映画「おだやかな革命」の話、

映画「おだやかな革命」の話、通産省前テントひろば 18・2・17
 通産省前テントひろば1807日後、テント日誌2月15日号に映画「おだやかな革命」の話が載っていた。以下要旨を紹介する。
―経産省の近くに来ると鳩が次々と飛んできた。顔に激突する直前でターンして減速し地上に降りる。何羽もやって来て視界は鳩でいっぱい。今日も座り込みのオープニングは鳩吹雪とプラタナスの木に満開の雀たち。東中野ポレポレで「おだやかな革命」を観てきたIさんが映画を紹介してくれた。それは小さな地域社会が目指すそれぞれの「エネルギー自治」のドキュメンタリー。畜産農家が立ち上げた飯舘電力、石徹白(いとしろ)の100世帯全戸が出資した小水力発電、首都圏の消費者・地方の農家・食品加工業者が連携して進めている秋田県にかほ市の市民風車。森林資源を生かしたビジネスを立ち上げる岡山県西栗倉村等々。 
自然エネルギーを中心に話が弾んだ。皆の質問に勉強家のUさんが話題の上昇気流になってくれた。「止める・阻止する」話も大切だけれど「始める・進める」話はとても楽しかった。アベ船籍のガレー船に乗らず自ら作った小舟のオールを漕ぐ。ワクワクするな。アベが言うカクメイ?とは大違いだねー
◆畏友加瀬勉の映画と著書発刊「加瀬勉戦いに生きる」の知らせ
 私も時々中野ポレポレで映画を観る。昨年はいまなお続く三里塚闘争の第三期工事反対を含めた闘争参加者の話を撮った「三里塚のイカロス」を観た。このなかに砂川闘争以来の友人である加瀬勉も出ている。82歳の彼はいまなお空港騒音下の千葉県多古町で2町五反の田圃を耕す現役農民だ。彼から昨年末自著『加瀬勉戦いに生きる』発刊の知らせがあった。
 ー仲井大兄 気力十分「こんな世の中を残して死んでたまるか」お互いに健在でなにより。俺のことを映画に撮るなら底辺で生きている人を社会の表舞台に立たせて発言の機会をあたえろ。年明けて新年には「加瀬勉戦いに生きる」800頁、4500円の本が出版される。こんな高価な本を日本の大衆は読まない。俺のことなどどうでもよい。大衆のなかへ、大衆のなかへ。大衆路線を堅持して自民党独裁を倒さなくてはならない。社会党が消えて、共産党が三里塚から逃げて、新左翼は霧散無消・立憲、民進党は無能力市民権無し。55年間、命を懸けて闘ってきてこのありさま。虚しさを克服して奮いたつ毎日である。「一日一生」わが命尽きるまで、前へ。

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名護市長選挙敗北 嘆かず依存せず 

名護市長選挙敗北 嘆かず依存せず 18・2・10
 名護市長選挙の敗北をどうみるか、友人の毛利さんからい「チョイさんの沖縄日記 辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録 嘆かず、依存せず、できる限りのことを黙々と、淡々とやっていく」という記事が寄せられた。同感する点が多い。以下に要旨を紹介する。
 ー018年02月04日  名護市長選、稲嶺さんが負けてしまった。しかし、打ちひしがれるわけにはいかない。私は2月3日(土)、ゲート前の集会で、工事の状況について説明を求められてマイクを握った際、最後に次のように述べた。「投票日の前日にこんな話しをするのは不謹慎だとしてお叱りを受けるかもしれませんが、明日の選挙結果によっては万一の事態もあり得ます。しかし、その時でも私たちは、ああもうダメだと諦めるわけにはいかないのです。私たちが諦めてしまった場合、防衛局はどんな違法工事でもどんどん押し進めてきます。埋立工事についての最終的な権限は知事が握っています。県民が抗議行動を強め、そうした県民の支えをもとに知事が自らの権限を毅然と行使する限り、工事はいずれ頓挫します。明日の選挙結果が万一のことになったとしても、私たちは打ちひしがれるわけにはいきません。諦めるわけにはいきません。そのことだけは是非、確認しておきましょう。ただ、
そういう事態にならないように、後で悔いが残らないように、明日の投票日までせいいっぱい頑張りましょう。」
  このような厳しい状況の中で思い出すのは、目取真俊さんの言葉だ。昨年4月、大浦湾でK9護岸のための石材投下が始まった時、目取真さんは、石原吉郎の「ペシミストの勇気について」というエッセーに触れ、「絶望も希望もない。その場でできることを黙々と、淡々とやるだけですよ」と述べられたという(沖縄タイムス 2017.4.26)。この目取真さんの話を「視点」というコラムで紹介した阿部岳記者も、「力をくれるのは、やはり単独者としての勇気なのかもしれない。嘆かず、他者に依存せず、一人一人が『命と尊厳は諦められない』と、自らに確かめることはできる」と、そのコラムをまとめている。嘆かず、依存せず、黙々と」。今、私たちに求められているのは、このことである。ー (目取真 中原吉郎 ペシミストの勇気 沖縄タイムス 2017.4.26) クリックで拡大

