藤田恵の戦中戦後 兵事係りの恣意的徴兵

藤田恵の戦中戦後 兵事係りの恣意的徴兵 17・8・22
 「老人はゆく」、8月18日号に徘徊老人の「軍国少年の戦中戦後」を書いた。これに対する畏友藤田恵氏(元徳島県木頭村村長)から、長文のコメントが寄せられた。以下に紹介したい。彼とは長い付き合いだが、こういうことを話しあったことはなかった。生きているうちにわが友の戦中戦後を知ることができたことを感謝したい。
◆タイトル:兵事係 藤田恵 五人もの兄が戦争に
 一九四五年八月一五日に日本が無条件降伏した日米戦争(第二次世界大戦)では、私の五人の兄に赤紙が来た。二人が戦死、一人はほぼ全滅したガダルカナル戦で一時密林へ逃げ込み奇跡的に生還。後二人の兄も何とか戦後に生きて帰って来た。五人が戦地にいる間に両親は病没し、家に残された六人の兄弟の中で一番の年上はその時一一歳の姉だった。 苦労してやっと一人前に育て、働き盛りの五人の息子を全て強制的に戦地へ送られた両親の無念さと、一一歳の姉の惨さを想像すると、これ以上の過酷な仕打ちは無いと、私は何時も腹立たしい限りだ。これも兄五人が戦争に取られたことが元凶である。
 私は物心が付いてから、何時も頭から離れなかったことは、五人の兄たちとほぼ同年代で、戦争に行っていない元気な人が近くに何人かいることだった。この中には村内で屈指の資産家の二人の兄弟もいた。その頃、意味は解らなかったが兵事係という用語を知り、五人の兄と何か関係があるのではないかと子供心に残り続けていた。その後、この「五人の兄との関係」が判明した。つまり、赤紙を誰に出すかを実質的に決めていたのは村役場の兵事係だったのだ。そのうえ、可成り兵事係が恣意的に決めていたことも分かって来た。 この兵事関係の書類は敗戦と同時に全て焼却されたらしいので、今更詳しい内容を知ることは不可能である。せめてその兵事係の名前だけでも知りたいものだと何時も思っていたが、既に敗戦後七一年も経ち当時二〇歳の若者でも今は九〇歳を超えたことになる。当然、戦時中の村役場の事情を詳しく聞き出すことは到底不可能なことだと諦めている。しかし、私たち一家を不幸のどん底に落とし込んだ兵事係が恣意的だったしたら、絶対に許すことは出来ない。前記のようにせめて名前だけでも知りたいという私の気持ちは、無理の無いことだ思っていた。
◆兵事係へ復讐 松本清張の小説「遠い接近」
 ところが、名前を知りたいどころか、兵事係と軍隊で制裁を加えられ古参兵を探し出して二人に完全犯罪を狙って復讐するいう、松本清張の半自伝的長編小説「遠い接近」を最近読み、私の兵事係に対する推測と、戦争から帰って来た三人の兄から再三に聞かされていた軍隊の過酷さと出鱈目さが事実であったことがはっきりした。「遠い接近」の粗筋は、石版画工の山尾は、腕で一本で家族を養うために印刷屋からの締め切りに毎日追われ、仕事は深夜まで続くので、戦時訓練は休みがちであった。山尾の事情も考えず、欠席を根に持った兵事係は三ヶ月の教育訓練の赤紙を山尾に出す。訓練では何の理由もなく、古参の兵士から翌日も起き上がれないほど殴られる地獄の暴行が続く。三ケ月で家業に復帰できると辛抱していたのに、二ケ月で本式の赤紙を受けて朝鮮へ出兵。稼ぎ手が不在の親子六人は、東京から田舎の広島へ疎開して原爆により全滅する。敗戦後に東京へ帰った山尾は、殴られた古参兵の闇商売の手下となるが、恨みは決して忘れてはいない。そのうえ、自分と家族を破滅に追い込んだ赤紙を出した兵事係を突き止め、二人に復讐を実行する、という内容だ。小説ではあるが、赤紙の理不尽極まりない手続きの実態と、徴兵された兵隊の扱いがどんな過酷であったか。ここまでの話は三五歳で教育召集を受けその後朝鮮へ送られた松本清張の自伝そのものである。
