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きっこのブログ 丸山穂高は松下政経塾

きっこのブログ 丸山穂高は松下政経塾 19・5・17 
金沢のhiranoさんのブログから、以下を紹介します。
【松下政経塾の卒塾生】丸山穂高、野田佳彦、高市早苗、前原誠司、玄葉光一郎、小野寺五典、中田宏‥‥って、松下政経塾って「バカ製造塾」なのか?トンデモ発言の直後に「言論の自由だ」と擁護した松井一郎は、すぐに手のひら返しをして丸山穂高を切り捨てた。同じくツイッターで丸山穂高を擁護した長谷川豊も、すぐに自分の擁護ツイートを削除して批判に回った。自分の保身しか考えていないクズ集団「日本維新の会」の本領発揮(笑)
 丸山穂高は居酒屋で酔って口論になった一般市民の手に噛みついて問題になった時、「公務にいる間は断酒する」と宣言し、飲酒した時は議員辞職する意向を示したが、今回、酔ってトンデモ発言をして国益を害したのに議員辞職しないと言う。あたしは安倍晋三の「妻や私が関与していたら」がデジャブった。
 丸山穂高、自分のトンデモ発言が大問題になってから急に謝罪や撤回を始めたが、発言が問題視された直後は「マスコミが私の発言の一部を切り取って報じた」と激怒して、あたかも「自分は正しいことを言ったのにマスコミの報じ方に問題があった」というレトリックで自分を正当化したんだよね。最低だな。
【今日の名言】「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから。」(クリント・イーストウッド)
 百歩ゆずって、もともとトランプが大相撲のファンで、トランプのほうから「ぜひ観戦したい」と言って来たのならともかく、相撲を中断させてトランプを入場させる上に土俵に上げて特別賞まで授与させるなんて、いつから「日本の国技」は「安倍晋三の政治の道具」に成り下がったのか?氷山の一角なんですよね。この人は口走ってしまったから問題になっているけど、それより更にシリアスなのは、喋らないけど同様な考えを持っている議員がもっと存在しているだろうということです。
◆丸山は雑魚。本命は安倍晋三だ
 丸山ほだか暴言事件は、丸山=公職者が、公職における委員会の委員活動として査証無し交流団に参加し、そこで酔漢となって国際的な大舌禍を起こしたわけで、これは公職者の職務上の行為として問題となっている。言論の自由を主張して逃れられるものでは一切無い。そのような主張は、頭がおかしい。
この国会議員の「戦争肯定発言」をテレビ番組が「失言」として扱う状況は理解しがたい。どれほど重大な問題なのか、番組制作者は理解していないのかと思う。現職国会議員が「国権の発動たる戦争」を肯定する発言をしたこと。現職国会議員が一般市民に戦争を唆していること。失言という軽い話ではない。
 日本の高校までの教育は詰め込みで考える力を育まない。大学も多くの学部はそうだ。そもそも日本の「エリート」の選別方法が間違えているのではないか?丸山穂高の学歴に言及している人がいるが、学歴と知性に相関関係がないのは前から分かりきっているのである。
 丸山穂高:東大経 足立康史:京大工
 豊田真由子:東大法 片山さつき:東大法
 山田宏:京大法
 (番外編)
 大川隆法:東大法

