FC2ブログ

寒中お見舞い


寒中お見舞い申し上げます。
早々に賀状頂きありがとうございました。また年末には家族の方の訃報など悲しい知らせもありました。老生は正月3日満88歳となりました。米寿まで何とか無事に生きたのは元気に生んでくれて1945年4月38歳で無くなった母のお陰と感謝しています。泣き虫だった私は、敗戦の年に12歳でした。そして同年8月15日の敗戦。爾来さまざまな病気や事故を重ねながらも幸運にも生き延びてきました。
お四国遍路を始めた2001年以降も電車の事故で胸骨骨折3ヶ月、四国遍路中には足摺岬でぎっくり腰となり、いまなおその後遺症で腰痛を抱えながらの日々です。更に2000年代に入っていわゆるポックリ病の異形性狭心症と診断され365日ニトログリセリンを首にかけています。更に一昨年12月には便秘を原因とする不整脈が発生し、心臓弁膜症と診断されました。さらに急激な眩暈がしばしば起こるなど予想もしなかった病にとりつかれます。これが長生きするということなんだと妙に納得しています。
それでも四国歩き遍路足掛け8年の経験から、歩いておれば血の回りがよくなって人間の身体は快復することを知りました。多少の風邪などはお四国の山野を歩いて綺麗な空気を吸うと不思議に夕方快復することも発見しました。薬にあまり頼らないで、今も毎日、玄米菜食中心の食生活で、杖を曳いて買い物に出かけて、よちよち歩きで8000歩から1万歩歩いております。
物忘れも激しく、日々忘れ物捜しでうろうろして一日が終わる感じです。先輩友人各位の名前や約束も忘れること多く、失礼を重ねることと思いますが、あいつも順調に呆けてきたのだとご寛恕ください。
2021年1月10日 全国徘徊老人連盟会長 仲井富

ニトロ首に 背にはホカロン 米寿春 漫歩
スポンサーサイト



玉城選対本部長に元自民党の仲里前衆院議員

沖縄県知事選デニー支持の学会員と元自民党の仲里利信・前衆院議員  18・9・19
  2018年9月14日の田中龍作ジャーナルは、自公維新の沖縄県知事選挙に反発する創価学会員の記事を以下のように伝えた。
 ー自公維希とオール沖縄が激突する県知事選挙のカギを握る創価学会から良心の離反者が出た― 13日夕、玉城デニー候補の街頭演説があった県庁前に創価学会の三色旗が翻った。旗を握っているのは浦添市在住の野原善正氏(58歳)。除名はされておらず、バリバリの学会員だ。 「どうしてここへ?」と尋ねると、「僕は辺野古反対でここに来た」と けれん味なく 答えた。野原氏が公明党に見切りをつけたのは2014年夏だった。「安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、公明党もそれに追随した。あれがターニングポイントになった」「こんな政党は支持できない、許せない」「池田先生(名誉会長)が教える平和への熱い思いと真逆だ」と眉を吊り上げ語気も荒く語った。氏は「創価学会で村八分に遭っている」という。「信仰がおかしくなっている」と誹謗中傷されて。だが返す刀で「学会員の80%は公明党を妄信している」。 玉城候補を支持する良心の離反者は「レンタカーでデニーさんを追いかけ三色旗を振って応援する」と力を込めた。ー
 昨年の総選挙で見る限り、沖縄県の公明票は10万8千票ある。単純に、この数字が佐喜眞氏に乗ると、佐喜眞氏は玉城候補に流れるが現実はそうはいかない。過去にも一名区の県知事選や参院選では、公明票は締め付けにもかかわらず2割から3割が辺野古反対の候補が掌理している。しかも本土と比較して沖縄では、自民党の支持率は極端に低い。圧倒的に多いのが無党派層だ。
◆選対本部長には元自民党の仲里利信・前衆院議員
 また、同じく田中竜作ジャーナル9月1日号は、八月31日に開かれた玉城デニー陣営は選挙事務所開きでは、沖縄選出の国会議員、地元議員、支援者らが集まり、事実上の決起集会となった。選対本部長には元自民党の仲里利信・前衆院議員が就いた。と以下のように報じた。
 -オール沖縄と表裏一体をなす「平和・誇りある ひやみかち うまんちゅの会」の会長には金秀グループの呉屋守将会長が就任した。同会は告示後、確認団体となって選挙運動を担う。仲里選対本部長は玉城デニー候補予定者の顔を見るなり「(俺は)自民党から来た」とかました。選対本部長就任のあいさつでは保守政治家の意地を示した。「沖縄戦では『軍命により』多くの非戦闘員が集団自決させられた」とする社会科教科書の記述から『軍命により』が削られたことがあった。仲里氏は故翁長知事と共に削除の見直しを求めて政府と戦ったエピソードを紐解きながら次のように語った―
 「今の自民党は慰安婦、南京虐殺、沖縄の集団自決を無きものにして軍隊を美化しようとしている。この沖縄を捨て石にしてまた戦争をしようとしている。日本の真の自民党は我々であって、今いる連中は安倍の使い走りだ。沖縄の民意を反映していない」。
 続いて登壇した玉城氏はお宮の神主から「デニーさん、沖縄をまた戦場(いくさば)にしてはいけないよ」と言われたことを紹介し、「安倍政権がいつか来た道に戻ろうとしている」と警鐘を鳴らした。沖縄は戦中、戦後を通じて本土のお粗末な政治の犠牲となってきた。「オール沖縄」は本土の政治家よりもはるかに鋭敏に政権の本質を見抜いていたー。