◆ケツベタ、蝉 海軍の棍棒制裁と苛め
 ケツベタ=海軍では何の理由もないのに、精神棒という樫の棒で尻を何回も殴られ、毎日ように殴られる兵隊は尻が腐って死亡したり、除隊させられる者もいた。蝉=同じ理不尽な制裁で、柱などに蝉のようにしがみ付き「みんみんみん」と蝉の鳴き声を強制する。これを笑いながら古参兵らが眺めて「蝉になっとらん」などと背中を樫の棒で叩く。海軍で一人一回の入浴に使える湯は洗面器に三杯まで。これで体を洗い、衣類も全て洗濯しなければならない。洗った服や靴下などを干しておくと必ず盗まれるので、交代で見張りをした。それでもなお少しの隙に盗まれることがあった。服装検査の時などに「盗まれた」と言い訳をすると「天皇陛下の物を盗まれるとは何ごとか」と精神棒が飛んでくるので、必ず盗み返さなければならなかった。以上は海軍の兄から聞かされたごく一部であるが、小説にも全く同じ制裁がある。
◆軍隊で「病死」とは苛め暴行の結果だった
 安倍自公政権は戦争の国を目指して暴走中である。今は戦争をしていなくても学校、職場などあらゆるところで「いじめ」と胡麻化している理不尽な暴行や暴力が日常茶飯事となるほど日本は狂ってしまった。既に現在の自衛隊でも多くの自殺や逃亡が問題となっている。これが徴兵制となり戦争で明日にも戦死するかも知れない軍隊ではどうなるか。小説と兄の話と同じように、全く理由のない暴行や暴力は歯止めなく拡大することは火を見るよりも明らかである。暴行で殺されても、何事も全てが密室の軍隊では「病死」として遺骨だけでも家族に届けば良い方だろう。
  蝉時雨無名戦士の墓に降る 漫歩

      (松本清張作「遠い接近」文春文庫)

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山村の軍国少年が経験した戦争

山村の軍国少年が経験した戦争 17・8・18
●叔父茂のブーゲンビル島からの葉書
 戦争が終わったときは12歳だった。72年前の話である。山村の軍国少年の戦争体験は、外地から引き揚げてきた人々や、都会で空襲を受けた方々の地獄絵図のような体験からみると大したことではない。それでもいま思い返すと、片田舎の山村でも生死というもは日常茶飯事だった。支那事変から太平洋戦争にかけてたくさんの屈強な若者が召集された。私の父方の叔父1人、母方の叔父兄弟も召集されて出て行った。父方の叔父は無事に帰ってきたが、母方の叔父兄弟は2人とも帰って来なかった。兄の方の敏継叔父が北支那で戦病死したのは昭和14年。当時、小学校1年生だった私の記憶では、白木の箱に収まった遺骨を囲んで、親戚一同が声をあげて泣いていたことくらいである。弟の茂叔父は、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年に召集された。いつものように村境の峠まで村の人々とともに送って行った。「天皇のために戦って来い」という激励はあったが「生きて帰って来い」ということばはなかった。私は小説を読む楽しさを教えてくれた叔父が好きだった。その叔父が最後に脇を向いて涙をぬぐっていたのを今でも思い出す。“忠勇無双のわが兵”としては見せてはならぬものといわれていたが、あの涙は子ども心にも悲しかった。
母方の祖父母は我が家の隣に住んでおり、祖父は炭焼きなど山仕事で生計を立てていた。茂叔父も召集までは一緒に炭焼きに山へ通う日々だった。時々届く葉書が祖父母の唯一の頼りだった。いまでもはっきり覚えているが、「南方派遣沖6094部隊浜野隊4班 上畑茂」と書いてあった。あるとき色鉛筆で炭焼き小屋を描いた葉書が来た。そこには「炭を焼く老爺の肩に白き雪」とあった。赤道直下の炎熱のジャングルで、どんなにか雪降る故郷は恋しかったろう、と今にして思う。
