世田谷文学館茨木のり子展

世田谷文学館の茨木のり子展 14年6月23日
 今朝は昨日と打って変わって梅雨晴間。5時に起きて階段を歩いて降りる。昔痛めた右腰と頸椎の変化による左肩の痛みは無くならない。歩き始めるころは鉛のように足が重いのに、歩いていると痛みが無くなるから不思議だ。最高齢の大正15年生まれの88歳翁が元気な足取りで歩いてくる。二年前くらいには、足腰痛くて歩けなかったが、最近よくなったとご機嫌だ。大正15年といえば、昨日、世田谷文学館に見に行った茨木のり子展の詩人茨木 のり子も1926年(大正15年)6月生まれで、 2006年(平成18年)2月17日)に亡くなっている。
 世田谷文学館というのも初めて行った。京王線の芦花公園駅数分のところで、住宅街の多い閑静な街並みの一角にある、こじんまりした建物で。日曜日のせいもあるが、参加者は多く、やはり若者から中高年まで女性の方が圧倒的だった。茨木のり子の詩集と言っても、1999年刊の『倚りかからず』(筑摩書房)を読んだくらいだが、その死後の身の処し方を含めて、実に潔い生き方だったと敬意を表しのは、自ら書いた死亡通知だった。
 「このたび私'06年2月17日クモ膜下出血にて この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか…。深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。ありがとうございました。二〇〇六年三月吉日代おくれ」 茨木のり子
 何はともあれ、かくの如く見事に自分自身の終末に関して書きのこしたこと、そして親戚の方が、この意を体して実行なさったことに感動した。徘徊も及ばずながら、自分の死後の処し方について、同様の遺書を書き残しているが、後押しされたのは、茨木のり子の遺書を読んだ影響も多い。詩集の中には好きなものも多いが以下の「時代おくれ」という詩は、自分には到底できないことを、平然と行っている、詩人の見事な精神に敬服した好きな詩である。
  車がない 茨城のり子
 車がない ワープロがない ビデオデッキがない ファックスがない
 パソコン インターネット 見たこともない

 けれど格別支障もない そんなに情報を集めてどうするの
 そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまま
 すぐに古びるがらくたは 我が山門に入るを許さず(山門だって 木戸しかないのに)
 はたからみれば嘲笑の時代おくれ けれど進んで選びとった時代おくれ
 もっともっと遅れたい 

 電話ひとつだって おそるべき文明の利器で ありたがっているうちに 盗聴も自由とか 便利なものはたいてい不快な  副作用をともなう 川のまんなかに小舟を浮かべ
 江戸時代のように密談しなければならない日がくるのかも

 旧式の黒いダイヤルを ゆっくり廻していると 相手は出ない
 むなしく呼び出し音の鳴るあいだ 
 ふっと 行ったこともない シッキムやブータンの子等の
 襟足の匂いが風に乗って漂ってくる どてらのような民族衣装
 陽なたくさい枯れ草の匂い

 何が起ころうと生き残れるのはあなたたち
 まっとうとも思わずに
 まっとうに生きているひとびとよ
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93歳が書いた『兼好さんの遺言』 