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「改憲マニア」たちと決別 小林節教授

「改憲マニア」たちと決別 小林節教授 19・5・11
 毎日新聞の5月9日 東京夕刊に注目した。さらば「改憲マニア」たち 自民党の元「指南役」 小林節・慶応大名誉教授という吉井理記者によるインタビューだ。以下に要旨を紹介したい。
◆70歳の護憲派宣言 「僕は進歩した」
 話は1980年代にさかのぼる。皇居にほど近い学士会館(東京都千代田区)で開かれたある会合に、自民党議員らに交じり、米国留学を終えたばかりの小林さんの顔があった。「安倍首相の祖父・岸信介元首相が設立した『自主憲法制定国民会議』です。当時は改憲を口にするだけで右翼と言われる時代。だから『改憲はタブーじゃない』という僕の主張を知った自民党が喜んで勉強会に呼ぶようになり、『国民会議』にも招かれたんだが……」
 小林さんが若き日を回想する。記者が小林さんと初めて会ったのは2013年4月。「特集ワイド」の取材である。改憲派の重鎮に、今の自民党とその改憲論をどう思うかと尋ねると、小林さんの口から出たのが「自主憲法制定国民会議」だった。「自民党議員と共に会合に出るようになって、びっくりした。ある式典では、ひな壇の正面に日の丸を掲揚して『皆さん、日の丸を通して、皇居におられる天皇陛下を遥拝(ようはい)しましょう』と、みんなで最敬礼をするんです。日本国憲法下の世とは思えなくてね」。彼らの周辺には、「8月15日には靖国神社に参拝するのが国民的常識だ」と説く「明治憲法復元派」に近い憲法学者までいた。
◆明治憲法復元まで考えるの『自主憲法制定国民会議』
 「僕は権力者が法律で国民の人権や自由を縛ることを明治憲法を『憲法』とは認めない。憲法とは、国民が権力者を縛るものです。でも、彼らは明治憲法と、大日本帝国の価値観の中で生きていた。それは違う、と。だからこそ、三十数年、憲法を理解してもらうために自民党の憲法族と付き合ってきた。その自民党が12年にまとめた改憲草案では、小林さんが説いてきた常識と正反対、権力者が憲法で国民を縛る「国民の憲法尊重義務」規定が加えられて、翌2015年の96条改正論議に怒り、「明白な憲法違反」と反対し続けた安全保障関連法の成立(15年)にあきれ返った。
 17年から、安倍首相が「自衛官の子どもが『お父さんは違憲なの?』と涙目になった」とのエピソードを持ち出して9条改正を訴えだしたことにはこう憤る。「武装組織を巡る冷徹な議論に、お涙頂戴の情緒論を持ち込む安倍首相です。もはや今の政治に、憲法を変える資格も知性もない。危なすぎる。首相たちはとにかく改憲してみたい、という『改憲マニア』なんです。もう9条を含め、憲法は変えるべきではない。僕はこれまで改憲論者、護憲的改憲論者を自負してきました。でも、もう改憲論者はやめた。護憲になる」
 「政治も、憲法を巡る状況も、先ほど言った通りのざまです。今、この国の憲政を守るため、打つべき最善の手は何か。そう考えると憲法を変えず、伝統的な憲法解釈をもっと分かりやすく再構築して固め、国民に啓発し、関係法令を整備する。これが一番いい」
◆自民党の杉田水脈議員の性的少数者差別発言
 昨年、世を騒がせた自民党の杉田水脈(みお)衆院議員の「LGBTなどの性的少数者は本当にそれほど差別されているのか」「彼らは子どもを作らず『生産性』がない」との趣旨の雑誌寄稿も、小林さんにはショックだった。「LGBTは、いや人間は全て個性的な存在です。憲法は、各個人が、それぞれの個性を大切にして生きることを保障している。にもかかわらず差別がある。だから公権力が差別をなくす努力をすべきなんです。そんな議員たちが、憲法をいじるなんてとんでもない」
 小林さんは、生まれつき左手に障害がある。今も人前に出る時は必ず手袋をする。「障害も個性ですよ。小さい頃、道を歩くだけで『かたわ』と石を投げられ、幼稚園の先生には『こういうお子さんは他のお子さんの迷惑になります』とまで言われ、入園を断られた。『公園デビュー』じゃないけど、遊んでいる子どもたちに『僕も入れて』と言ったら、『入れてやらない』と突き飛ばされて、泣いて帰った。かっぽう着姿の母が抱き締めてくれて……。母も泣いていた」
 だからこそ「私が私として」生きることを保障する憲法に感動して学者を志し、「人は生まれながらにして平等で、不可侵の尊厳を持つ」と独立宣言でうたった米国に留学し、学者として、自民党議員らに「憲法とは何か」を指南しようと活動してきたが、それは無に帰した。

