万緑の季節と変わる公園

万緑の季節と変わる公園 17・6・3
 夏空が広がる。まだ梅雨には遠い北の丸公園は万緑の季節。夏が好きな徘徊老人は、みんな暑いというが、一番好きな季節だ。北の丸公園へ今朝も歩いて九段坂を上る。愕然とすることが起こった。昨日まで咲いていた牛が淵に面する九段坂から田安門への曲がり角に咲いていた立葵の花がなくなっていた。昨日までは曲がり角に白い立葵の花が二本咲いていた。そして、少し先の方に紅い立葵が一本咲いていた。この辺りは雑草を刈り取ってスッキリしたが、立葵だけは残してくれたのだ。ところが、その3本の立葵が消えていた。なぜだろう。環境庁に抗議しようと思ったが土曜日なのでやめた。四年前、九段坂を上がってラジオ体操に参加し出してからずっと見続けて楽しみだったのに・・・。
 青空が広がる公園は楽しい。朝早く30分くらい前に公園のひろばを歩いて、池に架かる橋の真鍮の手摺りにつかまって体操をする。これは、101歳まで現役のスキーヤーとして活躍した三浦敬三翁の生き方、食生活に学ぶ中で教えられた、朝の体操のやり方である。手足の屈伸、真鍮の橋に足を持ち上げて伸ばすのを、それぞれ50回。そして敬三翁直伝の、首を上下に伸ばすのを20回、左右に向くのを20回、さらに首回しを20回続ける。左肩は50代のころ、冬のゴルフで無理な空振りをして壊してしまった。肩が骨折したのを気づかなかっために変形してしまった。時々枕が合わないと激痛が起きる。これを防ぐためにも欠かせない首体操なのだ。それから林に入って、いつもぶら下がる木の枝につかまって数十回ぶら下がる。快い緑の風の中で、6時半からのラジオ体操が始まる。
◆参加者の老化と参加者数の激減 新しい参加者たち
 だが、体操参加者の顔触れも大きく変化した。昨年のこの頃は、朝の体操にはおよそ70名くらいは参加していた。しかし最近では、前年の半数位に減ってしまった。とくに長年体操参加者を見ている大野達磨さんに言わせると、神楽坂から来ていた10名くらいが亡くなったり病気になったりして激減したそうだ。私の知り合いでも、北の丸公園に誘ってくれた南光冶さんが亡くなった。78歳の若さで三月に突然死した。あの夜は彼も参加して、友人の文学さんの禁煙ジャーナルの事務所で句会をやる日だった。その後徘徊も体調を崩して不整脈が出てきた。最高血圧が190で最低血圧が90代という日もしばしばあった。みんな年を取ってきて大きく変化する時期に来たのだ。
 徘徊らが体操する場所には、新しい参加者が増えてきた。顔も名前も知らないが若夫婦の子供連れや犬連れの人達が新しく体操に参加し始めた。いつまで続くかわからないが、新しい参加者の増えたのは嬉しいことだ。その中に仔犬とヨチヨチ歩きの子供を連れた夫婦が参加し始めた。その子どもが仔犬に引っ張られて遊んでいる姿が実に面白い。それを骨董屋の山ちゃんが写真に撮った。それが以下の写真である。そして公園の端っこの橋の崎では、カイツブリの雛が今年は4羽生まれたと、写真家の福山さんから、たくさんの写真を送って頂いた。変るものと変わらぬ万緑の公園を歩みながら、今朝も、4月30日に91歳となられた松崎翁と間もなく卒寿を迎える池田先生の元気な姿が見えるのが、一番うれしいことだ。
 万緑や仔犬に引かれ子の笑ふ 漫歩

      (写真 仔犬に引かれる幼子)

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ラジオ体操仲間全盲の近藤さんの俳句

ラジオ体操仲間全盲の近藤さんの俳句 17・3;27
 毎朝、ラジオ体操に白い杖をついてやって来るのは全盲の近藤さんである。徘徊と同じマンションの9階に奥さんと二人すんでいらっしゃる。知り合ったのは徘徊がラジオ体操に参加するより以前の、2010年5月半ばだった。あれからまる7年近い歳月が流れた。つい最近、近藤さんから「俳句を作ってみた」という話を聞いた。そこでぜひ見せて欲しいと頼んだ。すると以下のような、ひらかなで書いた俳句を見せてくださった。()内は徘徊が勝手に漢字を入れた俳句にしたが、なんといっても近藤さん自らが書いたひらかなの方が実感があって好ましい。
 かぜにのり さくらにおうや たやすもん
 (風に乗りさくら匂ふや田安門)
 つえついて らじおたいそう げんきでる
 (杖ついてラジオ体操元気出る)
 へんろみち たびびととおる こゑがして
 (へんろみち旅人通る声がして)
 どこでなく うぐひすのこゑ みみしみる
 (何処で鳴くうぐひすの声耳沁みる)
 わがみちに うぐひすのこゑ しょうがくせい
 (が道にうぐひすの声小学生)
 あさはやく にしにむかうは おへんろか
 (朝はやく西に向かうはお遍路か)

 近藤さんに盲目になったときの話を7年前に聞いた。近藤さんが緑内障を患ったのは63歳のときだった。医者からまもなく失明する可能性があると聞かされて、紙問屋の会社を人にゆずった。そして真っ先にヒマラヤ登山に出掛けた。ポーター10人を雇い、ヒマラヤの5500メートル地点まで歩いて登った。「テントは三つで、私と登山隊のリーダーが寝るテント、ポーターたちのテント、そしてトイレ用のテントだった。高山病にかかったりして大変だったが、いちばんやりたことだったから満足した」。その後近藤さんは四国歩き遍路にも挑戦した。あるとき、「春がきたといふことをなんで気づきますか」と問うた。「風が教えてくれます。うぐいすの声でも春がきたと知ります」と言った。うぐいすにも鳴き方の変化があるといふ。はじめは「ホウ」から「ホウ、ホウ」になり、段々声がのびてきて、一週間くらいで「ホウ、ホウ、ホウケキョ」と鳴くようにになる。以来7年間、これからは近藤さんと俳句を楽しもうと思う。
  春立つを風に聴くとや盲人  漫歩
      (写真 近藤さんの平かなの俳句 クリックして拡大)

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池田会長の入院と現役医師としての生き方

池田会長の入院と現役医師としての生き方 17・2・28
 今月はラジオ体操の友人の南光冶さんの急死という事件が2月8日に起きた。その同じ日に頑健で知られる池田会長が、体調を崩して急遽入院されていた。達磨くんたちからラジオ体操に池田会長が二三日見えないという話を聞いた。そこで池田耳鼻咽喉科医院に連絡したが通じない。やむなく池田会長の携帯電話にかけたが何回鳴らしても通じない。南さんのこともあったからこれは危ないと思ったが手の施しようもない。やがて池田会長から携帯電話があった。「いま慈恵医大に入院しています」ということだった。 
 2月8日の午後、診察中に急に体調が悪くなった。診察を中止して車で自宅に帰ろうと思ったが、いくら経って麹町の自宅にたどりつけない。三時間ばかり車でぐるぐる回って本郷の交番にたどりついた。警官に話をして息子の自宅に電話してもらった。駆けつけた息子夫妻が、車で慈恵医大に運んで緊急入院となった。肝臓の障害だというお話だった。「一週間で退院できますから来週の水曜日には出ていきます」というお話に一安心。先生の好きな四谷の鯛焼きを買って、水曜日にお持ちしたが先生の姿はなかった。また携帯で電話すると退院が延びて自宅には木曜日に帰るが、体操には来週20日の月曜日に行くということで一安心。かくしてみんなが心配した池田会長は無事復帰された。
 池田先生によると、本郷の交番では「もう90歳というお年だし免許証もこの際返還されては」と忠告されたそうだ。しかし先生は、仕事のこともあるしもう少し待って下さいと言って断った由である。驚いたことに月曜日にお会いした先生は、これから墨田区の医院に行って仕事だとおっしゃる。先生の日常は、多少認知症気味でしばしば転んで怪我をされる奥様の朝夕の食事などの面倒を見て、耳鼻咽喉科の仕事を週4回なさっている。自分の日常生活だけでウロウロしている徘徊老人など足元にも及ばない日常である。
◆高齢者の先達の後を追って行くということ
 2001年、68歳の時に初めてお四国遍路に旅立ってから、今日までいちおう自立して生活できる原因の一つは、106歳で亡くなられた吉行あぐりさんとの出会いがある。あぐりさんは98歳まで美容院の仕事をつづけられた。そのあぐりさんと朝の散歩でのお会いして名前は知らぬが会話するようになった。100歳まで現役のスキーヤーとして生き抜かれた三浦敬三翁の85歳からの自主自立した食生活など、徘徊は大先達の自立した生き方、食生活に学びながら今日の人生があるという思いが強い。はじめて散歩の道でお会いした吉行あぐりさんは93歳だった。曰く「私はね、年取ってから寝たきりになりたくないからこうやって歩いているのよ。貴方若いだからしっかりしなさい」と叱咤された。
 三浦敬三翁は85歳で妻に先立たれ、息子の三浦雄一郎の札幌の自宅に引き取られたが三カ月で「これでは自分がダメになる」と翻然と自覚し、東京に帰って自主自立の食生活を始められた。その三浦敬三翁の食生活、酢卵とはと麦ポンに学んで2005年以降、前立せん肥大、狭心症、高血圧、胃弱、大腸ポリープなどの薬を順次捨てて、いまや薬ゼロの日常生活となった。いつ果てるかはわからないが、現役医師の池田会長や公園最高齢、やがて91歳になる松崎翁などの後を追い続けている日々だ。
 木瓜好きと 言わせにんまり 老いの春 漫歩
      (写真  北の丸公園の梅とメジロ 中本勝美撮影)

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南光冶さんの急死と都会の孤独死

南光冶さんの急死と都会の孤独死 17・2・18
 我々数人で二年前からつづけている二水会という句会がある。毎月第二水曜日を定例会としている。この句会のメンバーの一人だった南さんが、先週の水曜日の句会に出てこない。見に行ったら亡くなっていたということを、先週のブログで書いた。何しろ直選距離で百メートルくらいのマンションにいた友人が、前夜、句会に出かけるとわざわざ電話して来たのに、翌日の句会に欠席、見に行ったら死んでいたというのは、何ともやりきれない思いだ。彼の遺体は2月10日に、新潟市の姪御さんが引き取りに見えて、警察病院から新潟に帰って行ったそうだ。お互い、マンションの一人住まいということで、気楽に付き合える仲だったのに残念だ。
 そうは言っても、会う人ごとに南さんの話をしたり、聴かれたりするが、みな異口同音に「でもよかったわね。長患いしないでぽっくり逝けて」という。あまりにも老々介護など悲惨な、長生きの話が多い世の中だけに、ポックリ死で、当日仲間が駆けつけて発見されれば僥倖ともいえる。骨董屋の山ちゃんは、近くのマンションに一人住まいだが、隣の部屋の住人が亡くなって三カ月も知らなかった。そういうことが都会のマンションでは増えているのだ。南さんと最もつきあいの長かった、山ちゃんいう。「南さんはあまりにも手を広げ過ぎて草臥れていた。シルバー人材センターの世話役やマンションの会長、それに趣味のバイオリンを習いに行き、夜は酒とカラオケが大好きだから、あちこちに顔を出す。飲み過ぎ食べ過ぎ、働き過ぎで疲れていたのよ。でもさびしがり屋だから、いつも誰かと会って居たい人だった」。
 たしかに彼はそういうところがあった。なにしろ三菱自動車のセールスマンとして有能な人だったという。バブルの頃にはかなり儲けたらしい。退職しても背広にネクタイできっちり決めていた。徘徊老人のように、髭を伸ばしてサングラスにジーンズというようなスタイルは、あまり彼の好みではなかった。私が冗談半分に、シルバー人材センターでごみ拾いや清掃の仕事をして見たいというと、「徘徊さん、働く気ならその髭を落として、サングラスもダメです」と真剣な顔で言ったのでびっくりしたこともある。
 遊び人だったから経験豊かであった。2013年の1月の風鈴会の兼題に「忘年会」というのが出た。40代半ばから酒席はできるだけ敬遠しているし、ましてや忘年会で酒を酌み交わしてカラオケというような趣味はもともとない。困ってしまって南さんにいろいろ忘年会の模様を取材した。そして次の句会に以下の2句を出した。先生にも句友にも選句されたが、これは、南さんの経験をもとにしてできた句である。
 年忘れ意中のひとに肩寄せて 年忘れ酔ったふりして手を握り 漫歩
南さんの2月8日夜の二水会に提出した5句のうち以下の3句が句友に選句された。彼はその結果を見ることなくあの世に逝った。どこかであのにんまりとした笑顔で見ているに違いないと思う。合掌
 立春の豆を見つける部屋の隅 立春や母校より来る寄付依頼 立春を過ぎ北国は雪まつり 光冶<
     (南光治さん遺影 中本勝美撮影)