テント日誌12月25日(月)抄録 経産省前テントひろば1807日後

テント日誌12月25日(月)抄録 経産省前テントひろば1807日後 17・12・27
 通産省前のテントは強制撤去されたが、今なおテント広場の座り込みは続いている。2012年、民主党野田政権の大飯原発再稼働に抗議して始まった座り込みは、通算1907日となった。これを運営している方々に敬意を表したい。以下は、12月25日のテント日誌の抄録である。
◆片足のない鳩も元気に生きている 12月23日(土)
 雲が殆どない青空。その色は国連旗の水色を想わせた。風もなく暖かくて昨日が冬至だったなんて。経産省の旗竿には日章旗がふたつ。Iさんが普段ならある経産省の旗がないと言う。この間の強風で飛ばされたのか? 例の片足の鳩が今日もいた。信じられないことに地面の上を素早く器用に走っていた。頑張ってきたものね。明日はもっと良くなるよ。
 ・・・・盛り上がった話し声で目が覚めた。最後の審判作成中のミケランジェロのように頭を真上にあげた状態で目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだ。話に参加できなかったのが残念。正清御夫妻。大きなチョコ菓子を差し入れして下さり、皆で美味しく頂いた。きょうは家庭裁判に用事があり、私もお付き合いしたのです。最近の正清さんは足腰が弱って来ていて、朝起き上がるのも一苦労でその為かこの1ヶ月の間に二度も転倒して顔にけがをされ救急車で運ばれるという事もあった。いつまでもお元気にと願うばかりです。冷たい強風が吹いていたので陽射しがあるうちに帰られました。
◆12.27規制委緊急抗議行動
~東電柏崎刈羽原発の再稼働を認めるな~
日時:2017年12月27日(水)10時~13時(定例会議は10時半~12時)
場所:原子力規制委員会ビル(六本木ファーストビル)前 港区六本木1丁目9番9号)
東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」から「泉ガーデンタワー」を経て徒歩4分 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」徒歩8分
主催:再稼働阻止全国ネットワーク 及び 原子力規制委員会毎水曜昼休み抗議行動
その他:抗議・申入書を原子力規制委員会に提出します(10時過ぎ)
小雨決行(柏崎刈羽6,7号機設置変更許可が議題に上がらなければ中止)
 54基の既存原発の再稼働を推進してきた原子力規制委員会が、柏崎刈羽原発の設置変更許可(「合格」と報道されている)を年末の12月27日(水)の定例会議で認可すると報道されました。
 福島原発事故を起こした東電、イチエフの収束も廃炉への道も被害者賠償も見えない中で膨大な費用を国民に税金と託送料金で払わせている東電、免震重要棟の基準地震動未達を3年もひた隠しなど数々の不祥事を起こしている東電、トリチウム汚染水問題で漁連を怒らせた東電、こんな東電に原発再稼働を許すことはできません。
 経産省・エネ庁は「今だけ、金だけ、自分だけ」の大嘘つき! その六ヶ所村再処理工場の工場完成時期を延期24回目、「18年度上期」から3年先~いつまで騙し続ける「核燃料サイクル」? いつまで六ヶ所に押し付ける核のゴミ?~
(木村雅英 テントひろば)
◆日本原燃株式会社が再処理工場の完成を3年延期
 12月22日に日本原燃株式会社が再処理工場の完成を3年延期した。その一カ月前の11月24日、経産省前テントひろばの院内ヒアリング集会の折に資源エネルギー庁の担当が「六ヶ所再処理工場は2018年上期の竣工予定」と何度も何度も答えていたが、やはり嘘だったのだ。既に規制委の審査が止まっていたから当然だが。それにしても、今回の延期は何と24回目だそうだ。おまけに、MOX燃料加工施設の事業開始時期も「平成31年度」から「平成34年度」に3年延期した。既に、経済的にも技術的にも破綻している「核燃料サイクル」の実現は、中心施設の度重なる延期で一層困難になった。経産省・エネ庁は、猛省して事業者に再処理を義務付けることを止め、「核燃料サイクル」断念をできるだけ早急に発表するべきである。
●月末から正月までの行動予定
12月28日(木)5時~6時経産省前抗議行動(テントひろば)
定例の29日(金)の抗議行動は休み。
12月29日(金)の反原連の官邸前抗議行動は官邸前のみ
(6時30分)で、国会正門前は休み。
年末年始の経産省前テントひろばの行動
★経産省抗議行動
年末は仕事納めの28日(木)に抗議行動、29日(金)は休みます。
日時:2017年12月28日(木)17時~18時(29日は休み)
場所:経産省本館正門前
主催:経産省前テントひろば
年始は1月5日(金)から実施します。
★経産省前座込み行動
年末、年始も毎日経産省本館前で座込み抗議を実施しています。
平日:12時~17時(冬時間)
年末・年始・土曜・日曜・休日:12時~16時
○紅白歌合戦
12月31日(日)19時~24時
経産省本館前
ヴォーカル、合唱、合奏など
○年始餅つき
1月4日(木)(12時までに事務所で餅つきを行う)
経産省本館正門前(12時~14時)にて、餅各種、豚汁等を振る舞う。
ご近所(省庁)回り、経産省抗議初め

逆縁に泣く祖母や母親 逝く人たちのこと 17・⒓・10
 「老いるとは未知との出会い桐一葉」という句は、私の俳句の先生でもあった栃木市の富田昌宏さんの名句である。なるほど、たしかに人間は年を取るほどさまざまな出会いがある。生老病死のすべてを味わう年齢なのである。11月の下旬、一枚のハガキが来た。メール友達のユキミ姐さんからだ。彼女は現在、国際交流基金の仕事でスペインのブエノスアイレスに滞在している。それが国内からハガキを送ってきた。それを読んで愕然とした。中身は要旨以下のような文面だった。
 ー徘徊さんお元気ですか。いつもブログ読んでいます。いま私は一時緊急帰国中です。婿さんが11月6日、刈り入れ中の機械に巻き込まれ、即死しました。(36歳) 娘は4人の子供を残されました。明日、私はブエノスに戻ります。悲しいです。ー
 ユキミさんは、数年前ブエノスアイレスから帰国した。そしてわたしの親友だったマスノさんが主催するメールグループのメンバーとして参加した。彼女の娘さんは岩手県の農村の若者と結婚し教員をやっているそうだ。ユキミさんも4人の孫の面倒を見るために、一年の半分くらいは岩手県に行っていた。慰める言葉もない。
 昨年も同じような逆縁に泣く母親が居た、旧知のミヤザキさんだ。事務所を訪れた時、わっと泣き出した。わけを聞くと「今年の3月に39歳の一人娘が心不全で急死した」というのだ。元気に前日ゴルフをやって帰宅した。それが翌日車の運転中に心不全で急死したとか。これもショックだった。ミヤザキさんは、一人娘を亡くして夫と二人になった。そしてもう墓は作らないと決めた。娘の骨は海に散骨した。自分たちも将来は、同じように海に散骨してもらう決意だ。
 逆縁とは、仏の教えを素直に信じない(縁に背く)こと、またはそのような救い難い人をいう言葉だったが、転じて子が親より先に死ぬことを逆縁と言うようになった。先のシナ事変や太平洋戦争では、320万人の犠牲者が出たが、多くは戦争に駆り出された若者が死んだ。日本国中の親たちが逆縁に泣いた時代である。戦後72年の今日では、数少なくはなったが、幼子や成人した子供たちに先立たれて泣く親たちの悲しみは後を絶たない。
 この春から半年近く消息のない富山の親友がいた。二十歳代からの友人で奥さんも良く知っている。いくら携帯に電話しても留守電ばかりだ。そして自宅の固定電話もベルは鳴るがまったく反応がない。これは亡くなったのか病気なのかいずれかだろうと想像していた。12月半ばにその奥さんから電話があった。「主人は昨年の暮に脳梗塞で倒れ療養中です」と言う話である。電話に出なかったのは、脳こうそくで寝たきりで言葉も出せなくなった。一年間のリハビリでやっと片腕動くようになった。声も少し出せるようになったので電話した、というのだった。友人と話をした。「ああ、うう」くらいで意味不明だがやっと声を聴くことが出来た。来年の春には会いに行くから待っていて欲しいと言って電話を切った。雪が消えるころには富山の親友に会いに行こう。

洲崎美子さん96歳の死 延命拒否の遺書 17・5・5
 このブログでも何度か紹介した、松本市の郵便友達の洲崎美子さんが逝去された。大正9年(1920)3月17日生まれで、昨年12月13日没、享年96歳。初めてお会いしたのは2013年の5月、娘の木島知草さんが長年続けている人形劇の例会に参加した時だった。以来まる3年余手紙のやり取りをしていた。25歳でブーゲンビル島で飢え死にした叔父と同年代の人だった。筆字で時には水墨画を交えたお便りを楽しみに文通していた。人形劇で全国を歩いている娘の知草さんの留守を一人で守り、後顧の憂いなく活動をさせた。そして以下の遺書を千草さんの『風知草通信』で見せていただいた。
 洲崎美子のリビングウイル(遺書)
 私は現在95歳6ヶ月、長い人生を生きてきました。43歳で夫卓夫を亡くして中三の長男と小五の長女二人の子供をかかえて悲しむ暇もなく、如何に生きるか、それのみでした。でも二人の子供は立派な社会人として自分の生きたい道に生き、私も私なりに多くの方々の友愛と支援に包まれて私らしく仕事に喜びを見出して、72歳まで現役で働き、充実した人生を生きて参りました。今はとても倖せです。
 それ故に人生の最後は、いえ最後も自分らしく終りたいと思っています。誰にも御迷惑をかけず生命がつきるのを願っております。でも世の中そう思う様にはなりませんね。でも意思を失なっているとか、呼びかけても少し反応するだけの状態でしたら決して救急車を呼ばない事。既に病院にいるなら人工呼吸器をつけない事。但し苦しんでいる様でしたら痛みを柔らげるケアはしてください。延命のための治療は何もしない事。今私の命を少しでも延ばそうと力を尽くして下さっている方に感謝を致しますが恐れ入りますが、私の願い通りにして下さい。この事は二人の子供にも話して承知して了解を得ております。
 最後の今一度、延命治療はなさらないで下さい。私の最後のお願いです。どうかかなえて下さい。 平成二十七年 松本市井川域3町内7-6  洲脇美子
証人 木島千草 木島恭
 千草さんの『風知草通信』には以下のように書いてあった。
―島根の海の町から信州の山の街に住み(72歳から仕事をやめて24年間)96歳と9カ月生き抜いた母でした。死を意識して遺言書、日記もつけ続けていて、家族でよく看取りの話もしていました。私のとなりの長屋で元気な時は畑、花、お茶を点て、水墨画、老人大学、地域の老人会にも出ていき、愛犬と散歩したり、料理も好きで梅干、ぬか漬け、らっきょう、からし漬け、掃除、洗濯など、自立した老後の生活を楽しんでいました。新聞も隅々まで読み、政治や社会の話も意見交換しました。(中略)余命2カ月を宣告されてから、家で看取ってほしいという願いどおり・・苦しむこともなく私の胸の中で息を引き取りました-
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
88歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

最新記事
リンク
最新コメント
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR