によると以下のように伝えている。
 ―碑は、戦没した画学生らの絵を展示する「無言館」の敷地内に立つ。「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑 兜太」と刻まれた。その建立へ金子さんと尽力したのが、フランス出身の俳人マブソン青眼(本名マブソン・ローラン)さん(49)=長野市=だ。来日して俳句を研究していた二十年前に金子さんと知り会い、すぐ金子さん主宰の俳誌『海程』の同人になった。二〇一五年に対談した時に俳句弾圧事件が話題となり、「有志で記念碑を建てよう」と決めた。全国の俳人ら五百七十一人から三百万円あまりが集まり、碑とともに、弾圧を受けた俳人の作品などを展示する「檻(おり)の俳句館」と、訪れた人が投句できるポストも併せて設けた。「無言館」の館主で作家の窪島誠一郎さん(76)も金子さんと親交があり、マブソンさんが建立場所として提案すると、金子さんは「無言館なら大賛成だ」と喜んだという
 金子さんが今日の世相を「表現の自由が弾圧された戦前と似ている」と嘆いていたのを忘れないマブソンさん。「その思いを碑と一緒に引き継いで訴えていきたい。ここが金子先生とつながることができる場所になってほしい」と願う。
<新興俳句弾圧事件> 戦時中の1940~43年、戦争や軍国主義を批判・風刺し、反体制的な句を作った俳人ら44人が、治安維持法違反容疑で検挙され、13人が懲役刑となった。対象とされた句では「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)などが名高い。
◆「平和を希求、心ひとつ」
 金子兜太さんの死去を受け、日本文学研究者のドナルド・キーンさん(95)が21日、コメントを寄せた。コメントは次の通り。金子兜太さんの訃報を知った時、とてもさみしく感じました。私は、金子さんの人柄と業績を心から尊敬していました。金子さんは、俳人として、長い俳句の歴史の中で新しい道を切り開き、大きな業績を残しました。初めて会ったのは30年以上前でしたが、その時から親しみを感じました。私たちは、敵と味方でしたが、同じ時期に戦争を体験しました。金子さんの体験は実にひどいものでした。私たちは戦争がいかに無意味なものであるかを語り合い、平和を希求することにおいて心はひとつでしたー。(以上東京新聞2018・2・22)
 夏草が茂り深い樹林の緑の中に碑は建っていた。蝉の声を聴きながら碑に一礼した。終わって無言館の絵画館へ向かった。ここ約30年前に水上勉の一子窪島誠一郎氏が、全国の戦没画学生の絵と手紙などを集めて開館した。塩田平の辺鄙な山中に建つ絵画館である。偶然、館長の窪島氏と出会い会話することが出来た。彼の30年に及ぶ、デッサン館、絵画館の労苦に敬意を表して別れた。
 夏草やなほ兵語る無言館 漫歩

     (写真 俳人マブソンと窪島氏)

       a



     