●母の死、敗戦、叔父の死と祖母の狂気
 昭和20年は、私の人生にとっても、祖父母にとっても忘れ難い年となった。祖父母は子どもとの縁薄く、すでに長男は戦病死、次女は嫁入り先で病死していた。残されたのは長女である私の母と茂叔父だけだった。まず子ども6人を生んで病気一つしたことがなかった私の母が風邪をこじらせて半年間病臥して20年の4月に亡くなった。そして8月の敗戦である。軍国少年のわたしは茫然自失、涙も出なかった。人は悲しみ極まると涙も出ないものだと知った。まして鬼畜米英に負けると女は強姦され、男は金玉を抜くといわれていた。それを信じていたから絶望と恐怖におびえた。
 負け戦を玉砕といってたたえ、戦線を後退するごとに撤退という言葉でごまかした。最後は特攻精神で「一億玉砕」「進め一億火の玉だ」と小学生まで竹やり訓練の日々だった。敗戦間近かのころである。廃品回収に子どもたちがグループで回っていた。親戚の30代の男性が肺結核で1人で静養していた。そこえへお願いに行ったとき「お前らまだこんな莫迦なことをしているのか。この戦争は負けるに決まっているんだ」と罵られた。軍国少年の私はこの男性を「非国民」と激しく憎んだ。
 敗戦を契機に、村には復員軍人、軍属などが帰郷して賑やかになってきた。徴用工として呉市にいた私の長兄、少年兵として加古川市にいた次兄も帰ってきた。食べ物はなくそれこそさつま芋の葉っぱまで食べる日々だった。しかし南方派遣の茂叔父の消息はまったく途絶えていた。祖母は毎日、庭先に出てなにかを待っていた。というより待ちわびていた。年を越えた冬のある日、茂叔父の戦友という人が訪ねてきてた。叔父は敗戦前日の昭和30年8月14四日、ブーゲンビル島で栄養失調のため死亡した、という。白木の箱ではなく粗末な入れ物のなかには茂叔父の紙一枚で骨はなかった。。その夜、祖母は狂った。「わあー」というような叫び声をあげて裸足のまま雪の夜道に走り出た。あのなんとも形容し難い悲痛な「咆哮」は72年後のいまも耳朶に残る。最後の望みであった茂叔父の死によって、祖父母は4人の子どもすべてを失った。
●戦争責任をうやむやにした大人の世代
 戦争に万歳を叫んで、天皇のために死ねと叫んだ大人や先生方は見事に変身した。なんのためらいもなく教科書に墨を塗らせ、鬼畜米英転じて平和と民主主義礼賛になった。天皇は人間となり、新たに全国を回った。それを歓呼の声で迎える大人たち。あの違和感はいまでもぬぐえない。食料難のなかで謹厳極まりない怖い校長先生が、父兄からの食物の差し入れに見せた卑しい笑顔を垣間見た。絶望と落胆、人間不信、そしてどん底の中でこそ芽生える「希望」のようなものをこの一年間で存分に味わった。
 やがて軍国少年も人並みに平和少年に転身する。米英憎悪から、戦争指導者への憎悪に変った。だがそれでよかったのかと、いまにして思う。日本人全体が、どこかで決着をつけるべき事柄を、あいまいにしたまま戦後の平和と繁栄を貪り続けてきたのではないか。歓呼の声で若者を戦場に送り出した民衆の責任、また戦場に行った模範青年たちがやむなくかあるいは自発的にか冒した殺人や強姦、略奪の責任、そういうものすべてに口をぬぐって生きてきた。それは「戦犯」にのみに押し付けてすむ問題ではなかったはずである。決着をつけないままの戦後72年が今日の改憲、靖国、自衛隊問題に噴出していると思う。その意味で私はいま80代以上の戦争体験者の「戦後責任」は重いと思う。
●戦後12年後他界した祖父そして自殺した祖母
 祖父母は黙々として、世間へのかかわりすら避けるように生きた。戦後、すべての家庭に電灯が灯るようになった。私はラジオで聞く世界の広がりに歓喜したが、祖母は頑なに電灯をつけることを拒んだ。苦しんで死んだ息子を思えば、そんな現世的な楽はできないというのだった。私たち6人の孫は、頑固な祖父母を顧みることなく、前を向いてそれぞれ東京へ、北海道へ、あるいは京阪へと散っていった。私は昭和30年に東京に出た。32年春に結婚して父や祖父母と会いに帰った。それが最後である。その年7月、祖父上畑太平治78才で病死。追うように11月、祖母きしのが75才で死去。父から祖母は自殺と伝えられた。
  叔父の骨いまだ帰らず敗戦忌 漫歩

戦後70年ノート⑧  敗戦か終戦かの分岐点

戦後70年ノート⑧ 敗戦か終戦かの分岐点 15・8月21日
 8月になるといつも心にかかることがある。それは終戦記念日という言い方だ。ポッダム宣言を受諾して無条件降伏して、1945年9月1日、ミズリー号上で正式に重光外相が降伏文書に調印した。この日を持って敗戦が決定的になったはずである。それがいつのまにか終戦記念日などとされた。政府や自治体、公的な団体などでは終戦記念日として、何の疑いもないようだ。だから安倍総理の「私はポッダム宣言を読んだことがない」などという発言が出てくる。ポッダム宣言を知らなければ、日本は戦争に敗けたことさえなかったことになる。
 靖国神社の遊就館(ゆうしゅうかん)に入るとそれがよくわかる。明治以来の赫々たる、日清、日露戦争の勝利が喧伝される。原爆投下や沖縄戦の悲惨な敗北などほとんど掲示されていない。そして日本軍は軍規きびしく、侵略や略奪、強姦などしたことがないと強調される。これをみた戦争を知らない少年が「おじいちゃん、日本は戦争に勝ったのね」といったそうである。そして戦没者の写真や遺品、遺書などが公開されている。「みんな立派にお国のために戦った」と賛美されている。10年前くらいに見た記憶で言うと、なんという戦争の美化かと憤りさえ感じた。いまなお南方方面を中心に、113万柱の遺骨さえ帰還していない。240万人の戦死者の内、飢え死にが約半数だったということなど知らせない。
 我々の周囲でも保守革新を問わず、終戦記念日と何のこだわりもなく言っている人も多い。私は12歳の時に天皇の詔勅をラジオで聞いたが、敗戦のショックに声も出なかった。ところが当時の東久邇宮内閣が「一億総懺悔」などということを言い出して、戦争責任は民衆にもあるかのようなムードを作り出した。そういう背景もあって敗戦ではなく終戦という言葉が定着した。俳句の世界でも和歌の世界でも、詠い方が違う。敗戦忌あるいは敗戦記念日とする方もあるが、概して終戦記念日という表現が多い。この歴史的認識の相違が、過去の日本の中国、東南アジアへの侵略行為を正当化することに繋がっていると思う。私は「敗戦記念日」として8月15日を捉えていない、当時の戦争世代の感覚を疑う。それが今日の若い世代に受け継がれて、敗戦責任を曖昧にする、今日の世相に繋がっていると思う。
◆「敗戦」という事実を隠ぺいする「終戦」という言い方
 天皇の詔勅による終戦という認識に対して、右翼の方々の中でも疑念を呈している方がいることを最近知った。大原康男国学院大教授(当時)の「終戦50年を考える『終戦』を捉える5つの視点」という論文である。その中で大原氏は以下のように敗戦の視点を指摘する。―「終戦」という言葉を使うことに寄って「敗戦」つまり、わが国が戦争に敗けたのだという事実を意識的あるいは無意識的にも隠蔽する。あるいはそこまで行かなくとも、触れずに済ましてしまうような心理を生み出してしまっているのではないか。つまり「敗戦」という冷厳な事実から目をそらしてしまうことー
