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中川秀直元自民党幹事長 原発の再稼働を進めるのは犯罪的 21・4・10

 毎日新聞 2021/4/2 東京夕刊 が中川秀直・元自民党幹事長(77)が、原発廃止とエネルギー政策の転換を求めて活動していると報じた。以下に要旨を紹介する。
安倍晋三前首相らの出身派閥、清和政策研究会(清和会、現在の細田派)の代表世話人を務めたこともある政治家が、政界引退後の今、「原発再稼働は犯罪的。亡国の政策だ」とまで言い切るのはなぜなのか。東京都内の事務所を訪ねて疑問をぶつけた。
◆全部ウソだったと分かったからですよ。原発の『安全』『安価』『安定』、すべて虚構
 中川氏の答えは明快だった。「信じていたんです。資源のない日本で、温暖化を防ぎながら、しかも安いエネルギーは原子力しかないと。日本の原発は『多重防護』で守られていて、原子炉格納容器は絶対に壊れないと専門家から説明されていた。自分でも勉強して、そう確信していました」
 ところが2011年3月11日、東京電力福島第1原発は東日本大震災の激しい揺れと大津波に直撃され、3基がメルトダウン(炉心溶融)。東電が「絶対に壊れない」と主張してきた格納容器の底が抜けて核燃料が溶け落ち、建屋が爆発して大量の放射性物質が大気中にばらまかれたのだ。あの日、中川氏は目が覚めたという。
◆政府も東電も皆、間違っていた『想定外』だったとして、誰も責任を取らない
 事故から10年たっても、東電はいまだに推定880トンもの溶融燃料(核燃料デブリ)を手つかずのまま取り出せていない。これは米スリーマイル島原発事故の7倍近い量だ。仮に取り出せたとしても、どこで保管し、どこで処分するかは今も決まっていない。一方で高濃度の汚染水が発生し続け、敷地内の土壌自体も汚染が止まらない。この汚染土も外部に運び出しようがない。
 深刻なのは、事故後に16万人が故郷を追われ、そのうち数万人が今も避難生活を余儀なくされていることだ。「10年前の今ごろは首都圏を含む5000万人が避難を強いられる一歩手前だった。原発事故が起きると、国がなくなる恐れがある。亡国の道具と言っていい。なのに今だけ、金だけ、自分だけのために原発の再稼働を進めるのは亡国の政策であり、犯罪的です」
◆もうチェルノブイリのような巨大な石棺を造って建屋全体を覆うしかない
 語り口はソフトだが、目が怒っている。愛する郷土と国土を守り、国民の生命財産を守ることを最優先に考える保守政治家だからこそ、原発に固執する勢力を許せないようだ。「既にたまっている放射性廃棄物だけでも広島・長崎の原爆数百万発分に相当する量です。中間貯蔵も最終処分もできないまま増えてきた。今や原発は日本最大の危険物です」
 そして10年前を振り返り、申し訳なさそうに言葉を絞り出した。「もうチェルノブイリのような巨大な石棺を造って建屋全体を覆うしかない。私たちは福島で手のつけられない地獄を見ました。私が一生懸命に取り組んできた原発推進はまったく間違いで極めて責任が重い。心から深く反省し、おわびしなければならないと考えています」

 「再生可能エネルギー100%になれば、化石燃料を輸入する年間25兆円が不要になり、国富は海外に流出しない。温室効果ガスも出なくなるし、設備投資や地域産業の活性化で日本経済は大発展する。2050年には実現可能です。そのための民意をつくる努力を、私は続けていきます」 
 ■人物略歴 中川秀直(なかがわ・ひでなお)さん
 1944年、東京都生まれ。慶応義塾大卒業後、日本経済新聞記者を経て76年に衆院旧広島2区から新自由クラブで初当選。96年、橋本龍太郎内閣で科学技術庁長官。2000年、森喜朗内閣で官房長官。自民党では02年から国対委員長、05年に政調会長、06年に幹事長。07年、森会長退任で清和会の代表世話人に。12年の衆院選に出馬せず政界引退。当選10回
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らい病の歌人明石海人『白猫』との数奇な出会ひ 21・4・5

