沖縄慰霊の日「6.23」-沖縄と出会い直すために 

沖縄慰霊の日「6.23」-沖縄と出会い直すために 18・6・26  
 辺野古基地の土砂投入が8月となって、現地の状況は緊迫している。本土からの土砂搬入を阻止する運動を展開しているグループの毛利孝雄氏が、新社会に以下のような問題提起をされた。
■ 沖縄の記憶を切り捨てて生きてきた
 「6・23(ロクテンニイサン)」-この響きには、悔いの気持ちが混じる。
 20年前、初めて沖縄を訪れた。6月23日が「沖縄・慰霊の日」であることすら記憶していなかったことに、心底打ちのめされていた。しばらくして、1983年の6月23日、本土では東北新幹線開通を祝う国と地方による祝賀行事が行われていたことを知った。8月6日・9日・15日に、はたしてこの種の記念行事を行いうるだろうか。私自身もまた、沖縄戦の記憶を切り捨てて生きてきた、平均的本土人のひとりではなかったか。
 友人の元高校教員Tさんの「沖縄」との出会いも強烈だ。沖縄の大学に進学したい、という娘さんの希望をうれしく受けとめてきた。ある日、予備校の講師から呼び出され、思いがけない言葉をかけられる。「本当に沖縄でいいのですか?はっきり言って、沖縄の大学を出ても本土では使いものになりませんよ」。さらに同僚の女性教師からは「あんな危険なところに娘さんをひとりでやるなんて、親として失格」と叱責される。
 本土に流布する沖縄観、それは本土側の戦争観や民主主義意識の反映でもある。私たちは、本土の沖縄観とどれほど正面から向き合えてきただろうか。何が変わり、何が変わらなかったのか。
■ 不発弾と人骨と所有者不明土地と
 住民4人に一人が亡くなった沖縄戦は、73年を経た今も沖縄社会を規定する。
 那覇空港に降り立つと「不発弾の機内持込禁止」のポスターが迎える。今も、とりわけ沖縄本島中南部の工事現場からは、人身大ほどの不発弾や人骨が出てくる。不発弾処理は平均すると月2回ほどにもなるだろうか。周辺住民の一時避難、経費の一部負担など県民生活への影響も大きい。最終処理まではあと7~80年かかるとされる。そして、いまも家族の元に帰ることなく埋もれたままに眠る数多の遺骨たち。
 市街地を歩くと、草の生い茂るままに放置された空き地が散在する。沖縄戦による戸籍の消失や家族全員の戦死などによる所有者不明土地だ。地区計画やまちづくりを進めるうえで大きな障害となっている。戦後73年間放置が続く一方で、米軍基地内には不明土地は存在しない。基地の安定提供のために、不明の境界線は国の手で引き直されている。
■ 出会い直すために
 去る3月急逝された新崎盛暉さん(沖縄大学名誉教授)は、日米関係史から見た沖縄問題を次のように概括している。
「アジア太平洋戦争の末期、天皇と本土を防衛するために沖縄を捨て石にしたこと、敗戦処理にあたって、本土の主権確保と天皇制存続のために、沖縄の施政権を放棄し米軍への基地提供を行ったこと、それが今日まで及んで、沖縄の政治的経済的構造を形づくっていること」(岩波新書「沖縄現代史-新版」からまとめ)。
 戦後73年目の「慰霊の日」を、沖縄は
かつてない緊迫感の中で迎える。辺野古工事強行と南西諸島への自衛隊配備。一方で、「土人」発言をはじめネットに蔓延する沖縄ヘイト。本土と沖縄、出会い直すことはできるのか。
「6・23」を、あらためてその機会としたい。
利孝雄・「週刊・新社会」に書いたものを編集しました。
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野上弥生子 昭和天皇の戦争責任を問う

野上弥生子 昭和天皇の戦争責任を問う18・5・26 
 作家の野上弥生子は、1970年公害研発足当初に取り組んだ臼杵市の大阪セメント反対運動のリーダー小手川道郎さんの叔母にあたる。よく話をきかれた。そういうなかで野上弥生子の反戦の思想は、戦前から強固だったことを知った。中村智子著『野上弥生子の日記から』によれば、弥生子は天皇の戦争責任について繰り返し書いている。
 三百十万の民衆を殺した責任者 沖縄の悲惨を「ねぎらう」の一言。「日比谷公園ではじめて政府主催の戦没者三百十万人の追悼式が行はれ天皇皇后は終戦が布告された11時カツキリに黙悼、追悼の言葉のあった事が新聞紙上に報じられている。しかしこの310万人の人が誰の名において死んだかをもし考へることができたなら、こんな場所にのぞむ勇気はもちえないはずであらうに。」(63・8・16) 「三百数十万の民衆を殺した責任者が、その責任を間はれないのみか、臨席してゐるのを光栄としてゐるのだから、空虚で形式だけの記念会になるのはいっそあたりまへであらう」(65・8・15) 「武道館で行はれた[沖縄復帰の]祝賀会での天皇の言葉にはいまさらに驚かされたものだ。彼はオキナワ人民の今日までの悲惨な体験に対して、「ねぎらう」なる言葉しか用ゐず、また今日の復帰をもち来すまでの苦心をも「多とする」といつたのみであった。これに憤りを感じない人間はないはずだが、新聞もテレビも決してその一事には触れなかった。こうした日本を一度こさえ直さないかぎり、美しい日本もなにもあったものではない。」(72・5・18)「天皇が今日で歴代のどの天皇より長く在位になると発表。どの天皇もしなかった対外戦争で、あれほどの惨禍に人民を陥れて、のうのうと長生きしてゐることにおいても、他の天皇にはないものであらう」(72・6・23)[終戦記念日]天皇の空虚な言葉、いつものことながら不快なおもひ。自己の責任についてはセキゲン、半句もない。』(72・8・15)
●沖縄と弥生子
 フンドーキン株式会社会長・小手川力一郎氏による野上弥生子のエピソード。氏は、野上弥生子の甥である。
 ある時、伯母から突然、お前は、会議所の会頭だそうだが、沖縄を助ける事は出来ないかと言われました。私は思いもよらぬ事を言われて、唖然としました。沖縄を助ける事は政治家のする事です。臼杵の会議所の会頭に何が出来ましょうか、認識違いも甚だしいと答えました。伯母は、会議所には全国組織がないのかと聞くので、それはあります。然し、会議所に沖縄を助けるそんな力はありませんよ、と言いました。伯母はそれっきり黙ってしまいました。私は、伯母は何とトッピな事を言う人かと思いましたが、その時の真剣な伯母の顔だけは頭に残りました。
●戦争ぎらいだった弥生子
 弥生子は戦争ぎらいでした。戦争は絶対起こしてはいけないと思っていました。朝日新聞は、毎年正月一日に新春のことばと題して多くの人の今年の願いを掲載致しました。昭和十二年の一月一日の新聞に、野上弥生子は、一つのねぎごと(神に祈る事)として「神聖な年神さまにたった一つのお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか、いいえどちらでもよろしゅうございます。コレラとペストが一緒にはやってもよろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように……」
 この事は反戦思想であるとして、随分評判になりました。不幸にして、その年の七月に支那事変が始まりました。
注: 野上弥生子(のがみやえこ)、旧姓小手川、1885年(明治18年)5月6日生まれ−1985年(昭和60年)99歳没。(現小手川酒造)三代目、角三郎とマサの長女として臼杵に生まれた。本名ヤエ。15歳で単身上京、同郷の野上豊一郎と結婚したのち、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始めた。以後、99歳で逝去するまで現役作家として、「海神丸」「真知子」「迷路」など多数の作品を発表した。昭和39年に「秀吉と利休」で、女流文学賞を受賞、昭和46年には文化勲章を受章した。

日米地位協定独伊の差 国内法適用の独伊

日米地位協定独伊の差 国内法適用の独伊 018・4・18
毎日新聞2018年4月18日は、「日米地位協定と米独、米伊協定の比較」党記事を載せた。沖縄県知事公室の職員3人が2月上旬、米空軍基地がある両国の4市町を訪問し、首長らへの聞き取り調査を実施。報告書を3月末に公表したという記事だが、以下にその要旨を紹介する。
―相次ぐ米軍機の事故やトラブルで、在日米軍の権利などを定めた日米地位協定が改めて注目されている。米軍が特権的に振る舞う根拠となっている協定の改定を求める沖縄県は、日本と同じく第二次大戦の敗戦国であるドイツとイタリアの地位協定を調査した。ドイツ南西部、在欧州米空軍司令部が置かれるラムシュタイン基地。米軍にもドイツの航空法が適用され、午後10時~午前6時は原則として飛行が制限される。基地内にドイツの警官2人が常駐して警察権を行使するほか、「騒音軽減委員会」が設置されている。
◆独伊ともに国内法適用で訓練・演習は許可権限を国と市が持つ
同委には米軍司令官や周辺5自治体の首長、市民団体の代表者ら20人以上が参加し、米軍から深夜・早朝の航空機の離着陸回数などのデータが報告される。ドイツは駐留米軍の訓練・演習について許可・承認する権限も持つ。イタリアでは米軍基地はイタリア軍が管理し、同軍司令官が常駐している。北部の米空軍アビアノ基地があるアビアノ市副市長によると、イタリア航空法令が米軍に適用され、州レベルで地域委員会を設置。自治体の要望によって飛行ルートも変更されるという。
 両国とも、駐留当初から米軍が同様に対応していたわけではない。ドイツは1993年まで3回にわたって米国などとのボン補足協定を改定し、米軍基地がドイツの主権下にあることを明確化した。イタリアでは98年、米軍機がロープウエーのケーブルを切断して乗客ら20人が死亡した事故を機に、米軍機への規制を大幅に強化した。ランベルト・ディーニ元伊首相は沖縄県の調査に対し「ここはイタリアだ。米軍の全活動にはイタリア軍司令官の許可がいる」と言い切った。
◆改定一回もなく米軍主権の日本「騒音違反」も日本では常態
 これに対し、日米地位協定では原則、米軍に国内法が適用されない。航空法は地上の人や物、航空機の安全を確保するため最低安全高度(市街地300メートル)を定めているが、米軍機は対象外だ。政府には米軍の訓練・演習を規制する権限もない。全国の米軍専用施設の約7割が集中する沖縄では、騒音軽減のための日米合意さえも守られない状況が常態化している。96年、日米両政府は嘉手納基地(嘉手納町など)と普天間飛行場(宜野湾市)について、午後10時~午前6時の飛行を原則として制限する航空機騒音規制措置(騒音防止協定)に合意した。だが、防衛省沖縄防衛局の目視調査では、2017年度(今年2月末現在)の飛行制限時間帯の離着陸などの回数は1420回に上る。嘉手納町では騒音などへの住民の苦情件数が同期間で940件もあり、既に前年度の3.6倍に達している。町によると、最新鋭ステルス戦闘機F35A12機が嘉手納基地に暫定配備された昨年11月以降、苦情が激増している。町基地渉外課の我謝(がじゃ)治彦課長は「寝静まっている時間帯に米軍機が飛ぶことに住民は不満を抱いている。米軍へ抗議しても状況は変わらない」と話す。米軍の主権侵害とも言える日本の異常さを物語る。【福永方人、遠藤孝康】
 (図は日米地位協定と米独・米伊協定の比較) .クリック拡大

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名護市長選挙敗北 嘆かず依存せず 

名護市長選挙敗北 嘆かず依存せず 18・2・10
 名護市長選挙の敗北をどうみるか、友人の毛利さんからい「チョイさんの沖縄日記 辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録 嘆かず、依存せず、できる限りのことを黙々と、淡々とやっていく」という記事が寄せられた。同感する点が多い。以下に要旨を紹介する。
 ー018年02月04日  名護市長選、稲嶺さんが負けてしまった。しかし、打ちひしがれるわけにはいかない。私は2月3日(土)、ゲート前の集会で、工事の状況について説明を求められてマイクを握った際、最後に次のように述べた。「投票日の前日にこんな話しをするのは不謹慎だとしてお叱りを受けるかもしれませんが、明日の選挙結果によっては万一の事態もあり得ます。しかし、その時でも私たちは、ああもうダメだと諦めるわけにはいかないのです。私たちが諦めてしまった場合、防衛局はどんな違法工事でもどんどん押し進めてきます。埋立工事についての最終的な権限は知事が握っています。県民が抗議行動を強め、そうした県民の支えをもとに知事が自らの権限を毅然と行使する限り、工事はいずれ頓挫します。明日の選挙結果が万一のことになったとしても、私たちは打ちひしがれるわけにはいきません。諦めるわけにはいきません。そのことだけは是非、確認しておきましょう。ただ、
そういう事態にならないように、後で悔いが残らないように、明日の投票日までせいいっぱい頑張りましょう。」
  このような厳しい状況の中で思い出すのは、目取真俊さんの言葉だ。昨年4月、大浦湾でK9護岸のための石材投下が始まった時、目取真さんは、石原吉郎の「ペシミストの勇気について」というエッセーに触れ、「絶望も希望もない。その場でできることを黙々と、淡々とやるだけですよ」と述べられたという(沖縄タイムス 2017.4.26)。この目取真さんの話を「視点」というコラムで紹介した阿部岳記者も、「力をくれるのは、やはり単独者としての勇気なのかもしれない。嘆かず、他者に依存せず、一人一人が『命と尊厳は諦められない』と、自らに確かめることはできる」と、そのコラムをまとめている。嘆かず、依存せず、黙々と」。今、私たちに求められているのは、このことである。ー (目取真 中原吉郎 ペシミストの勇気 沖縄タイムス 2017.4.26) クリックで拡大

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新潟飛行場拡張反対期成同盟 関連年表 1950~1959

新潟飛行場拡張反対期成同盟 関連年表 1950~1959 資料編

●1950年
  7・ 1 第一次23町歩の農地が領軍の圧力で一方的につぶされ米軍基地になった。

●1952年
 11   第二次農地2町2反接収 第三次接収27町歩がつぶされた。

●1954年
 11・25 調達庁 第4次拡張計画発表。地元説明会で追い返された。拡張計画は、①土地約70町歩、②土地所有者240人、③世帯42人。
 12   河野新町をはじめ関係4部落が反対決議、知事に陳情書提出、
 12・20 新潟大学生自治会は、街頭で反対署名運動を開始。

●1955年
  1・14 新潟県労協の呼びかけで新潟飛行場拡張反対期成同盟発足。
  4・23 県知事選で野党の押す統一候補北村一雄、25万8千票差で自民現職を破る。
    (北村は自民の現職参議 当選:北村一男 671,007 無 落選:岡田正平 412,295 無 投票率83.60%)
  5・24 県議会で新潟飛行場拡張反対決議、満場一致。
  5・12 反対同盟知事と会見、知事は首相、調達庁に反対の意思を伝えると回答。
  5・29 福島調達庁長官、知事と会見。知事は立ち入り調査要請に、県議会決議尊重と回答した。
  6・3  衆議院内閣委員会で新潟米軍基地反対同盟箱岩善一ほか一名が参考人陳述で反対の理由を説明した。
  5・29 新潟県教組第18回大会、新潟米軍基地拡反対を決議。
  6・03 反対同盟国会対策強化、県選出議員に反対を懇請。
  7・25 知事は仙台調達局長に立ち入り調査拒否。調達局公告を握り潰し。
     新潟市連合青年団、飛行場反対総決起大会で反対を決議。
  8・ 5 閣議で拡張へ知事の協力要請、知事は、もし業務命令が出て知事の首が飛ぶようなことになれば、県民が承知しないだろうと反対持続を表明。
  9月  農民労組員による現地バリケード構築、900本の杭と5,000mのバラ線で1,500m。
  9・ 3 白山公園で新潟飛行場拡張反対県民大会、全県下から5,500名参加。砂川、大高根、浅間、その各基地代表参加。
  9・10 県市長会臨時総会、賛成多数で拡張反対決議、県内市町村議会過半数反対決議。
  9・18 反対期成同盟常任委員会、砂川町強制測量後初の会議で絶対反対の方針を確認。
     具体的には、①県知事の公告拒否をさらに続けさせる、②調達庁の強制測量は断固阻止する。
  9・21 東京行動。 22 第四回全国軍事基地反対代表者会議参加。
  9・26 地権者の委任状を取り付けるための第一回法律懇談会。
  9・23 根本官房長官、新潟基地問題で知事、県会、地元との話し合いを持たずに測量を強行したり、知事に対する公告実施の強制命令発動、また知事罷免の挙に出ることはないと語る。
  9・27 福島調達庁長官、新潟県知事があくまで公告を拒否する場合、調達庁が代理公告することが出来ると表明。
     これに対し北村知事は新潟飛行場に反対するという私の態度はいまも変わらない。地元の被害、その他基地の及ぼす影響を考えれば当然のことだと述べた。
 10・ 1 新潟市の大火発生。昭和30年(1955年)10月1日未明、当時新潟市医学町にあった県教育庁から出た火は、おりからの強風にあおられて、またたくうちに燃え広がり、市街地を火の海にした。出火原因は、教育庁の漏電とされている。8時間にわたって燃え続けた火により、市の中心部の主な建物を総なめにして、さらに礎町の方にも飛び火した、全半焼した家屋は1,000余戸に達した。
 11・20 臨時列車12両による大陳情団1,100名が夜行列車で上京。
 11・21 上野駅着、社会党軍事基地委員長加藤勘十、三宅正一、桜井、石田、稲村、清沢、小林の衆参議員が出迎え、両国国技館で砂川、大高根、木更津、茨城神之池、福岡板付など全国から合流、総勢約1,500名の大陳情団が結成された。
     10時半28台のバスに分乗して調達庁、自治省、農林省、首相官邸、米国大使館、防衛庁、大蔵省など氷雨を衝いて陳情。午後3時半から浅草公会堂で報告大会後、夜11時半発夜行列車で帰郷。
 11・22 箱岩県労協事務局長ら9名、全国軍事基地反対連絡会議参加。