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わが友南光冶の急死とその前後

わが友南光冶の急死とその前後 17・2・11
 2月8日夜は、九段の文学さんの事務所で、2年余り前からやっている数名の句会の日だった。毎月、第二水曜日を例会としており二水会と名づける会で、2月8日はその日だった。南さんはその句会のメンバーだったが、一年余り前から多忙を理由に参加しなくなった。ほぼ同じ時期に公園のラジオ体操も欠席しがちになった。理由を聞くと「睡眠のリズムが壊れて、夜中に眼が覚めて早朝に食事をして、ちょっと横になるとまた寝てしまう」というのだ。徘徊もかつて不眠症の経験があるから、その苦しさもわかる。「無理して句会やラジオ体操に来るよりまず睡眠を第一にしよう」と話をした。
 一年余り御無沙汰だったが、一か月前の1月の句会の終る頃、ひょっこりと顔を出した。南さんも文学さんも酒好きだから話が合う。なんとなく調子よくなって「来月は句会に来るようにします。酒も文学さんの好きないい酒を持参します」と言い出した。そして今月の句会が2月8日であった。前日の2月7日夜9時前に南さんから電話があった。「俳句5句をメールで送信しましたのですが、見てくれましたか」という電話だった。ところが当日の夜、句会が始まっても顔をみせない。前日わざわざ確認の電話をしてきたのに、と思ったが「また睡眠のリズムがくるって寝ているのかな」などと軽く考えていた。
 句会が終わった後には、文さん手づくりの料理や、みんなで持ち寄った食べ物で飲み会になる。7時半くらいだったろうか。骨董屋の山ちゃんから電話が来た。「南さんが、今日のシルバーボランティアの幹部会に来ていない。心配だから部屋まで行ってみてきてほしいとの依頼があった。徘徊さんも一緒に行って」という。自分も気にしていたので「わかったすぐ行くよ」と返事した。南さんの住まいは、文さんの事務所から一軒となりの高速道路脇の都営マンションだから簡単だ。待ち合わせて12階の1205号室のドアを叩いたり、蹴ったりして声をかけたが返事はない。郵便物入れを開けて、携帯電話番号を押すと電話が鳴る。部屋にいることは間違いないが、倒れているのだと判断した。すぐに警察がかけつけてきた。
 玄関のカギは開かないので、警察官が隣の住人の了解を得て、出窓を伝って部屋に入った。倒れているので救急車を呼んだ。しかし、救急隊員はすぐに帰って行った。もはやこと切れて、救急車の必要がなかったのだ。初めて知ったが、部屋で亡くなっているのが確認できると救急車の出番はなくなる。事故死の原因究明のための捜査活動ということになるらしい。我々も死顔を見たいと思っても、現場検証の現場に立ち入る資格がないのだ。遺体は現場検証の後、警察病院に運ばれて遺体解剖をして原因究明にあたる。今日11日現在、まだ警察病院だ。郷里の新潟市からお姉さんの娘が縁故者として到着して、その後、遺体を引き取り火葬場に運ぶことになる。
 虫の知らせということであろうか。この一カ月ご無沙汰続きの南さんと二回、カレーの店「ベル」で出会った。そこで今月から句会に来るという話になった。翌日の9日の夜「ベル」でママと会って昨夜来の話をした。ママは「きっとなにか感じることがあって徘徊さんたちに逢いたくなったのね」と言った。ママによると「ベルの常連のうち三人の酒好きがすでに風呂場やトイレで急死した。南さんは4人目よ」ということだった。昨夜10日夜は、友人の田中やすゑさんの息子で著名なピアニスト田中正也の演奏会に文さんらと招待された。東京芸術劇場 都民芸術フェスティバルで ピアノ 田中正也  指揮 三ツ橋敬子 リストの協奏曲1 番であった。生まれて初めて最前列の席で、田中正也の見事な演奏を堪能した。演奏を聴きながら、南さんがピアノ、バイオリンを習い、彼の演奏会に招待された日のことを思い出していた。お世辞にも上手いとは言えなかったが、バイオリン弾きの中に彼が居て、にんまりと笑掛けているような気持ちがした。
  友逝くや夜のマンション冴え返る 友逝くと知るや白梅咲にけり 漫歩
      (写真 北の丸公園の白梅 環境庁提供)

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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