 40代半ばのころ、友人の今泉清君が連れていってくれた酒場のひとつに「捕鯨船」といふ飲み屋があった。浅草の連れ込み旅館などもある猥雑な通りにある小さな店である。あまりきれいとは言へない便所に入った。酔客たちの見るに堪へない落書きが溢れてゐた。そのなかにキラリと光る落書きを発見した。「深海の魚族のやうに、自ら燃えなければ何処からも光は来ない」と書いてあった。天啓のやうに思へて、それを自分の手帳に書き留めた。
 ところが二〇一〇年の正月、沼津の千本浜にある若山牧水記念館を訪れたときのことだ。そこには沼津出身の作家や歌人の歌集や詩集が多く展示されてゐた。明石海人『白猫』といふ冊子を手にとって見た。目を疑った。その歌集の序文に、なんと「深海に住む魚族のやうに・・」といふ言葉が載ってゐた。
 明石海人といふ名前の歌人もはじめて知った。彼は昭和初期までは地元沼津の小学校教師で妻子ある幸せな生活を送ってゐた。だが二十六歳の時、らい病に侵されてゐることがわかり。岡山県長島愛生園に収容された。つひに目も見えなくなり、指が変形して文字も書けないなかで、自らの境涯をうたった癲歌集『白猫』(改造社刊)を出版した。世の絶賛を受けてベストセラーとなるが、その年、一九三九年に三十七歳の若さで病没する。明石海人の最後に到達した心情と詩情が『白猫』の序文に表現されてゐる。
「癩は天刑である。加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜つて一縷の光を渇き求めた。―深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーさう感じ得たのは病がすでに膏盲に入つてからであつた。齢三十を超えて短歌を学び、積年の苦悩をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。癩はまた天啓でもあつた。」
(俳誌「雛」2021年3月号所載)

