らい病の歌人明石海人『白猫』との数奇な出会ひ 21・4・5
40代半ばのころ、友人の今泉清君が連れていってくれた酒場のひとつに「捕鯨船」といふ飲み屋があった。浅草の連れ込み旅館などもある猥雑な通りにある小さな店である。あまりきれいとは言へない便所に入った。酔客たちの見るに堪へない落書きが溢れてゐた。そのなかにキラリと光る落書きを発見した。「深海の魚族のやうに、自ら燃えなければ何処からも光は来ない」と書いてあった。天啓のやうに思へて、それを自分の手帳に書き留めた。
ところが二〇一〇年の正月、沼津の千本浜にある若山牧水記念館を訪れたときのことだ。そこには沼津出身の作家や歌人の歌集や詩集が多く展示されてゐた。明石海人『白猫』といふ冊子を手にとって見た。目を疑った。その歌集の序文に、なんと「深海に住む魚族のやうに・・」といふ言葉が載ってゐた。
明石海人といふ名前の歌人もはじめて知った。彼は昭和初期までは地元沼津の小学校教師で妻子ある幸せな生活を送ってゐた。だが二十六歳の時、らい病に侵されてゐることがわかり。岡山県長島愛生園に収容された。つひに目も見えなくなり、指が変形して文字も書けないなかで、自らの境涯をうたった癲歌集『白猫』(改造社刊)を出版した。世の絶賛を受けてベストセラーとなるが、その年、一九三九年に三十七歳の若さで病没する。明石海人の最後に到達した心情と詩情が『白猫』の序文に表現されてゐる。
「癩は天刑である。加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜つて一縷の光を渇き求めた。―深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーさう感じ得たのは病がすでに膏盲に入つてからであつた。齢三十を超えて短歌を学び、積年の苦悩をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。癩はまた天啓でもあつた。」
(俳誌「雛」2021年3月号所載)
流涕(りゅうてい)涙を流すこと。また、 激しく泣くこと
抃舞(べんぶ)喜びのあまり、手を打って踊ること
ところが二〇一〇年の正月、沼津の千本浜にある若山牧水記念館を訪れたときのことだ。そこには沼津出身の作家や歌人の歌集や詩集が多く展示されてゐた。明石海人『白猫』といふ冊子を手にとって見た。目を疑った。その歌集の序文に、なんと「深海に住む魚族のやうに・・」といふ言葉が載ってゐた。
明石海人といふ名前の歌人もはじめて知った。彼は昭和初期までは地元沼津の小学校教師で妻子ある幸せな生活を送ってゐた。だが二十六歳の時、らい病に侵されてゐることがわかり。岡山県長島愛生園に収容された。つひに目も見えなくなり、指が変形して文字も書けないなかで、自らの境涯をうたった癲歌集『白猫』(改造社刊)を出版した。世の絶賛を受けてベストセラーとなるが、その年、一九三九年に三十七歳の若さで病没する。明石海人の最後に到達した心情と詩情が『白猫』の序文に表現されてゐる。
「癩は天刑である。加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜つて一縷の光を渇き求めた。―深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーさう感じ得たのは病がすでに膏盲に入つてからであつた。齢三十を超えて短歌を学び、積年の苦悩をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。癩はまた天啓でもあつた。」
(俳誌「雛」2021年3月号所載)
流涕(りゅうてい)涙を流すこと。また、 激しく泣くこと
抃舞(べんぶ)喜びのあまり、手を打って踊ること
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