 まことに正鵠を得た見解である。保守派や改憲派の方々にも、小林節氏や大原氏のような正論を吐いている方もいるのだ。この問題は戦後日本のポイントだと思う。
 叔父ふたり 征きて帰らず 敗戦忌 漫歩

戦後70年ノート⑦良質な保守層の反乱

戦後70年ノート 良質な保守派の反乱 15・8月3日
 毎日新聞の7月20日夕刊、特集ワイド「松田喬和のずばり聞きます 自民党 古賀誠・元幹事長」という対談に注目した。安保法案をめぐる自公政権の独走と強行採決によって、安倍内閣の支持率は、産経新聞、読売新聞など政権支持の新聞ですら、過半数が「内閣支持せず」という状況になった。この不支持層は、民主党や共産党支持者だけではなく、保守支持層や無党派の動向が大きく作用している。いわば良質な保守支持層の反乱である。
 古賀氏は日本遺族会の会長を長く務め、現在は顧問である。松田氏は「今年は戦後70年の節目です。日本遺族会顧問としてどう考えますか」と問うている。以下は古賀氏の発言の要旨である。
 ―あの戦争で一番重大な問題は、なぜ戦争をしたかはさることながら、なぜやめられなかったか、ということ。タイミングを先延ばしにした結果、軍人や軍属以外に、たくさんの民間人が赤紙の召集令状で戦争に連れていかれ、命を落としました。私の父に赤紙が来たのは昭和17(1942)年。もう日本に勝つ見込みはなかった時期ですよ。もっと言えば1年前に戦争を終わらせていたら、あの悲惨な沖縄の地上戦はなかった。長崎や広島に原爆は落とされず、東京大空襲もなかった。100万人の命が救えた。やめられなかったのは、限られた軍部の判断とも言われますが、あの時だって国会はあり、政治家はいた。つまり、問題は政治の貧困なんです。それが全てをなくした。今怖いのは安保政策の転換より政治の貧困です。総裁選もやらないような事態は、政治の貧困につながるんですよ。     
◆戦後70年の安倍談話 村山談話、小泉談話を継承すべき
 「植民地支配」「心からのおわび」などを盛り込んだ戦後50年の「村山談話」は、国が閣議決定して世界に約束した大戦の総括です。戦後60年の「小泉談話」もこれを踏襲しました。日本だけの問題ではないんです。安倍さんが「踏襲する」とおっしゃったのはあ当然のことだろうと思いますね。東西冷戦後、旧ソ連が崩壊し、米国という一極の覇権国ができましたが、米国はその後、イラクやアフガニスタンの対応で失敗。今や米国だけの覇権はあり得ないというのが世界の認識です。そして、米国の代わりに台頭してきたのが中国です。もはや米国一辺倒の外交ではダメで、中国とどううまくつきあうかが大切なんです。
 そうした状況にふさわしい安保政策は、どうあるべきか。専守防衛を捨てるのではなく、専守防衛に徹すること、平和主義に徹することです。中国や韓国と仲良くつきあい、日本は絶対に戦争をしないということです。米国との外交は我が国外交の基軸です。ただ、米国追従はいけません。米国だけに追従したら、日本は危うい、戦争をしなければいけない国になる。日本は一国平和主義を貫くべきだ。その姿勢を世界に発信することこそ、日本が向かうべき21世紀の方向だと思います。
ようこそ!「老人はゆく」へ
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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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