流涕(りゅうてい)涙を流すこと。また、 激しく泣くこと
抃舞(べんぶ)喜びのあまり、手を打って踊ること

命の恩人内科医林次郎郎先生 岡山社会党の時代 21・3.30

貧しい時代だった。戦後の一九五一年から五五年までを岡山の社会党県連の書記として過ごしたが、医者にかかることは大変だった。もちろん医療保険制度もなく、ましてその日暮らしの身では、身体が少々悪くても医者にかかるなぞ、できない相談だった。ところが大病をした。五六年から一年間、岡山の社会党県連の専従で働きすぎたことや、年上の女性との恋愛、失恋とお定まりのコースで、心身ともに衰弱した。十九才の春、急性腎盂炎という、むやみに身体がむくんでくる病気になった。体重が急激に四、五キロ増えた感じになる。石原元夫という社会党の先輩が心配して、金のない私を津山の林内科医院というところに連れていった。林次郎先生に「この青年は金がありませんから、タダで治してやって下さい」と頼んでくれた。先生はニコニコして「わかりました」と引き受けてくださった。どうやら社会党のシンパ的な存在だったらしい。
 林先生にいわれた。「あなたの腎臓はかなり悪い。ほっておくとあと十年の寿命だ。まじめに食事療法でやるしかない」と宣告された。若さというのは不思議である。後十年といわれたときにさほどショックはなく、後十年は生きられるのかと、ほっとした。おまけに失恋の痛手でいささか厭世的となっていた。「このまま美しい思い出を抱いて死にたい」などとバカなことを真剣に考えたりしていた。しかし林先生の人柄と、やさしい美人の看護婦さんに救われた。まじめに治療しようと、一時的に岡山の社会党を辞めて、故郷に帰った。そこで祖母が減塩食をつくってくれた。塩気のない鯉のエサの麩を浮かした味噌汁や、利尿作用があるいう西瓜を毎日食べた。半年ばかりの休暇と治療でほぼ全快した。また秋には社会党岡山県連に復帰した。
 一九五五年秋に、わたしは命の恩人に挨拶もせずに東京に旅立った。いつも心の中には林次郎先生とやさしい看護婦さんのことがあった。星霜流れて四〇余年、九七年に津山市まで帰ったときに、思い切って林内科病院を訪ねた。すでに病院は先生のご子息の時代となっていたが、先生は八十七才でご健在と聞いた。先生に電話して「四十五年も前に、お世話になった仲井です」といったが覚えているはずもない。だが「僕の書いた本をもらって読んでくれ」といわれた。「鴉の置き石」という林先生の本が、いま手元にある。あのころ十九才のわたしに「後十年だぞ、気をつけろ」と忠告した先生は当時、四十代まだ前半だった。そして「金がないからタダで診てやってくれ」とわたしを連れていった石原元夫先輩は能ある故にあちこちに事業をひろげ、ついには倒産したりして苦労の末、三十代でこの世を去ったと聞いた。二十代後半と林先生にいわれて、すこしは気をつけて過ごしてきたわたしは、ときどきむくんだり、蛋白が出たりしながら一病息災で古希まで生き延びた。
 「鴉の置き石」はいま流行の明るく楽しい元気な老人の物語ではない。逆に暗く、陰鬱に、この地球と人間存在の根底に触れるうめき声を発しているようだ。以下に一端を紹介する。はしがきの中で先生はいう。「八六才にもなる爺さんは毎日どう暮らし、頭の中で何を考えているのか。人のことは知らないが、私は頭の中でつぶやき続けている。人に通じることは全く考えないで、自分自身がこの人生に納得するために考えている」と。また先生は散文詩「願わざるにこの生を受く」のなかで、「万物進化は滅びるものを創ることである。その進化から生じた意識は宇宙の悲劇である。神は存在するかも知れないが、それは救いを与えるものではない。それは絶体絶命を教えるものだ。医学は生命の一部を救うが、後は治療という名で、絶望を引き伸ばすだけだ。科学も宗教と同じく、絶体絶命を教える。念仏三昧とか、神への絶対服従とかは、人間自由の放棄、人間願望の拒絶といえる」。先生は「おことわり」という項で「私の散文詩は多くの人の反発を買った。つけ加えれば、医師として、余りにも悲惨な死を見続け、人生の暗い面を知ったことである。そこから人間を眺め(人間の立場からでなく、一つの生物に過ぎないという立場から眺め)人類を必ずしも高等で喜ばしい存在と思うことができないのである。・・それぞれ自己中心的に生きざるを得なくなったこと、生物の宿命として他の生物を殺して生きる糧とせざるを得ないこと。人間は奢りすぎていないか、人間を地球の支配者、神の子としてすべての人間横暴を隠しているのではないか」と結んでいる。
林次郎、平成十七年(2005)8月12日没、94歳、
津山市伏見町本、玉林寺、智徳院釋眼正數聚、2006年9月帰郷、墓参
『鴉の置き石』1997年1月発行、当時林先生86歳

日本滅亡は無人攻撃機1機で足りる 首都水没の危機 21・3・22

 地震が頻発している。私はそのたびに震えている。地震も怖いが、更に地震による江東地域の地下鉄への津波に流入で、東京の地下鉄全線が水没する危険に怯えるのだ。それは2014年8月2010年(平成22年)4月、国は報告書「首都圏水没」を公表した事を含めて、地震や集中豪雨で、荒川や利根川の堤防が決壊。濁流が住宅街や地下空間を襲うような大規模水害の発生を想定し、その被害などをまとめたことを知ったからだ。
◆著書「首都水没」で日本滅亡の危機を警告した土屋信行
 元都庁職員で工学博士の土屋信行氏は著書「首都水没」のなかで、東京の場合は、大潮の満潮時にゼロメートル地帯の堤防のどこか1ヵ所を破壊するだけで、首都が水没し、地下鉄、共同溝、電力通信の地下連絡網のあらゆる機能が失われ「日本沈没」と警告する。
「日本を攻撃するのに大量の軍隊も核兵器も必要ありません。無人攻撃機1機で足りてしまうかもしれません。ゼロメートル地帯の提防をわずか1ヵ所決壊させるだけで、日本は機能を失うのです。まさにゼロメートル地帯の堤防は、日本にとってのタイトロープです。だからゼロメートル地帯の堤防は、壊れない堤防にしなければならないのです。ゼロメートル地帯の治水対策とは「洪水対策」であり、住民にとっての逃げられる「命山」であり、そして日本にとっての「安全保障」なのです。まさに「水を治める者は、国を治む」なのです」。
◆地下鉄はすべて水没、全都の軒脳喪失の危機 馬鹿みたいな専制攻撃兵器
 中央防災会議のシミュレーションは、荒川放水路の右岸で堤防が決壊した場合、11分後には、水は700m離れた南北線の赤羽岩淵駅に到達。駅入り口の1mの止水板を軽々乗り越え、水は地下鉄の駅に流れ込む。水は地下鉄トンネルを通って、次々に次の駅に流れ込む。大江戸線は、すべての地下鉄とつながっているので、堤防決壊6時間後には、西日暮里等6駅、9時間後には、上野駅等23駅、12時間後には、東京、大手町等66駅が水没。
動画「荒川氾濫」より、銀座水没のイメージ(国交省荒川下流河川事務所YouTubeチャンネル)
 先制攻撃兵器に5000億とか1兆円とか騒いでいる日本のバカ政治家どもに聞かせたい話だ。危機は目の前の地下鉄水没で首都の全機能喪失にある。

脱原発スタンディング@石神井 石川博美 20・3・13

かつて社青同の同志 増野潔君の呼びかけで、集まった反原発グループのメンバーの一人、石川博美さんからのメールでの便り。増野君はかつて60年安保の11・27国会突入事件の先陣を切った社青同メンバーの生き残りだった。だが彼は病に倒れ、わがグループは解散状態だが、ひとり頑張っているのが練馬区役所退職後5年の石川博美である。以下にそのメールを紹介する。

 みなさま おはようございます。昨日は、金曜日の晴れと今日の晴れに挟まれて、寒い雨模様。「事故」から10年ということもありましょうが、60名ほどの方たちの参加で、石神井公園駅ロータリー北側を埋め尽くすほどのスタンディングができました。
 オープニングはマッシーさんの三線弾語りで弾みをつけて、福島こども保養プロジェクト、元気力発電所、核・原発のない未来を子どもたちに、子どもたちを放射能から守る練馬ネット、ヒバクシャ国際署名推進ねりま連絡会、
練馬在住反原連スッタフ。いろいろな活動の積み重ねの上に立ったアピールをしていただきました。
最後は、マッシーさんのカチャーシーで(通路なので)心で踊って散会しました。、終了後の集合写真です今日は10年と3日。明日は10年と4日です。原発事故に「節目」はありません。ほかの運動もそうですが、続けることが大事。新しい世代を巻き込みが課題だと思います。