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温故知新新潟の旅と三宅正一さんの体操教室

温故知新新潟の旅と三宅正一さんの体操教室 18・2・5
 最近、新潟米軍飛行場反対運動のことで新潟に行くようになった。1月の初めに新潟までメールマガジン・オルタの加藤編集長と出掛けた。そのことを1月20日のオルタに書いた。それを見た、三宅正一さんの元秘書であり、近代政治史研究者の飯田洋さんから連絡があり、先月25日加藤さん宅でお会いした。三宅正一さんに関連するの戦前戦後の農民運動の記録も二冊出されている方だ。そのとき、かつて三宅正一さんに体操教室に誘われたことを思い出した。その話を飯田さんにしたのだ。それは以下のような切っ掛けで始まったのである。
◆トミくん四十才からが大事だぞ
「おいトミくん、いくつになった」と聞かれたので「ちょうど四十才になりました」と答えた。「トミくんこれからが大事だぞ。体を鍛えなければダメだ。ぼくのやっている体操教室に来い」といわれた。いまから45年前、三宅正一さんの議員会館の一室での会話である。戦前からの無産運動の闘士で、新潟の農民運動を指導した高名な政治家として知られていた三宅さんは、当時73才だった。なかなか面白い方で、遊説に随行すると迎えの車を待っている間、道路わきで「おい君、体操しよう」と背広を脱ぎ一、二、三、四と声をあげてラジオ体操を始めた。わたしも恥ずかしい思いをこらえながら従った。  
そういうことを覚えていて声をかけていただいたのか。ともかく国会の近くのビルで、毎週一回、当時、自民党の古井喜実議員などと国会議員の有志がはじめていた体操教室に来るようにいわれた。ひとりではなんとも心細いので、公害研の渡辺文学、奥沢喜久栄さん(故人)と朝日新聞の松井やより女史(故人)を誘った。参加してみると40代前後のわたしたちは若い方で、60代以上の人が大半だった。しかもおどろいたことにこの60代が軽々と倒立転回をこなしている。両股をひろげてぴったり額が床に着く。こちらも負けるものかと小学校以来やったことのない倒立転回をやってみると怖くて回転できない。やっとごろり回転すると、くらくら眩暈がする。なにをやっても60代にかなわない一緒に行った3人の仲間は一、二回で止めてしまった。わたしは「よし続けてみよう」と決心した。3年くらい前からときどき動悸がして動けなくなったり、血圧も高い状態だったからだ。
◆水泳とジョキングで体力づくり
体操教室に通いながら、運動好きの友人にも恵まれて、土、日には泳いだり、走ったりを始めた。最初は25㍍プールを一回泳ぎきるだけで息が切れた。ランニングも2百メートルでダウンしてしまう。しかし「継続は力なり」である。2年くらいのうちに泳力、走力ともに格段の進歩を遂げた。50代になるころはプールでクロール、平泳ぎとも一㌔以上泳いでも平気、ゆっくりなら数キロ走ることができるようになった。おかげで悩んでいた腰痛が治った。血圧も運動をすれば劇的に低下することを発見した。
 三宅さんはその後、衆議院副議長となり、80年6のロッキード選挙で同じ新潟3区の田中角栄と対決するが、角栄圧勝のあおりで落選して引退された。間もなく脳梗塞で倒れて82年5月、81才で亡くなられた。「40代からが大事だぞ。体を鍛えなおすのだ。ぼくの教室に来い」と真剣な口調でいわれた言葉を45年後のいまもはっきり覚えている。以来、大きな病気ひとつせず不肖の弟子は85才まで生きながらえた。恩寵に感謝しつつ新潟再訪の旅を今年はじめる。まさに温故知新の旅なのだ.。


沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ沖縄県民にメッセージ  

沖縄の核」真実伝えよ ゴルバチョフ沖縄県民にメッセージ  18・11・31
 2018年1月31日の琉球新報は、ミハイル・ゴルバチョフ 元ソ連大統領( ノーベル平和賞受賞)が沖縄県民へのメッセージを贈ったと報じ田。以下はその要旨である。ー冷戦時代、沖縄に多数配備されていた核兵器に関する情報が、NHKの番組などで明らかになったと知った。と同時に、現在もなお、沖縄に保管されているかもしれないという危惧で私は心を痛めている。この問題は、県民に真実を公開する必要がある。私は核兵器の削減や最終目標としての核兵器の完全撤廃、国際問題に軍事力を使用しないという点を主張してきた。この観点から、沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持してきたし、今後も支持する。沖縄は、世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化がある。軍事基地の島ではなく、沖縄の人々の島であり続けなければならない。沖縄は世界の人々、文化、貿易が行き交うターミナルとしての環境が整っている。将来の世代のためにも、この豊かな環境を活用し、平和的な発展を目指されることを切に願うー。
◆東西冷戦終結の立役者で、ノーベル平和賞を受賞しゴルバチョフ元ソ連大統領
 ゴルバチョフ(86)は、核兵器の脅威が高まっている現状への懸念から、琉球新報を通して県民にメッセージを送った。「核兵器は現在もなお、沖縄に保管されているかもしれない」と危惧を示した上で「この問題は県民に真実を公開する必要がある」と指摘した。ゴルバチョフ氏は「沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持する」と強調し、「沖縄は軍事基地の島ではなく、沖縄の人々の島であり続けなければならない」と、自己決定権の行使を求めた。ゴルバチョフ氏はNHKが昨年放送した番組「NHKスペシャル 沖縄と核」で「冷戦時代、沖縄に多数配備されていた核兵器に関する情報を知った」とし、現在も沖縄に核が配備されている可能性を危惧した。
 ゴルバチョフ氏は85年の米ソ首脳会談で「核戦争は一切起こしてはならない」などとする共同宣言をレーガン米大統領と発表するなど核軍縮に積極的に取り組んできたことを強調した。その上で「沖縄での軍事基地拡大に対する県民の闘いを支持する」と、名護市辺野古の新基地建設反対運動にエールを送った。沖縄を「世界に類を見ない豊かな自然と独特な文化がある」とし、沖縄の将来像について「世界の人々が行き交うターミナル」として「平和的な発展を目指すべきだ」と強調した。

 関係者によると、ゴルバチョフ氏は3度の沖縄訪問で「海岸の美しさに驚嘆した」と語り、「自己決定権」という言葉を使って「こんな恵まれた環境下にありながら、沖縄人がその特性に気付かず、自らが豊かな明日への十分な可能性を閉ざしているとしたら、極めて残念なことだ。次世代の子どもたちのためにも、平和で豊かな発展は、沖縄人の手の内にあることを、もう一度考えてほしい」と述べ、自己決定権の行使を求めたという。
2月4日投票の名護市長選が注目されている。名護市の勝利を願うのは、日本人だけでなく、世界の平和を願う人々も同jじ気持ちなのだ。

雪の東京で少年時代の雪の故郷を想う

大雪の東京で少年時代の雪の故郷を想う 18・1・25
 今週は早々に大雪警報、昼間から降り始めた雪は夜半まで止まなかった。子供の頃は雪国の岡山県北部の山間地帯で育った。凩のような風が二三日続く外山も田も乾ききる。その後に雪が降るとすっかり積もってしまう。そういう中で雪国の生活を学んだ。大根を雪に備えて藁などで室を作り、その中に入れる。その上にどっさり雪が積もると自然な雪室になって、適度な湿度を保って大根は腐らない。雪をかき分けて雪室から大根を取り出して食べる。
また雪の降る前に大根を洗って干して、その後大きな桶にたくあん漬けを作る。そういうやり方も祖母に教わった。さつま芋は縁側の下を掘って、もみ殻を入れて保存する。ここも適度な保温でさつま芋は一冬腐らない。どぶろくの元は米を蒸して麹を作り、それを寝かせて甘酒の元を作る。それがさらに発酵すると、どぶろくになる。
 たまに東京で大雪に逢うと、寒い寒いと閉じこもってしまうが、昔の雪国では閉じこもることなどない。雪の中で学校に行き、スキーを履いて滑る。雪合戦をする。大人は藁で編んだ草鞋を履いて炭焼きなど山仕事にでかける。すべて雪降るなかで生きてゐた。炬燵に入っての読書も雪国の愉しみだった。少年の頃『聞けわだつみの声』戦没学生の手記、が出版されたが今でも記憶に残る詩のことを思いだす。
◆聞けわだつみの声の田辺利広の詩 残雪のような希よ光ってあれ
 それは、田辺利宏という人の『雪の夜』という詩だった。後年知ったことだが、田辺は苦学して日大を卒業。広島県福山市の増川高等女学校の教師を3ヶ月ほど務めた後召集を受け中国に送られた。『きけ、わだつみのこえ』に収められている。1941(S16)年に江蘇省北部で戦死。26歳だった。その詩のなかにある「遠い残雪のやうな希みよ、光ってあれ」という言葉だすきで、いまもわすれない。全文は以下の通りだ。
 雪 の 夜 田辺利宏
 人はのぞみを喪っても生きつづけてゆくのだ。
 見えない地図のどこかに
 あるひはまた遠い歳月のかなたに
 ほの紅い蕾を夢想して
 凍てつく風の中に手をさしのべてゐる。
 手は泥にまみれ
 頭脳はただ忘却の日をつづけてゆくとも
 身内を流れるほのかな血のぬくみをたのみ
 冬の草のやうに生きてゐるのだ。

 遠い残雪のやうな希みよ、光ってあれ。
 たとへそれが何の光であらうとも
 虚無の人をみちびく力とはなるであらう。
 同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
 寂蓼とそして精神の自由のみ
 俺が人間であったことを思ひ出させてくれるのだ。

      (新潟県安塚町の雪山)

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新潟飛行場拡張反対期成同盟 関連年表 1950~1959

新潟飛行場拡張反対期成同盟 関連年表 1950~1959 資料編

●1950年
  7・ 1 第一次23町歩の農地が領軍の圧力で一方的につぶされ米軍基地になった。

●1952年
 11   第二次農地2町2反接収 第三次接収27町歩がつぶされた。

●1954年
 11・25 調達庁 第4次拡張計画発表。地元説明会で追い返された。拡張計画は、①土地約70町歩、②土地所有者240人、③世帯42人。
 12   河野新町をはじめ関係4部落が反対決議、知事に陳情書提出、
 12・20 新潟大学生自治会は、街頭で反対署名運動を開始。