●1956年
  1・ 7 闘争開き 現地闘争本部で開催。
  2・ 9 新潟商工会議所、新潟市長とともに知事に会い、他の地への移転を要望。
  2・21 全国軍事基地反対連絡会議(基地連)大阪会議に参加。
6・20 新潟市公会堂で、新潟基地拡張反対期成同盟一周年記念大会。
  8・ 9 長崎市での原水爆禁止第二回大会に保科事務局次長ら参加。
  8・15 反対期成同盟の箱岩事務局長(県労協事務局長)急逝。
  9・ 1 沖縄人民党瀬長亀次郎を迎え寄居中学校で報告会。
 10・ 2 砂川現地闘争に第一陣20名、第二陣10名参加。
 10・ 6 砂川現地闘争支援隊、当初計画の4倍122名、延べ370名が参加。
 11・20 新潟と砂川を結ぶ集会、新潟市公会堂で開催。砂川の青木行動隊長ら10余名参加、沖縄代表も参加。

●1957年
  2・13 基地反対期成同盟の婦人代表20名が砂川訪問 一泊懇談、砂川町役場で青木行動隊長ら地元民50名と懇談。
  3・30 基地反対期成同盟の要請で砂川から婦人8名が新潟へ。
  4・  社会党の全国軍事基地対策会議委員長野溝勝を団長とする9名の調査団来る。
  4・ 5 拡張反対期成同盟報告大会を開催。
  5月以降 新潟米軍基地の兵力削減、勤務要員の大量解雇始まる。
  6・17 農民労組員のカンパによる宣伝カー命名式、平和号と名づける。
  6・24 砂川、大高根、沖縄の代表を囲んで地元座談会を開催。
  7・  平和号県内を巡回、基地反対、原爆反対。
  8・10~16 平和号第三回原水禁長崎大会に参加。

●1958年
  3・ 4 在日米軍は仙台調達局に新潟飛行場を31日に返還すると通知。
  3・31 新潟飛行場返還式。5月以降は、東京―新潟間の民間飛行場空港となる。

●1959年
  1・26 新潟飛行場反対期成同盟婦人部が砂川に「越後の餅」を贈る。

<参考資料>

①『新潟日報』関連記事 1955~1958年 国会図書館立法考査局国会レファレンス課作成
②『新潟県教職員組合史』第2巻第16章 新潟飛行場拡張反対の闘い
③ 特集 基地日本―この実情を見よ 相次ぐ拡張と接収 新潟飛行場基地 河出書房『知性』昭和31年第3巻1号
④ 新潟飛行場拡張反対期成同盟 渋谷武 論文 『年報政治学』11巻 1960年
⑤ 『砂川闘争の記録』 砂川闘争年表 宮岡政雄/著 お茶の水書房 
⑥ 『砂川 ひろがりゆく日本の抵抗』 砂川町基地拡張反対支援労協/編集発行
⑦ 新潟基地反対運動を研究 沖縄との類似性を感じる 左近幸村 新潟日報2017・3・25
⑧ 福岡愛子 風間作一郎さんインタビュー 2017年12月20日

 上記資料のうち、①~④は国会レファレンス課文献提供係・係長諸橋邦彦氏による。

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
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路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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