石川 博美
原発2103



助川さんの教え 歩けなくなってテレビだけを見ていると呆けが始まる 21・3・5

◆知能指数が高くても歩けなくなってテレビだけを見ているようになると三ヶ月で呆け
私の公害問題の師 助川信彦横浜市公害局長は2010年10月11日、92歳で大往生された。助川さんの教えで今でも覚えているのは、呆ける人と呆けない人の話である。助川さんに話しを聞いたのはそれ以前の老人ホームの医師のころだ。    
助川信彦さんはかつては飛鳥田市政の時代に「横浜方式」なる公害対策を樹立し、公害局長を最後に六十歳で定年退職、並みの役人なら天下りでどこかへ行くところだ。だが助川さんは医師という天職に忠実な生き方を選ばれた。横浜にある特養老人ホームに併設されている「天神診療所」の医師となり、身寄りのない老人らを十余年診察された。あるとき、呆ける老人と呆けない老人を観察していると面白い発見があるといわれた。
「呆ける人を診ていると、まず脚がだめにになって寝たきりで、テレビだけ見ているようになると三ヶ月で呆けが始まる。手が不自由だろうが、耳が遠くなろうが関係ないが、足がダメになるのが一番怖い」
◆呆けない老人に共通の特徴 足腰がしっかりして遊び心と趣味
 また呆けない老人には共通の特徴がある、として、老人ホームで呆けないで居る女性を観察した結果を話された。「まず足腰がしっかりしていることと、そのためには体を動かす能動的な趣味を持っていること。つぎに適度なストレス、心配事があるということも呆け防止につながる。頼りない息子があちこち放浪している。いまはあの子はどこにいるのかしら、と地図をひろげて案じている」
助川さんはさらにもう一つ、呆けないための秘訣として、つねに精神的明るさ、お色気、ちゃめっけが必要と言はれた。「昔は色町で働いていた老女が、診察室に来て、ハイ、先生、ラブレターなどとおどけて、和歌や俳句、都都逸などを書いて渡す。そういう色気というか遊びごころのようなものを失はないことがとても大切だ」
『心に花を持て』ということだろう。

福島第1原発事故振り返る 脱原発こそ生きる道 村上達也前東海村村長 21・3・1

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もなく10年。「原子力発祥の地」ともいわれる東海村で村長として原発事故と臨界事故を経験した村上達也氏(78)が毎日新聞のインタビューに応じた。原発事故を主なきっかけとして「脱原発」を訴えてきた村上氏は「事故を経験しても日本は変われなかった」と振り返った。以下は毎日新聞21年2月22日の要旨である。【聞き手・鳥井真平】
◆福島の原発事故から10年が経過したが、事故は安全神話と人災
このとき、村役場の朝礼で職員に「人に冷たく無能な国に原発を持つ資格はない」と伝えた。村は1999年に核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界事故も経験した。臨界事故も原発事故も基本的に同じだ。立地地域には人が住んでいて、文化もある。(混乱する国などの対応を目にして)経済発展を優先し、住民に配慮がない国なのだと思った。原発事故は起こるべくして起きた。人工的に建設したものには技術的な面で穴がある。それを想定して利用するのは許せるが、「完璧な技術で防護策はとれている」などと説明してきたのは、寓話(ぐうわ)だ。電力会社は安全神話を作り上げてきた。県内にも津波が押し寄せた。東北の三陸地方のように海岸線が入り組んでいないため、私も鹿島灘に津波は来ないと考えていた。完全なる不明で、間違いだった。
◆事故は原子力政策の転換点になり得る出来事だった
日本は地球温暖化対策の必要性から、原発の復権を唱える「原子力ルネサンス」を叫んで原子力を推進してきた。しかし、「地震大国」と呼ばれる日本で原発を稼働させ続けるのは無理があった。もっと慎重になるべきだったし、国を挙げて推進してきたことを反省し見直すべきだった。しかし、日本は変われなかった。政府は現行のエネルギー基本計画で、全電源に占める原発比率を2030年度に20~22%とする目標を設定している。核燃料を再利用する「核燃料サイクル政策」の中核施設だった高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の廃炉が決まったのに、国は核燃料サイクルの看板を下ろさず、いまだに続ける方針を示している。
◆立地自治体の首長が再稼働に同意することが理解できない。何も学ぼうとしていない
東海村には日本原子力発電東海第2原発があるが、30キロ圏内に住む住民は国内最多の約94万人。(原発事故の避難状況を踏まえれば)避難計画通りの避難はできないだろう。94万人を避難させることができるなんてばかげた話だ。実行できないことを、できるかのように作るのは、時間と労力、税金の無駄と言える。人口が多い場所での再稼働はあってはならない。
村上達也(むらかみ・たつや)氏
 1943年、東海村出身。66年一橋大社会学部卒。同年常陽銀行に入行し、ひたちなか支店長などを経て97年から東海村長を4期務めた。99年の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」臨界事故では、国内初の住民避難要請を決断。2011年に起きた、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故後から「脱原発」を訴えている。
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
88歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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