●1955年
  1・14 新潟県労協の呼びかけで新潟飛行場拡張反対期成同盟発足。
  4・23 県知事選で野党の押す統一候補北村一雄、25万8千票差で自民現職を破る。
    (北村は自民の現職参議 当選:北村一男 671,007 無 落選:岡田正平 412,295 無 投票率83.60%)
  5・24 県議会で新潟飛行場拡張反対決議、満場一致。
  5・12 反対同盟知事と会見、知事は首相、調達庁に反対の意思を伝えると回答。
  5・29 福島調達庁長官、知事と会見。知事は立ち入り調査要請に、県議会決議尊重と回答した。
  6・3  衆議院内閣委員会で新潟米軍基地反対同盟箱岩善一ほか一名が参考人陳述で反対の理由を説明した。
  5・29 新潟県教組第18回大会、新潟米軍基地拡反対を決議。
  6・03 反対同盟国会対策強化、県選出議員に反対を懇請。
  7・25 知事は仙台調達局長に立ち入り調査拒否。調達局公告を握り潰し。
     新潟市連合青年団、飛行場反対総決起大会で反対を決議。
  8・ 5 閣議で拡張へ知事の協力要請、知事は、もし業務命令が出て知事の首が飛ぶようなことになれば、県民が承知しないだろうと反対持続を表明。
  9月  農民労組員による現地バリケード構築、900本の杭と5,000mのバラ線で1,500m。
  9・ 3 白山公園で新潟飛行場拡張反対県民大会、全県下から5,500名参加。砂川、大高根、浅間、その各基地代表参加。
  9・10 県市長会臨時総会、賛成多数で拡張反対決議、県内市町村議会過半数反対決議。
  9・18 反対期成同盟常任委員会、砂川町強制測量後初の会議で絶対反対の方針を確認。
     具体的には、①県知事の公告拒否をさらに続けさせる、②調達庁の強制測量は断固阻止する。
  9・21 東京行動。 22 第四回全国軍事基地反対代表者会議参加。
  9・26 地権者の委任状を取り付けるための第一回法律懇談会。
  9・23 根本官房長官、新潟基地問題で知事、県会、地元との話し合いを持たずに測量を強行したり、知事に対する公告実施の強制命令発動、また知事罷免の挙に出ることはないと語る。
  9・27 福島調達庁長官、新潟県知事があくまで公告を拒否する場合、調達庁が代理公告することが出来ると表明。
     これに対し北村知事は新潟飛行場に反対するという私の態度はいまも変わらない。地元の被害、その他基地の及ぼす影響を考えれば当然のことだと述べた。
 10・ 1 新潟市の大火発生。昭和30年(1955年)10月1日未明、当時新潟市医学町にあった県教育庁から出た火は、おりからの強風にあおられて、またたくうちに燃え広がり、市街地を火の海にした。出火原因は、教育庁の漏電とされている。8時間にわたって燃え続けた火により、市の中心部の主な建物を総なめにして、さらに礎町の方にも飛び火した、全半焼した家屋は1,000余戸に達した。
 11・20 臨時列車12両による大陳情団1,100名が夜行列車で上京。
 11・21 上野駅着、社会党軍事基地委員長加藤勘十、三宅正一、桜井、石田、稲村、清沢、小林の衆参議員が出迎え、両国国技館で砂川、大高根、木更津、茨城神之池、福岡板付など全国から合流、総勢約1,500名の大陳情団が結成された。
     10時半28台のバスに分乗して調達庁、自治省、農林省、首相官邸、米国大使館、防衛庁、大蔵省など氷雨を衝いて陳情。午後3時半から浅草公会堂で報告大会後、夜11時半発夜行列車で帰郷。
 11・22 箱岩県労協事務局長ら9名、全国軍事基地反対連絡会議参加。

●1956年
  1・ 7 闘争開き 現地闘争本部で開催。
  2・ 9 新潟商工会議所、新潟市長とともに知事に会い、他の地への移転を要望。
  2・21 全国軍事基地反対連絡会議(基地連)大阪会議に参加。
6・20 新潟市公会堂で、新潟基地拡張反対期成同盟一周年記念大会。
  8・ 9 長崎市での原水爆禁止第二回大会に保科事務局次長ら参加。
  8・15 反対期成同盟の箱岩事務局長(県労協事務局長)急逝。
  9・ 1 沖縄人民党瀬長亀次郎を迎え寄居中学校で報告会。
 10・ 2 砂川現地闘争に第一陣20名、第二陣10名参加。
 10・ 6 砂川現地闘争支援隊、当初計画の4倍122名、延べ370名が参加。
 11・20 新潟と砂川を結ぶ集会、新潟市公会堂で開催。砂川の青木行動隊長ら10余名参加、沖縄代表も参加。

●1957年
  2・13 基地反対期成同盟の婦人代表20名が砂川訪問 一泊懇談、砂川町役場で青木行動隊長ら地元民50名と懇談。
  3・30 基地反対期成同盟の要請で砂川から婦人8名が新潟へ。
  4・  社会党の全国軍事基地対策会議委員長野溝勝を団長とする9名の調査団来る。
  4・ 5 拡張反対期成同盟報告大会を開催。
  5月以降 新潟米軍基地の兵力削減、勤務要員の大量解雇始まる。
  6・17 農民労組員のカンパによる宣伝カー命名式、平和号と名づける。
  6・24 砂川、大高根、沖縄の代表を囲んで地元座談会を開催。
  7・  平和号県内を巡回、基地反対、原爆反対。
  8・10~16 平和号第三回原水禁長崎大会に参加。

●1958年
  3・ 4 在日米軍は仙台調達局に新潟飛行場を31日に返還すると通知。
  3・31 新潟飛行場返還式。5月以降は、東京―新潟間の民間飛行場空港となる。

●1959年
  1・26 新潟飛行場反対期成同盟婦人部が砂川に「越後の餅」を贈る。

<参考資料>

①『新潟日報』関連記事 1955~1958年 国会図書館立法考査局国会レファレンス課作成
②『新潟県教職員組合史』第2巻第16章 新潟飛行場拡張反対の闘い
③ 特集 基地日本―この実情を見よ 相次ぐ拡張と接収 新潟飛行場基地 河出書房『知性』昭和31年第3巻1号
④ 新潟飛行場拡張反対期成同盟 渋谷武 論文 『年報政治学』11巻 1960年
⑤ 『砂川闘争の記録』 砂川闘争年表 宮岡政雄/著 お茶の水書房 
⑥ 『砂川 ひろがりゆく日本の抵抗』 砂川町基地拡張反対支援労協/編集発行
⑦ 新潟基地反対運動を研究 沖縄との類似性を感じる 左近幸村 新潟日報2017・3・25
⑧ 福岡愛子 風間作一郎さんインタビュー 2017年12月20日

 上記資料のうち、①~④は国会レファレンス課文献提供係・係長諸橋邦彦氏による。

産経新聞の「蒋介石秘録」に見る南京大虐殺 18・1・18
 最近知ったことだが、蒋介石秘録〈12〉日中全面戦争 (1976年)」は1976年12月17日にサンケイ新聞社から出版されている。「誰かの妄想 ハテナブログ版」(2012年2月26日)という名のブログに以下のことが記されている。注目に値する記事だ。
― 現在は反中世論誘導のため、南京事件否定論のプロパガンダに余念のない産経新聞ですが、1970年代までは南京事件の否定などはしていませんでした.国際社会において台湾が中国としての地位を失いつつあった1970年代、反共右翼は台湾に変って中華人民共和国が中国として世界に認められるのを苦々しく思っていました。反共右翼にとって、「反共」「大陸奪還」を主張する蒋介石台湾を支援するのは当然の成り行きだったわけです。「蒋介石秘録」は、蒋介石が自己の正当性を訴えるためのプロパガンダでもありましたから、当然の如く中国共産党、特に毛沢東を誹謗中傷する内容に満ちています。1970年代当時の反共右翼にとっては、これで充分だったのでしょう。 徒に、南京事件否定論を展開して台湾の国民党を刺激したくなかったのかも知れません。―
◆「蒋介石秘録12 日中全面戦争」P69-70
南京防衛線における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。全世界を震え上がらせた蛮行 日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江(揚子江)岸に整列させた、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。虐殺の対象は軍隊だけではなく、一般の婦女子にも及んだ。金陵女子大学内に設置された国際難民委員会の婦女収容所にいた七千人の婦人が、大型トラックで運び出され、暴行のあと、殺害された。日本軍将校二人が、百人斬り、百五十人斬りを競い合ったというニュースが、日本の新聞に大きく報道された。
虐殺の手段もますます残酷になった。下半身を地中にうめ、軍用犬に襲いかからせる”犬食の刑”、鉄カギで舌を貫いて全身をつるしあげる”鯉釣り”、鉄製のベッドに縛りつけ、ベッドごと炭火のなかに放りこむ”ブタの丸焼き”−など、など、考えられる限りの残忍な殺人方法が実行された。こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二ヵ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。『倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ。』(一九三八年一月二十二日の日記)
 南京に住む外国人たちで組織された難民救済のための国際委員会は、日本軍第六師団長・谷寿夫にたいし、放火、略奪、暴行、殺人など計百十三件の具体的事例を指摘して、前後十二回にわたって厳重な抗議を提出したが、谷寿夫は一顧だにしないばかりか、逆に、血塗られた南京の状況を映画やフィルムに収め、日本軍の”戦果”としてほめたたえたのである。産経新聞などの南京事件否定論者にとっては、手痛い記述のはずですが、彼らのような歴史修正主義者の辞書には「恥」という文字がないため、気にもせず否定論を繰り返しています。何が「恥の文化」だよ。

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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