沖縄慰霊の日「6.23」-沖縄と出会い直すために 

沖縄慰霊の日「6.23」-沖縄と出会い直すために 18・6・26  
 辺野古基地の土砂投入が8月となって、現地の状況は緊迫している。本土からの土砂搬入を阻止する運動を展開しているグループの毛利孝雄氏が、新社会に以下のような問題提起をされた。
■ 沖縄の記憶を切り捨てて生きてきた
 「6・23(ロクテンニイサン)」-この響きには、悔いの気持ちが混じる。
 20年前、初めて沖縄を訪れた。6月23日が「沖縄・慰霊の日」であることすら記憶していなかったことに、心底打ちのめされていた。しばらくして、1983年の6月23日、本土では東北新幹線開通を祝う国と地方による祝賀行事が行われていたことを知った。8月6日・9日・15日に、はたしてこの種の記念行事を行いうるだろうか。私自身もまた、沖縄戦の記憶を切り捨てて生きてきた、平均的本土人のひとりではなかったか。
 友人の元高校教員Tさんの「沖縄」との出会いも強烈だ。沖縄の大学に進学したい、という娘さんの希望をうれしく受けとめてきた。ある日、予備校の講師から呼び出され、思いがけない言葉をかけられる。「本当に沖縄でいいのですか?はっきり言って、沖縄の大学を出ても本土では使いものになりませんよ」。さらに同僚の女性教師からは「あんな危険なところに娘さんをひとりでやるなんて、親として失格」と叱責される。
 本土に流布する沖縄観、それは本土側の戦争観や民主主義意識の反映でもある。私たちは、本土の沖縄観とどれほど正面から向き合えてきただろうか。何が変わり、何が変わらなかったのか。
■ 不発弾と人骨と所有者不明土地と
 住民4人に一人が亡くなった沖縄戦は、73年を経た今も沖縄社会を規定する。
 那覇空港に降り立つと「不発弾の機内持込禁止」のポスターが迎える。今も、とりわけ沖縄本島中南部の工事現場からは、人身大ほどの不発弾や人骨が出てくる。不発弾処理は平均すると月2回ほどにもなるだろうか。周辺住民の一時避難、経費の一部負担など県民生活への影響も大きい。最終処理まではあと7~80年かかるとされる。そして、いまも家族の元に帰ることなく埋もれたままに眠る数多の遺骨たち。
 市街地を歩くと、草の生い茂るままに放置された空き地が散在する。沖縄戦による戸籍の消失や家族全員の戦死などによる所有者不明土地だ。地区計画やまちづくりを進めるうえで大きな障害となっている。戦後73年間放置が続く一方で、米軍基地内には不明土地は存在しない。基地の安定提供のために、不明の境界線は国の手で引き直されている。
■ 出会い直すために
 去る3月急逝された新崎盛暉さん(沖縄大学名誉教授)は、日米関係史から見た沖縄問題を次のように概括している。
「アジア太平洋戦争の末期、天皇と本土を防衛するために沖縄を捨て石にしたこと、敗戦処理にあたって、本土の主権確保と天皇制存続のために、沖縄の施政権を放棄し米軍への基地提供を行ったこと、それが今日まで及んで、沖縄の政治的経済的構造を形づくっていること」(岩波新書「沖縄現代史-新版」からまとめ)。
 戦後73年目の「慰霊の日」を、沖縄は
かつてない緊迫感の中で迎える。辺野古工事強行と南西諸島への自衛隊配備。一方で、「土人」発言をはじめネットに蔓延する沖縄ヘイト。本土と沖縄、出会い直すことはできるのか。
「6・23」を、あらためてその機会としたい。
利孝雄・「週刊・新社会」に書いたものを編集しました。

河野洋平氏「拉致解決には国交正常化を」をと安倍に注文

河野洋平氏「拉致解決には国交正常化を」をと安倍に注文 18・6・15
 元衆院議長の河野洋平氏が13日、北朝鮮による日本人拉致問題を巡り、「国交も正常化されていない、植民地問題の処理もできていない国に対し、『返せ、返せ』とだけ言ってもなかなか解決しない」と述べ、まずは国交正常化の手順を踏むべきとの認識を示した。日本による戦前の植民地支配の清算についても、「韓国にはおわびをして、経済援助をした。同じことをしないと、反省の姿勢を示すことにならない」と訴え、北朝鮮への謝罪と経済援助の必要性に言及した。以下は神奈川新聞018年6月15日の朝刊掲載記事より。
ー 東京都内での講演で語った。安倍晋三首相は「拉致問題の解決なくして国交正常化はあり得ない」との立場を示しており、疑問を呈した形だ。自民党総裁や外相を歴任した河野氏は、安倍首相が意欲を示す日朝首脳会談の実現性について、「米国は会談するための下地を作ってきたが、日本はそういう雰囲気がない。少し心配だ」と苦言。北朝鮮への圧力の継続を表明する首相や息子の河野太郎外相(衆院15区)の姿勢を問題視した。その上で、「目的達成には譲ることも考えないといけない。日本ももっと努力してほしい」と注文を付けた。
 12日の米朝首脳会談は「トップ同士が会うのはすごいこと。話し合うことで平和が近づいてきた」と評価した。ただ、米側が求める「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」は「とんでもなく難しい作業であることは間違いない」と指摘。日本が核兵器禁止条約に署名しない一方で、北朝鮮に核放棄を求める姿勢には「自己矛盾を感じる」とし、「唯一の被爆国として核廃絶の先頭に立つと言う以上、スタンスをはっきりさせるべき」と強調したー。




