基地集中は本土が「沖縄へ問題を見なくていいシステム」 東アジア共同体研シンポ

基地集中は本土が「沖縄へ東アジア共同体研シンポ 018・5・6
 5/6(月) 11:44配信 琉球新報は要旨以下のように伝えている。
ー「沖縄への基地集中は本土が問題を見なくていいシステム」白井聡氏、柳沢協二氏ら「主権なき日本」問う 東アジア共同体研シンポが開かれた。那覇市泉崎の琉球新報ホールで公開シンポジウム「日本の民主主義を問う―日本は本当に独立国家・民主国家なのか」(琉球新報社後援)を開催した。京都精華大専任講師の白井聡氏らが登壇し、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設や日米地位協定の問題を中心に、日本が米国に対し自国の主権を確立できていない現状などを報告した。約400人が来場し、熱心に話を聞いた。
 白井氏は「沖縄に米軍基地を集中させ、本土で問題を見なくていいようなシステムを構築した。直接的原因だった朝鮮戦争が終わろうとしていることを、今の権力が嫌がっている」と指摘。「本土において民主主義は形骸化している。日本国の中で民主主義が機能しているのは沖縄だけではないか」と分析した。
 山城博治沖縄平和運動センター議長は、昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた1947年の「天皇メッセージ」について「沖縄切り捨てのメッセージが今なお私たちを縛り続けている。天皇家が沖縄に向き合って謝罪・撤回することを求めたい。沖縄から声を上げていこう」と提案した。辺野古ゲート前の抗議活動に参加を呼び掛ける歌を披露し、会場を沸かせた。
 元内閣官房副長官補の柳沢協二氏は「国防のために民意を無視するというのは本末転倒だ」と指摘し「沖縄の地理的優位性や抑止力の論理は破綻している。武力による脅し以外の多様な選択肢があるべきだ」と語った。
 沖縄国際大の前泊博盛教授は普天間第二小米軍ヘリ窓落下事故に触れ「日本政府は米軍機を制限できず、子どもたちを避難させている。(同じ敗戦国の)ドイツやイタリアは駐留米軍に国内法を適用させ、主権を取り戻す運動をしている」と述べ、外国と対比し日本の主権確立の必要性を訴えた。
 会場からも連帯の声 多嘉山・徳森氏 沖縄の現状世界へ 東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会が5日に催した公開シンポジウムでは、動画サイト「ユーチューブ」で基地問題について発信している多嘉山侑三氏と、9月の知事選で玉城デニー知事支援に奔走した徳森りま氏もマイクを握った。多嘉山氏は沖縄の基地問題に関するデマや事実誤認に対抗しようと、分かりやすく事実を伝える活動を続けている。シンポジウムでは1995年以降の普天間飛行場を巡る問題を振り返った。「県民の声がことごとく踏みにじられてきた。沖縄のことは沖縄が決める。そう声を上げ続けていこう」と呼び掛けた。
 徳森氏は知事選で10、20代の支援者が沖縄の将来を思い描きながら当事者として活動した経緯を紹介。「日本政府を飛び越え、沖縄から世界に平和を発信したい。他の地域で課題を抱えている人たちと手を取り合い、怒りのエネルギーをポジティブに変えて取り組みたい」と語った。ー


犬ふぐりを愛した故高田風神子先生

犬ふぐりを愛した故高田風神子先生 019・5・30
 私が所属している俳誌「雛」とその前身の『惜春』でご指導を頂いた、高田風神子先生が3月10日にお亡くなりになった。私が俳句に出会ったのは少年時代だった。叔父茂から私の祖父母に宛てたハガキである。南方派遣沖6094部隊濱野隊4班上畑茂とあった。ハガキには「炭を焼く老爺の肩に白き雪」という一句が記されていた。そして戦後、この部隊は最前線の南太平洋ブーゲンビル島に派遣されていたとわかった。叔父は敗戦の二日前ので1945年8月13日死亡していた。戦後半年後の冬、叔父の戦友が復員して、指の骨の欠片が入っている白木の箱を届けに来た。当時の戦友は栄養失調で亡くなったと告げたが、後年、最前線であったブーゲンビル島で、叔父は飢え死にしたとわかった。
◆風神子先生との出会い句誌『惜春』『雛』のご縁
 2008年の正月から、友人に誘われて渋谷区の旧小学校の会議室で月一回開かれる「風鈴の会」に参加することになった。「牛に引かれ喜寿の手習ひ初句会」である。句会の指導者は、福神規子先生だった。やりはじめてみるとなかなか面白い。気のおもむくままに俳句や短歌らしきものは詠んできたが、先生に指導され、他人の目に晒されて句をつくるという経験はなかった。福神先生が句誌『惜春』の主要メンバーであり、主宰者、高田風神子先生のご指導をも受けることになった。以降、昨年末まで足かけ10年間お世話になった。
 高田風神子先生は、犬ふぐりの花を殊に愛された。先生の訃報を聞いた後、私は千代田区の高齢者センター 輝きプラザで読書室に備えられてある講談社の「カラー日本俳句大事典」を開いて犬ふぐりの項を検索した。するとこの解説者が風神子先生だったことを発見した。私は亡き風神子先生の温容に接したように嬉しくなった。以下にその解説と風神子先生の犬ふぐりの句を紹介する。
―解説 春まだ浅い頃、日溜りにこの花を見つけることはうれしい。空色をした小さな花で、朝日を受けて開き夕方閉じる。路傍や賭が至るところに、地を這うように茎が拡がっている。葉には鈍いぎざぎざがある。ゴマノハクサ科の越年草で、踏まれても咲く雑草の強さがあり、花期は長い。つくづく見ると、花弁に大小があり、黙って空を向いて咲いている姿はいとおしい。正確にはおおいぬのふぐりで、明治以後の帰催植物である。ふぐりの名は、その実の形から出たものである。(高田風神子)―
 犬ふぐり数へ切れずに楽しけれ 腰下しけり犬ふぐり咲くなべに
 犬フグリわが世の春のごと多し 太陽は我にもやさし犬ふぐり
 犬ふぐり一国をなすほどにかな 知る人の知るこの径の犬ふぐり(惜春近詠集 四季の歌)
  歳時記に師の名遺れり犬ふぐり 漫歩

郵便友だち二人の脳梗塞と脳出血 

郵便友だち二人の脳梗塞と脳出血 019・4・24
 長年の郵便友だち二人が倒れた。一人は岡山の友人Tだ。彼は徘徊より二歳年上の88歳。昨年暮れ、脳こうそくで倒れて入院し、幸い小康を得て岡山市郊外の住居で、一人で生活している。4月初めに帰京した際、再会した。元気そうで安心して帰ったが、最近の便りでは、血圧が百以下に低下して、なかなか治らない。血圧低下の薬はあるが、血圧上昇の薬はないそうだ。食生活を変えなければならないが、簡単には行かないそうだ。電話しても最近は中々出てこない。いったいどうなっているのだろう。
 彼とは岡山時代の、19歳から22歳までの4年間、兄貴分でいろいろ世話になった。というわけだが、インターネットもメールもやらない。1955年から延々64年間の郵便友の会だ。細かい字で書いてくるが、判読しなければわからない字が多くなったが、長年の経験で意図するところは判明する。
 もう一人の郵便友だちは、北海道網走郡に住むご隠居である。網走郡津別町という、北海道随一の寒冷地に住んで27年。これまた手紙かハガキでしか連絡できない。岡山の友人もご隠居も携帯電話だけは持っているが、こちらで書けない限り掛けて来ない。ご隠居の方は、病気一つしないで、500坪の山林に土地を買い、山荘を建てて、これまた一人住まいだ。車に乗らなければ外出できない。何しろ最寄りの北見市の病院に行くだけで約一時間かかる。そのご隠居が3月に脳出血で手術した。どうやら一週間くらいフラフラして体調が悪かったらしい。たまりかねて救急車も呼ばず、北見市の日赤病院に車を運転して行った。
 即座にに脳出血と診断され手術。これまた成功して退院した。先週、検査のため北見市に行ったそうだ。医師曰く、最初の手術した側が落ち着いて心配ない。だが反対側に多少の出血がある。手術する程ではないが様子を見よう、という診断だった。ご隠居に言わせるろ悲喜相半ばするげんじょうだという。彼とは、住民運動のつながりで、1972年に初めて苫小牧市で会った。それ以降延々47年間の郵便友だちだ。多くの友は去り、病に倒れる中で、網走郡津別町の山中で、悠々ひとり暮らしを楽しんできた。だが、今後はどうするか。車なしでは生きて行けないご隠居の今後が心配だ。ずいぶん前から、もういい加減に病院に近い北見市か釧路市に移ったらどうか、と行って来たが、未だに網走山中の山荘で思案の最中のようだ。
 当方も最近物忘れ激しく、ときには奇怪なことが起きる。昨日も袋を持って買い物に出かけた。帰って見ると、果物や豆腐の下に見たこともないベレー帽が入っている。いったいこんなものがどこから入って来たのか見当もつかない。要するに日々ボケが進んで、瞬時に物がなくなる。今から10数年前の2003年に、物忘れがはげしく脳神経外科で診察を受けた。その時まだ大丈夫と言われた。若い神経外科医は言った。徘徊さん、好きな人の名前は忘れてよろしい。しかし嫌いな人の名前を忘れるようになったら危険です、とアドバイスを受けた。徘徊はまだ嫌いな奴の名は忘れていない。それだけを根拠に認知症検査をしないのだ。

記録抹消で逃げまくる安倍政権 

記録抹消で逃げまくる安倍政権 019・4・18
安倍政権の記録抹消指示が大きな問題となっている。西日本新聞でも、都市圏総局次長の植田祐一氏がこんな話を明かしていた。植田氏の〈旧知のキャリア官僚〉の弁によると、ガイドラインが改正される直前の昨年3月末、上司から公文書管理にかんしてこんな指示がなされたというのだ。「機微に触れるものは記録に残さず、頭の中にメモせよ。報告する際は口頭で」。首相官邸で首相秘書官らと打ち合わせる際は「メモ厳禁。録音不可」の徹底が言い渡されたという。〉(西日本新聞2018年7月13日)
◆安倍麻生“忖度道路”問題でもさっそく「記録がない」!
 Masashi Hiranoメールが以下のように伝えている。
―ようするに、森友の公文書改ざん問題の発覚で、安倍首相は「私のリーダーシップの下、公文書管理の在り方について政府を挙げて抜本的な見直しをおこなう」などと述べたが、その見直しの結果、もはや公文書を改ざんしたり隠蔽する必要がないよう、そもそも記録を残さないようになってしまった。つまり、安倍首相が「徹底的に実施する」と言っていたのは、「正確な面談記録をこの世からなくしてしまう」ことの徹底だったのである。
 実際、すでに具体的な問題も起こっている。「安倍麻生道路」「忖度道路」疑惑をめぐっては、自民党の大家敏志参院議員が自身のFacebookで、昨年12月19日に自民党の北村経夫参院議員と財務省を訪問し麻生太郎財務相に陳情をおこない、麻生財務相からも「しっかりやってほしい」と言葉をもらったことを写真付きで報告していた。
 だが、財務省はこのときの面談記録は「ない」とし、麻生財務相も「陳情を受けた記憶はない」と言い張っている。福岡県選出で麻生派の子飼い議員である大家議員が写真まで公開しているのに、「記録がない」ことをいいことに「記憶がない」で逃げているのだ。
 記録さえなければ逃げおおせる。森友文書改ざん問題と内部文書が続々発見された加計問題を通して安倍首相が学んだことは、ようするにそういうことだったのだ。事実が記録として残されないという、ジョージ・オーウェルの『1984年』さながらのディストピア小説のような現実が、いまこの国では進行しているのである。―

古里の友人見舞と墓参りへ

古里の友人見舞と墓参りへ 019・4・14
 4月始めに岡山の友人の病気見舞いと墓参を兼ねて、3泊4日の一人旅をしてきた。何しろ18歳の時に故郷、岡山県苫田郡香北村越畑という山村から、岡山に出て行った。そして22歳の時に東京に出てきた。以来星霜68年、故郷は遠くなりにけりだ。朝の新幹線特急ひかりに乗車。東京発10時3分に乗って、直通で岡山まで約4時間余かかる。そして岡山から津山行きの列車に乗って各駅停車で約一時間半。合計4時間半かかる。そして津山市のビジネスホテルに一泊。翌朝の津山発のバスで約1時間かけて、奥津温泉で降りる。そこからまたおタクシーに乗って峠を越えて約30分、やっと故郷鏡野町越畑なる山村に着く。ここが私の郷里なのだ。東京から墓参するには、約6時間列車とバス、タクシーを乗り継いて行くのだ。
 昔はと言っても、1950年代から60年代くらいまでは津山市から越畑まで直通バスが出ていた。しかも越畑ダムという小さなダムが出来て、観光客も増えたりして、山村も賑わっていた。だが60年代の高度成長政策で、一毛作の貧しい自作農は、田畑と家を売り払って姫路とか大阪に出かけて、そのまま都市の住民となる道を選んだ。私の父や親戚の従弟など一斉に大阪に移り住んだ。
 田舎の若者はことごとく故郷を捨てて都会に向かった。多くは土建屋の現場作業員となり、その子弟たちは自衛隊や警察署、あるいは大阪の私鉄の従業員となって定着した。真っ先に田舎の小学校は廃校になり、町村合併で新たに鏡野町に編入し、町の中央に出来た小学校、中学校に町のバスで通学することになった。
◆旧友山田昇君 田圃づくりで生涯を終える
 数十年を経て、今や古里は限界集落を通り越して、わが小学校時代の友人たちも、ほとんど生きていない。唯一の小中学校の友人山田昇君も、昨年半ば急逝した。今回の墓参の目的は、父祖の墓参りと同時に、唯一の同級生山田君の墓参でもあった。彼の真新しい墓を撫でながら「おい、よく頑張ったなあ」と声をかけた。最後まで田畑を守り続け、老妻とともに一毛作の田圃仕事を続けた生涯だった。子ども2人に恵まれたが、2人とも幼くして夭折した。それでも明るく、部落の世話役も務めながら、人生を全うした。古里の自然はいまなお美しく懐かしい。しかし人影は全く見えなかった。私は昔の幻だけを追ってひとりで歩き、またタクシーで奥津温泉まで引き返した。
 津山に引きかえして、そのまま岡山行きの鉄道に乗った。夕方は岡山駅前のビジネスホテル東横インに泊まった。そして岡山市の友人Tと再会した。彼は岡山市時代の4年間、良き友人であった。悪い遊びなども教えてくれた2歳年上の悪友でもある。愛妻は二十年前に亡くなりひとり生活だ。そして昨年暮れ、脳こうそくで倒れた。幸い命を取りとめて現在は小康を保っている。あちこち病気をして切り刻んでいるが、いまなお介護認定も受けず、一人で買い物をしている。いくら介護認定を受けろと説得しても聞かない。頑固者だ。今徘徊より2歳年上の88歳。彼曰く「なんとか90歳まではいきるよ」。
  ダムに消えし過疎の古里山笑う 漫歩
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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