93歳が書いた『兼好さんの遺言』 14年6月15日
 昨日、今日と雲一つない梅雨の晴れ間だ。ふと思い立って、ラジオ体操の前に皇居一周に出かけた。4時35分にマンションを出て、九段から竹橋へ、そこから左に曲がって大手門、二重橋を経て、桜田門から半蔵門へ。千鳥ヶ淵交番を右折して北の丸公園に着いたのが6時5分。皇居一周が5キロだから、九段下からでは6キロ弱だ。早朝の皇居周辺は車も少なく、走る人も少ない。夏の間は、時々これに挑戦しようと思った。
 友人から『兼好さんの遺言』と言う本を勧められた。最近はパソコン中毒のせいで視力減退が甚だしい。だから読書能力は落ちている。だが今回の本は、まず字が大きくて読みやすい。もうひとつ著者の清川妙子氏が1921年生まれで、当年93歳であることにも興味を持った。その中で「刹那を生きる」というところと、「よき友、わるき友」の二つを読んで見た。
 「刹那を生きる」という最初の項目には、さすがに93年の人生の生きた人ならではの視点があった。著者は10代の女学生のころから「徒然草」に親しみ、読み込んできた。そして73歳の時、夫の突然の死に直面する。露天風呂の中で心不全を起こしたのである。さらに半年後、一人息子が49歳の若さで亡くなった。末期の癌であった。その間に著者自身も胃がんの手術を受けたという。兼好さんもこう言っているではないかと、自分自身を諭した。
 死期はついでを待たず、死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。第155段
 若きにもよらず、強きにもよらず、思いもかけぬは死期なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。第137 ` 段
 若いとか、強いとか、そんなことには関係なく、思いがけないのは、死のやってくる時期だ。今日まで、死をまぬがれて生きていることは、不思議のきわみであるー。若くて、病気をしたことのない息子は突然死んだ。親が子をとむらうという逆縁という運命を、私は受け入れざるを得なかった、と著者は言う。
 子が親に先立つという逆縁に泣く人は多い。私の友人にも、長男を交通事故で亡くしたとか、娘を白血病でなくしたという話を聞く。さらに、年老いて息子が離婚して自殺した、あるいは娘が鬱病がこうじて自殺したとかという友人の話を聞いた。80歳を越えてから病で施設に入っている友人は長男の自殺に「一人でさびしいなら帰ってやったのに」と嘆いていた。
 著者は「苦悩のときを脱け出し、仕切り直し、生き直す言葉はないか、と私はそのときも徒然草の全巻をあたった。あった。まるで、その部分だけ明るく浮出して見えるような言葉が。その言葉は、ひとすじの光芒となって、わが心にさしこんできた」。人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。 第93段 
 そして生を楽しむためにはどうするか。ここで著者は、徒然草第108段の「刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命終ふる期、たちまちに至る」という言葉を、生きる日々の芯にするのだ、と決意する。一瞬、一瞬、生きている。いのちが光っている。いのちの粒が光っている。その一瞬、一瞬を、二度と帰らぬものとして楽しむのだ。充実させるのだ。「刹那に生きる」、じつにいい言葉だ。徘徊もかくありたい。
 もはや、著者の清川妙子氏にとって「徒然草」は生涯の愛好書の域を越えて、彼女にとっての「仏典」ともいえる存在になっているのだ。
  逆縁に泣く親ひとり梅雨冷ゆる 漫歩<
     (写真 代々木公園で見つけた花)