樺樺美智子さんの「死の真相」 18・6・6

樺樺美智子さんの「死の真相」 18・6・6
 美智子さんの「死の真相」 (60年安保の裏側で) ―60年安保闘争50周年
ちきゅうざ 2010年 12月 24日  評論・紹介・意見より 以下はちきゅう座に掲載された、 御庄博実(丸屋 博)権力による捏造樺美智子の死の真相特集:安保50周年
<御庄博実(丸屋 博)(みしょうはるみ:まるやひろし):医者・詩人>
の一部である。樺美智子の死も、警官隊による警棒の攻撃と首を絞めた扼殺だったとの見方である。
 ー五十年前、検察側は国会構内の警備隊の目前で起こったことをあたかもデモ隊の後方の列で起こった「人ナダレによる」とはやばやと断定し、その後は司法解剖の行われた法医学鑑定書を、再鑑定など学問解釈上の裁をとりながら、虚偽、隠蔽、捏造といったあらゆる手段を用いて、己に都合のよい結論を自ら仕立てた。樺美智子さんの死はこうして隠蔽され、不問に伏せられたのである。長崎暢子さんにお会いして、当夜の実情を聞かせてもらって、僕は検察権力の、巧みな隠蔽、捏造の事実を今更ながら、鳥肌の立つ思いで振り返っている。安保改定時の『核密約』も、やっと白日の下に晒された。六十年安保から五十年、樺美智子さんの司法解剖に立ち会って『死の真相』を知る人は、今はただ僕一人が残されているのでしょうか。僕は樺俊雄先生ご夫妻の「美智子の死の真相を!」というご依頼にやっと応えることができたと思う。
 「歴史の流れ」が、音を立てて足元から聞こえてきます。六十年安保から五十年です。五十年前のこの時間に、僕は樺さんの『死』を知らされました。それから彼女の「死の真相」を尋ねて、うかうかと五十年が過ぎました。 見渡せば、彼女の「死の真相」を知る人は、もう一人も残っていません。 記憶を奮い起こして、書きました。
一九六〇年五月一九日、岸信介自民党内閣による衆議院での強行採決、参議院での議論をへないままの同二十三日の自然成立と、その後の日本外交に大きく影響する条約にしては、異例なかたちで成立した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。簡単に言えば米ソの対立がはげしい時代、アメリカの対アジア戦略にのっとったアメリカ主導の軍事同盟であったといえるだろう。一〇年間は異議申し立てができない代物であった。(十年後の一九七〇年、もはや六十年時のような大衆デモはなかった)
第六条にいわく。
 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。しかも、右の基地内は、治外法権となって日本の行政は及ばない。この安保条約締結に反対するデモは、次第に燃えさかり、国会周辺を連日埋め尽くすこととなる。(六月一五~一六日は約十万人)戦時下の空襲・飢餓の痛手による体験がなおなまなましいなかで、アメリカ一方に与し、その戦略に巻きこまれることはごめんだ、という素朴な感情が、多くの人びとをデモへ駆り立てたといえるだろう。
 明治以後、日本が外国と軍事同盟をむすんだのは二回。日英同盟(一九〇二年)と、日独伊三国同盟(一九四〇年)。前者は日露戦争、後者は米英ほかの連合軍との戦争へと雪崩れていった。軍事同盟の危険を肌で人びとは感じとったのではあるまいか。だから、連日、国会を埋めるデモに対し、岸首相が、「声なき声は自分たちを支持している」と語ったとき、早速に、声なき声というプラカードを作ってデモに行くものがあらわれ、これといった組織のない人びとがそのプラカードの後ろに付いて、みるみる膨れ上がっていく現象も起きたのだった。そのようななかで、学生たちが立ち上がり、そこに二十三歳、東大文学部国史科学生の樺美智子もいたわけである。一篇の詩をあげておこう。

   最後に 樺美智子
  誰かが私を笑っている
  こっちでも向うでも
  私をあざ笑っている
  でもかまわないさ
  私は自分の道を行く
  笑っている連中もやはり
  各々の道を行くだろう
  よく言うじゃないか
  「最後に笑うものが
  最もよく笑うものだ」 と
  でも私は
  いつまでも笑わないだろう
  いつまでも笑えないだろう
  それでいいのだ
  ただ許されるものなら
  最後に
  人知れず ほほえみたいものだ
*御庄博実という名前は詩人のペンネームです。本名は丸屋 博。(編集部注)
初出:『ヒロシマ ナガサキを考える』第99号より許可を得て転載
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

最新記事
リンク
最新コメント
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR