産経新聞の「蒋介石秘録」に見る南京大虐殺 18・1・18
 最近知ったことだが、蒋介石秘録〈12〉日中全面戦争 (1976年)」は1976年12月17日にサンケイ新聞社から出版されている。「誰かの妄想 ハテナブログ版」(2012年2月26日)という名のブログに以下のことが記されている。注目に値する記事だ。
― 現在は反中世論誘導のため、南京事件否定論のプロパガンダに余念のない産経新聞ですが、1970年代までは南京事件の否定などはしていませんでした.国際社会において台湾が中国としての地位を失いつつあった1970年代、反共右翼は台湾に変って中華人民共和国が中国として世界に認められるのを苦々しく思っていました。反共右翼にとって、「反共」「大陸奪還」を主張する蒋介石台湾を支援するのは当然の成り行きだったわけです。「蒋介石秘録」は、蒋介石が自己の正当性を訴えるためのプロパガンダでもありましたから、当然の如く中国共産党、特に毛沢東を誹謗中傷する内容に満ちています。1970年代当時の反共右翼にとっては、これで充分だったのでしょう。 徒に、南京事件否定論を展開して台湾の国民党を刺激したくなかったのかも知れません。―
◆「蒋介石秘録12 日中全面戦争」P69-70
南京防衛線における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。全世界を震え上がらせた蛮行 日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江(揚子江)岸に整列させた、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。虐殺の対象は軍隊だけではなく、一般の婦女子にも及んだ。金陵女子大学内に設置された国際難民委員会の婦女収容所にいた七千人の婦人が、大型トラックで運び出され、暴行のあと、殺害された。日本軍将校二人が、百人斬り、百五十人斬りを競い合ったというニュースが、日本の新聞に大きく報道された。
虐殺の手段もますます残酷になった。下半身を地中にうめ、軍用犬に襲いかからせる”犬食の刑”、鉄カギで舌を貫いて全身をつるしあげる”鯉釣り”、鉄製のベッドに縛りつけ、ベッドごと炭火のなかに放りこむ”ブタの丸焼き”−など、など、考えられる限りの残忍な殺人方法が実行された。こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二ヵ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。『倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ。』(一九三八年一月二十二日の日記)
 南京に住む外国人たちで組織された難民救済のための国際委員会は、日本軍第六師団長・谷寿夫にたいし、放火、略奪、暴行、殺人など計百十三件の具体的事例を指摘して、前後十二回にわたって厳重な抗議を提出したが、谷寿夫は一顧だにしないばかりか、逆に、血塗られた南京の状況を映画やフィルムに収め、日本軍の”戦果”としてほめたたえたのである。産経新聞などの南京事件否定論者にとっては、手痛い記述のはずですが、彼らのような歴史修正主義者の辞書には「恥」という文字がないため、気にもせず否定論を繰り返しています。何が「恥の文化」だよ。

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テント日誌12月25日(月)抄録 経産省前テントひろば1807日後

テント日誌12月25日(月)抄録 経産省前テントひろば1807日後 17・12・27
 通産省前のテントは強制撤去されたが、今なおテント広場の座り込みは続いている。2012年、民主党野田政権の大飯原発再稼働に抗議して始まった座り込みは、通算1907日となった。これを運営している方々に敬意を表したい。以下は、12月25日のテント日誌の抄録である。
◆片足のない鳩も元気に生きている 12月23日(土)
 雲が殆どない青空。その色は国連旗の水色を想わせた。風もなく暖かくて昨日が冬至だったなんて。経産省の旗竿には日章旗がふたつ。Iさんが普段ならある経産省の旗がないと言う。この間の強風で飛ばされたのか? 例の片足の鳩が今日もいた。信じられないことに地面の上を素早く器用に走っていた。頑張ってきたものね。明日はもっと良くなるよ。
 ・・・・盛り上がった話し声で目が覚めた。最後の審判作成中のミケランジェロのように頭を真上にあげた状態で目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだ。話に参加できなかったのが残念。正清御夫妻。大きなチョコ菓子を差し入れして下さり、皆で美味しく頂いた。きょうは家庭裁判に用事があり、私もお付き合いしたのです。最近の正清さんは足腰が弱って来ていて、朝起き上がるのも一苦労でその為かこの1ヶ月の間に二度も転倒して顔にけがをされ救急車で運ばれるという事もあった。いつまでもお元気にと願うばかりです。冷たい強風が吹いていたので陽射しがあるうちに帰られました。
◆12.27規制委緊急抗議行動
~東電柏崎刈羽原発の再稼働を認めるな~
日時:2017年12月27日(水)10時~13時(定例会議は10時半~12時)
場所:原子力規制委員会ビル(六本木ファーストビル)前 港区六本木1丁目9番9号)
東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」から「泉ガーデンタワー」を経て徒歩4分 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」徒歩8分
主催:再稼働阻止全国ネットワーク 及び 原子力規制委員会毎水曜昼休み抗議行動
その他:抗議・申入書を原子力規制委員会に提出します(10時過ぎ)
小雨決行(柏崎刈羽6,7号機設置変更許可が議題に上がらなければ中止)
 54基の既存原発の再稼働を推進してきた原子力規制委員会が、柏崎刈羽原発の設置変更許可(「合格」と報道されている)を年末の12月27日(水)の定例会議で認可すると報道されました。
 福島原発事故を起こした東電、イチエフの収束も廃炉への道も被害者賠償も見えない中で膨大な費用を国民に税金と託送料金で払わせている東電、免震重要棟の基準地震動未達を3年もひた隠しなど数々の不祥事を起こしている東電、トリチウム汚染水問題で漁連を怒らせた東電、こんな東電に原発再稼働を許すことはできません。
 経産省・エネ庁は「今だけ、金だけ、自分だけ」の大嘘つき! その六ヶ所村再処理工場の工場完成時期を延期24回目、「18年度上期」から3年先~いつまで騙し続ける「核燃料サイクル」? いつまで六ヶ所に押し付ける核のゴミ?~
(木村雅英 テントひろば)
◆日本原燃株式会社が再処理工場の完成を3年延期
 12月22日に日本原燃株式会社が再処理工場の完成を3年延期した。その一カ月前の11月24日、経産省前テントひろばの院内ヒアリング集会の折に資源エネルギー庁の担当が「六ヶ所再処理工場は2018年上期の竣工予定」と何度も何度も答えていたが、やはり嘘だったのだ。既に規制委の審査が止まっていたから当然だが。それにしても、今回の延期は何と24回目だそうだ。おまけに、MOX燃料加工施設の事業開始時期も「平成31年度」から「平成34年度」に3年延期した。既に、経済的にも技術的にも破綻している「核燃料サイクル」の実現は、中心施設の度重なる延期で一層困難になった。経産省・エネ庁は、猛省して事業者に再処理を義務付けることを止め、「核燃料サイクル」断念をできるだけ早急に発表するべきである。
●月末から正月までの行動予定
12月28日(木)5時~6時経産省前抗議行動(テントひろば)
定例の29日(金)の抗議行動は休み。
12月29日(金)の反原連の官邸前抗議行動は官邸前のみ
(6時30分)で、国会正門前は休み。
年末年始の経産省前テントひろばの行動
★経産省抗議行動
年末は仕事納めの28日(木)に抗議行動、29日(金)は休みます。
日時:2017年12月28日(木)17時~18時(29日は休み)
場所:経産省本館正門前
主催:経産省前テントひろば
年始は1月5日(金)から実施します。
★経産省前座込み行動
年末、年始も毎日経産省本館前で座込み抗議を実施しています。
平日:12時~17時(冬時間)
年末・年始・土曜・日曜・休日:12時~16時
○紅白歌合戦
12月31日(日)19時~24時
経産省本館前
ヴォーカル、合唱、合奏など
○年始餅つき
1月4日(木)(12時までに事務所で餅つきを行う)
経産省本館正門前(12時~14時)にて、餅各種、豚汁等を振る舞う。
ご近所(省庁)回り、経産省抗議初め

逆縁に泣く祖母や母親 逝く人たちのこと 17・⒓・10
 「老いるとは未知との出会い桐一葉」という句は、私の俳句の先生でもあった栃木市の富田昌宏さんの名句である。なるほど、たしかに人間は年を取るほどさまざまな出会いがある。生老病死のすべてを味わう年齢なのである。11月の下旬、一枚のハガキが来た。メール友達のユキミ姐さんからだ。彼女は現在、国際交流基金の仕事でスペインのブエノスアイレスに滞在している。それが国内からハガキを送ってきた。それを読んで愕然とした。中身は要旨以下のような文面だった。
 ー徘徊さんお元気ですか。いつもブログ読んでいます。いま私は一時緊急帰国中です。婿さんが11月6日、刈り入れ中の機械に巻き込まれ、即死しました。(36歳) 娘は4人の子供を残されました。明日、私はブエノスに戻ります。悲しいです。ー
 ユキミさんは、数年前ブエノスアイレスから帰国した。そしてわたしの親友だったマスノさんが主催するメールグループのメンバーとして参加した。彼女の娘さんは岩手県の農村の若者と結婚し教員をやっているそうだ。ユキミさんも4人の孫の面倒を見るために、一年の半分くらいは岩手県に行っていた。慰める言葉もない。
 昨年も同じような逆縁に泣く母親が居た、旧知のミヤザキさんだ。事務所を訪れた時、わっと泣き出した。わけを聞くと「今年の3月に39歳の一人娘が心不全で急死した」というのだ。元気に前日ゴルフをやって帰宅した。それが翌日車の運転中に心不全で急死したとか。これもショックだった。ミヤザキさんは、一人娘を亡くして夫と二人になった。そしてもう墓は作らないと決めた。娘の骨は海に散骨した。自分たちも将来は、同じように海に散骨してもらう決意だ。
 逆縁とは、仏の教えを素直に信じない(縁に背く)こと、またはそのような救い難い人をいう言葉だったが、転じて子が親より先に死ぬことを逆縁と言うようになった。先のシナ事変や太平洋戦争では、320万人の犠牲者が出たが、多くは戦争に駆り出された若者が死んだ。日本国中の親たちが逆縁に泣いた時代である。戦後72年の今日では、数少なくはなったが、幼子や成人した子供たちに先立たれて泣く親たちの悲しみは後を絶たない。
 この春から半年近く消息のない富山の親友がいた。二十歳代からの友人で奥さんも良く知っている。いくら携帯に電話しても留守電ばかりだ。そして自宅の固定電話もベルは鳴るがまったく反応がない。これは亡くなったのか病気なのかいずれかだろうと想像していた。12月半ばにその奥さんから電話があった。「主人は昨年の暮に脳梗塞で倒れ療養中です」と言う話である。電話に出なかったのは、脳こうそくで寝たきりで言葉も出せなくなった。一年間のリハビリでやっと片腕動くようになった。声も少し出せるようになったので電話した、というのだった。友人と話をした。「ああ、うう」くらいで意味不明だがやっと声を聴くことが出来た。来年の春には会いに行くから待っていて欲しいと言って電話を切った。雪が消えるころには富山の親友に会いに行こう。

洲崎美子さん96歳の死 延命拒否の遺書 17・5・5
 このブログでも何度か紹介した、松本市の郵便友達の洲崎美子さんが逝去された。大正9年(1920)3月17日生まれで、昨年12月13日没、享年96歳。初めてお会いしたのは2013年の5月、娘の木島知草さんが長年続けている人形劇の例会に参加した時だった。以来まる3年余手紙のやり取りをしていた。25歳でブーゲンビル島で飢え死にした叔父と同年代の人だった。筆字で時には水墨画を交えたお便りを楽しみに文通していた。人形劇で全国を歩いている娘の知草さんの留守を一人で守り、後顧の憂いなく活動をさせた。そして以下の遺書を千草さんの『風知草通信』で見せていただいた。
 洲崎美子のリビングウイル(遺書)
 私は現在95歳6ヶ月、長い人生を生きてきました。43歳で夫卓夫を亡くして中三の長男と小五の長女二人の子供をかかえて悲しむ暇もなく、如何に生きるか、それのみでした。でも二人の子供は立派な社会人として自分の生きたい道に生き、私も私なりに多くの方々の友愛と支援に包まれて私らしく仕事に喜びを見出して、72歳まで現役で働き、充実した人生を生きて参りました。今はとても倖せです。
 それ故に人生の最後は、いえ最後も自分らしく終りたいと思っています。誰にも御迷惑をかけず生命がつきるのを願っております。でも世の中そう思う様にはなりませんね。でも意思を失なっているとか、呼びかけても少し反応するだけの状態でしたら決して救急車を呼ばない事。既に病院にいるなら人工呼吸器をつけない事。但し苦しんでいる様でしたら痛みを柔らげるケアはしてください。延命のための治療は何もしない事。今私の命を少しでも延ばそうと力を尽くして下さっている方に感謝を致しますが恐れ入りますが、私の願い通りにして下さい。この事は二人の子供にも話して承知して了解を得ております。
 最後の今一度、延命治療はなさらないで下さい。私の最後のお願いです。どうかかなえて下さい。 平成二十七年 松本市井川域3町内7-6  洲脇美子
証人 木島千草 木島恭
 千草さんの『風知草通信』には以下のように書いてあった。
―島根の海の町から信州の山の街に住み(72歳から仕事をやめて24年間)96歳と9カ月生き抜いた母でした。死を意識して遺言書、日記もつけ続けていて、家族でよく看取りの話もしていました。私のとなりの長屋で元気な時は畑、花、お茶を点て、水墨画、老人大学、地域の老人会にも出ていき、愛犬と散歩したり、料理も好きで梅干、ぬか漬け、らっきょう、からし漬け、掃除、洗濯など、自立した老後の生活を楽しんでいました。新聞も隅々まで読み、政治や社会の話も意見交換しました。(中略)余命2カ月を宣告されてから、家で看取ってほしいという願いどおり・・苦しむこともなく私の胸の中で息を引き取りました-

会津田島の蕗のトウを九段で 17・4・13
 先週末から今週はじめまで、雨が降り続いて寒い日だった。桜が咲いているというのに、菜種梅雨ともいうべきか、暗いじめじめした憂鬱な日々だった。その11日火曜日の夜、行きつけのカレーの店ベルで、九段近辺に住むベルの常連が集まって、蕗の薹を食べることになった。これは、わが友文学さんが所有する会津田島の800坪の旧家の庭に生えた蕗の薹だった。話は昨年に溯る。九段のラジオ体操の仲間たちは、達磨さんや山ちゃんの先導で、北の丸公園の梅を落として梅酒をつくたりしている。さらに昨年は田安門の石垣の上に蕗の薹がたくさん生え出た。それを採って持ち帰って食べることにした。徘徊も石垣の上を必死の思いで、蕗の薹取りをした。
 その蕗の薹を九段のカレー屋ベルに持ち込んだ。30年間通っているベルのママに頼んで天ぷらに揚げてもらった。それがまことに美味であったので、今年もと狙ったが、取り過ぎたせいか、今年はまったく蕗の薹にお目にかかれなかった。文学さんがようやく雪の消えかけた会津田島町の旧居の雪囲いを外したり、住いの周辺を整備するために会津に行っていることを知った。そこで彼に電話した。「旧居の庭に蕗の薹は出ていないか。出てゐたら食べたいから持って帰ってほしい」と頼んだわけである。ところが、ことしの春はまだ遠かった。「まだ庭の雪が消えていないので蕗の薹にはお目にかかれない」という。東京ではとっくに蕗の薹の季節は過ぎ去っているのに、会津の春はまだ遠いのだ。    
先週の末に文学さんから電話があった。「先日来の雨のせいで800坪の庭の雪が消えてきて蕗の薹が顔を出してきた。帰るまでには蕗の薹を摘んで持ってかえります」いうのだ。バンザイ。近隣のベルの常連に声をかけた。蕗の薹の天ぷらをご馳走するからいらっしゃい、と連絡した。近く都営マンションで急死した南さんの知り合いの女性らもかけつけた。渡辺夫妻他数名のメンバーで南さんを偲びつつ、ベルのママのお陰で、揚げたての蕗の薹天ぷらを心行くまで賞味した。文学さん自身も「揚げたての蕗の薹は実に美味しかった。会津では近所の方から蕗の薹の天ぷらを頂いたが冷えていた。今夜のような揚げ立てをすぐ食べるというのでは全く味が違う」という。
 南さんが居たらカラオケの一曲も出る筈だが彼は居ない。替ってウクレレを持参した文学さんがお得意のハワイアンやロシア民謡などを独演二回。大いに盛り上がった「蕗の薹を食べる会」だった。これに味を占めて、来年も何とか会津田島の蕗の薹をと思って居る慾張りの徘徊である。昨夜12日は、定例の九段二水会の句会だった。互選句は以下の4句。  
 郷の春隣家の猫も挨拶に 文里 残雪が溶けて顔出す蕗の薹 文里
 菜の花や街の外れを川沿いに 游子 菜の花の散るを待たずに君逝けり 漫歩



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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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