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あけび書房「タバコに奪われた命」を読む

あけび書房「タバコに奪われた命」を読む 5月2日
 最近、荻野寿美子著 あけび書房刊の『煙草に奪われた命』と言う本を読んだ。朗らかで豪快、山登りや庭の手入れ、日曜大工に精を出す。そういう父親の後にくっついて、山に登りともに汗した。その父親がタバコに起因する特発性間質肺炎という難病に侵される。頑健そのものの父親が、入院直前には、一人で靴を履くことも、服のボタンを掛けることもできなくなるほど弱ってしまった。肺を蝕まれたために、体内の酸素が足りなくなってしまったのだ。
 著者、荻野寿美子さんは、その父親を看取り、父の遺した闘病メモをもとに本書をまとめた。世間的には満点の父娘でありながら、なぜタバコに命を、というどうにもならない嘆きと悲しみが伝わってくる。まさに「父を愛しタバコを憎む」娘の慟哭の手記である。類書は多いが、コンパクトにまとまっていて、素直な語り口のがいい。
 何よりも本書の核心の一つは、父親が残した「闘病MEMO」だ。2011年12月11日、市内の総合病院に入院した。日記風に綴られたMEMOには「かかりつけの医師に勧められ、市内の総合病院に緊急入院。一晩中咳する。ティッシュ200枚を使う。驚きなり」とある。
 注目すべきMEMOがあった。2011年12月15日「夕方Y先生に、もしもの時が来た場合、延命装置を付けるかの否かの問有り。自分としてはNo thank youと答えた」とある。12年2月15日容態急変し死去。スポーツマンらしく人生最後の決断をなさっていたのだ。
◆タバコをやめない人やめる人
 親子といえども趣味嗜好に関しては容喙を許さないところがある。私にも苦い思い出がある。私の父もすでに亡いが、ヘビースモーカーだった。戦時中、タバコが無くなってくると山野の草を乾かして古新聞で紙巻タバコにして吸った。晩年のある時、枕元で朝のタバコをふかす父に「体にも悪いしもうやめたらどうだ」と言った。すると日ごろ温厚な父が突然激昂して「タバコ吸えないくらいなら死んだ方がましだ」と反論した。私は沈黙した。父は予想通り肺ガンとなり、喉に転移し半年間入院して亡くなった。周囲にも愛すべき生きていてほしいタバコ愛好者が多い。
 私の師江田三郎も、同じくヘビースモーカーだった。一日に両切りのピース100本を吸っていたと聞く。ときどき強烈に咳き込むことがあったが本人も周囲も気にしなかった。何しろ頑健そのもので病気で休んだこともない。風邪など病の内に入らず、若い連中が、風邪で休むなどというと不機嫌だった。体にジンマシンが出て検査入院したら末期の肝臓がんだった。あっという間に三週間くらいであの世に逝った。毎日の岩見隆夫氏も、矢野絢也元公明党委員長のやっていた政治サロン「21世クラブ」の常連メンバーで長い付き合いだったが、肺がんで亡くなった。この方も江田三郎と同じくヘビースモーカーで、酒好きだった。
 タバコ吸いに「やめなさい」などとは言わない。なにしろ父親との一件以来、趣味嗜好に関しては、たとえそれが命取りになったとしても仕方ないと思うことにした。考えてみれば、競馬競輪、パチンコなどに入れあげて破滅する人も多い。しかもこんな賭博行為を国家が堂々と認めているのだ。人はどこかに逃げ場を持ちたいのだ。
 現在禁煙運動に精出している人には元ヘビースモーカーも多い。わが禁煙ジャーナル代表の渡辺文学氏など、かつて30代半ばまでは、一日百本のタバコを吸い、さらに酒を飲んで車でスピード違反を起こすというほどの人だった。それがある時、ピタリとタバコと車の運転をやめた。今なお現役で、これくらい頑健な喜寿の老人を私は知らない。最近タバコをやめた女性がいる。かなりのヘビースモーカーだった。なぜやめたのか聞いてみた。曰く「公共の場所では、タバコは外でしか吸えない。寒い夜、背中を丸めてタバコを吸っている男性たちの姿がなんとも惨めだった。それでタバコやめる決心をした」。かっこ悪さもタバコをやめる原因になるらしい。
      (写真 「タバコに奪われた命」荻野寿美子著)

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杉原美津子最後の「挑戦」

杉原美津子死に向かっての「挑戦」 9月30日
 徘徊は本は好きだが読書家とは言えない。しかし友人には読書家・物識りが多い。わたしはそういう友人を歩く百科事典とか歩く季語事典、植物事典と呼んでいる。友人たちはこれはぜひお読みなさい、絶対気に入ると称して本を送りつける。たしかに読んで見るとはまってしまうから不思議だ。80歳になんなんとして、なお「知的好奇心」を刺激してくれる読書好きの友人がゐることはありがたい。
 そういう友人の一人がこの夏、一冊の本を読みなさいと推奨してきた。それが杉原美津子の『新宿放火事件 生きて見たい、もう一度』(文芸春秋刊)である。1980年に新宿駅西口で起きたバス放火事件は、うろ覚えには知ってはいたが、本を読んでショックを受けた。筆者は、そのバスに偶然乗り合わせ、バスに投げ込まれたガソリンの火のなかで全身の80%という火傷を負った。36歳のときである。だが奇跡的に回復し再生の人生を送ることになるが、その後も再び自殺未遂を起こしたり、まことに苦難な人生を歩むことになった。
 杉原美津子が、その後2010年までに数冊の本を書いていることを知った。何故か、その後の彼女の人生を知りたくなり、図書館で1989年に出版された「老いたる父と」(文芸春秋刊)を読んだ。これはバス放火事件から9年後、筆者の年老いた父母が離婚することになり、その後の母親と父親の両者に娘として付き合わざるを得なくなった物語である。印象に残ったのは父親である。妻と離婚して、新たな伴侶を求めたが得られず、一年後くらいにはボケの兆候が現れる。ついには栃木県の小山市の有料老人ホームに入居することになった。大言壮語しながら自立能力のない老人が、老人ホームの介護でさらに、自立能力を喪失していく姿が哀しい。
 その後の杉原美津子をさらに知りたくなった。彼女は夫とともに名古屋に移り、老人ホームの仕事をしながらの生活を始めるが、また東京に帰り夫壮六が呆けてきたために生活保護費の受給者となつた。荒れ狂う壮六を80歳で死去するまで数年の介護に献身する。そして夫を送った半年後、2009年の夏、肝臓がんを宣告された。彼女、65歳を迎えたときである。原因は1980年のバス放火事件で負った治療に大量の輸血をしたことによるC型肝炎であり、その果てが肝臓がんの発病であった。余命いくばくもないことを宣告され、彼女は一つの決断をする。一切の延命治療を断り、自ら従容として死に向かって歩むことを覚悟する。
 これが2010年に発刊された『再び生きて、愛して、考えたこと』(トランスビュー刊)である。この中で彼女ははいう。30年前の輸血によって生じた肝臓がんで、二度目の死に向かっている。自分自身はどう生き死ぬべきか。それは残された時間を精いっぱい生きるという、自分への最後の「挑戦」であると・・・。そこから彼女の「捨てる」挑戦がはじまる。 
 「捨てるのが惜しいと使いもしないのに保管してきたものは全部捨てた。電気ポットも炊飯器もジューサーも珈琲ミルも処分した。電気ポットがなくても一人分くらいの飲み物はレンジで足りる。炊飯器はなくてもおにぎりを買えば済む。一人ではジュースも珈琲も欲しくなくなった.ペティナイフも一本あれば料理から食事まで不自由しない。スプーン、フォークも大小一本ずつ。二人分の珈琲カップは取っておくことにした。残ったのは、電磁料理器、冷蔵庫、レンジ、テレビ、トースター、ラジカセ、掃除機、折り畳みのベッド、パソコン、プリンター。居住空間は10畳程度、狭いから掃除に手間がかからない」。不治のガン宣告から3年、杉原美津子の消息は聞こえない。いまどこで彼女は自分自身への「挑戦」の最後の刻を迎えようとしているのか。

  余生なほ煩悩具足彼岸花 漫歩
      (写真 彼岸花「アラ古希日記」より)

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今日の日記

神田の古本屋をめぐる楽しみ 3月29日
 九段界隈に住み着いてから、二十数年になる。歩き遍路をしたり、旅をしたりしてあちこち徘徊した。時には、この町に住んでみたいと思うことがある。たとえば和歌山の新宮市、熊野神社があったり、勝浦も隣町だ。その奥には平家の落人部落があって、堅固な石垣の棚田が残っている。日本最古の温泉も近いし、住んでみたい。また近くでは沼津市がある。後ろに富士山、前は海で御用邸もある。水は富士山の湧水が豊富だ。街並みも綺麗だし、歩いても海岸線の富士を望む散歩道は最高だ。でも結局九段界隈を捨てられない。
 その最大のものは、古くから残る神田神保町周辺の古本屋街だ。栄枯盛衰でずいぶん変化はしたが、今でも神田の古本屋街はしたたかに生き残っている。わたしは読書家というほどではないが、ともかくあの古本屋街や、九段の図書館などをぶらぶらしているのが好きだ。ときには求めていた古本がみつかり、かなり安値で手に入る偶然もある。
 二月の中ごろ、「りるろりぶろ」という古本屋で、旧知の木原実さんの古い句集を見つけた。社会党代議士をやめてまもなく、1981年脳内出血で倒れた。しかし奇跡的に命を取りとめ、以来2010年に93歳で亡くなるまで、新短歌の歌人として活躍した。偶然通りかかった店先に、俳句が書いてあった。「石塊のひとつひとつの冬日差し 木原実」とあった。店主に聞いてみると、古い句集を示した。それは1965年発行とあり句集は『美しき銭』詩歌文学叢書Ⅴ となっていた。木原さんの亡くなった友人の遺稿と木原さんを含めた友人三人によるA5版数十ページくらいの合同句集だった。
 私は、友人の岡山県笠岡市在住の歌人、神信子氏に知らせようと思った。神さんは歌誌『掌』を長年主宰し、木原さんは生前、同誌に毎号寄稿していた関係である。神さんに葉書を書いて、古本屋の店先で偶然、木原さんの句集をみつけたこと、そして「石塊のひとつひとつの冬日差し」の句が店頭に書いてあったことを告げた。三月になって娘のHさんから手紙が来た。「神信子は1月31日、急性の大動脈解離で急死した」との知らせだった。唖然としたがお互い八十歳前後ともなれば、当然のことと受け止めなければなるまいとも思った。木原、神両氏ともにあの世で歌論詩論をたたかわせているだろう。

  亡き友とよもやま話山笑う 漫歩
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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