中国最悪の大気汚染「赤色警報」、4.6億人が被害

中国最悪の大気汚染「赤色警報」、4.6億人が被害 17・1・18
 大気汚染は中国で最も深刻なもので、4億6000万人に影響を与えているると、昨年12月21日の英フィナンシャル・タイムズ紙が以下のように報じた。
―環境保護団体グリーンピースの試算によると、これらの市民は世界保健機関(WHO)が1日の目安とする基準の6倍の濃度のスモッグにさらされている。スモッグは多くの地域で3日以上続いている。20日は昼までに北京国際空港の217便が欠航した。これは1日に予定されていた便のほぼ3割に当たる。市民は声を上げている。ネット上では「スモッグは人災で、地元の環境機関は責任を全うしていない」という書き込みが載った。別の書き込みも「政府に対する圧力が小さすぎる。これでは環境を良くし、国民の命を最優先にさせることなどできない」と厳しい。ただ「我々市民は過度に圧力をかけられている。抗議しようものなら『社会の秩序を乱している』と言われる」とも嘆いている。
 南西部の四川省成都市では今月、スモッグに対する抗議デモが予定されていたが、機動隊が中央広場を閉鎖したため阻止された。北京のグリーンピースの大気汚染専門家、ラウリ・ミルビエルタ氏は「スモッグの産業活動との関連性は明らかだ。今年の第2四半期に鉄鋼価格が上がり生産が増え始めてから、北東部の空気は悪くなった」と指摘する。「企業の生産拡大のために政府がとった時代遅れの景気刺激策の結果だ」2週間前、北京市人民代表大会(市議会に相当)はスモッグを「気象災害」とすることを検討したが、環境保護団体などは公害を引き起こしている人間や組織を免責することになると異議を唱えている。
 緊急事態に対応するため、中国環境保護省は16の調査団を派遣し、赤色警報が出てもなお操業を停止しない化学会社や、環境基準を満たさない発電所や石炭燃料の火力発電所を割り出した。16日から赤色警報が発令されている北京市では、車のナンバープレートの数字が偶数か奇数かで曜日を規制し、走行車両の数を半減させた。―
◆インド、ニューデリーも最悪の大気汚染で2000万人に影響
ナショナルジオグラフィック日本版 11月5日はインド、ニューデリーの中心部コンノート・プレイスで大気汚染によるスモッグのなどについて以下のように報じている。
―を走るたくさんの自動車。インドの首都ニューデリーで過去最悪レベルの大気汚染が発生、近郊に暮らす2000万人が息を詰まらせている。米国のニューヨーク・タイムズ紙によれば、ニューデリーの大気汚染はここ17年で最悪の規模で、人体に及ぼす影響は1日にタバコを2箱以上吸うのに等しいという。学校は3日間の休校となったが、専門家は、家の中の空気が外気よりましとは言えないと警告する。もっとも危険な汚染物質であるPM2.5の濃度は急上昇しており、1立方メートルあたり1000マイクログラムに達した。これはインド政府の安全基準の16倍という数値だ。―
 中國もインドも高度経済成長によって世界のトップレベルに至ったが、また世界一、二を争う大気汚染などによる死者がそれぞれ年間1万人に達するという。戦争でこれだけの人間が死んだら大騒ぎだが、大気汚染の死者については両国とも平然としている。過去の日本でも70年代の高度成長の下で、光化学スモッグ、喘息など4大公害訴訟で大騒ぎだった。歴史は繰り返すというが、環境汚染に関する鈍感さはいずこも共通している。
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勝海舟が田中正造に与えた書き付け

足尾鉱毒事件125年 勝海舟が田中正造に与えた書き付け 15・9月29日
 足尾鉱毒事件の歴史は、はいまなお現代の環境破壊に通ずる環境公害問題の先駆けだった。明治23年(1890年)の第一回衆議院選挙で当選した田中正造は、これを追求する国会質問に取り組んだ。爾来125年の歴史を経た。私は、2004年12月のある会合で元社会党議士河上民雄さんから面白い話を聞いた。晩年の勝海舟と足尾鉱毒事件に取り組んでいた田中正造との出会いがあった。このとき海舟は田中に対して「このものは百年後の総理大臣なり」という阿弥陀と閻魔にあてた書付を渡した。田中正造はそれを大切し、死の枕辺にも置いていたという。この話は勝海舟全集に出ているはずと教えられた。興味をもってともかく広尾の都立図書館を訪ねた。司書の方に調べてもらうとなんと勝海舟全集(講談社刊)なるものは二十五巻もある。このなかから探さなければならない。勝海舟は明治三十二年(一八九九年)に亡くなっているから、その前あたりの一巻ともうひとつ全集二十二巻の「秘録と随想」の二冊を書庫から出してもらった。最初の一冊にはそれらしきものはない。これは気の遠くなるような作業だなあ、と思いつつ「秘録と随想」を開いた。あった。この本の五百三十三ページに載っていた。「百年の後、浄土又地獄江罷越候節は、屹度惣理(総理)に申付候也、半髪老翁請人 勝安芳 阿弥陀、閻魔両執事御中」となっていた。
 解説によるとこの話は雑誌『田中正造と足尾鉱毒事件研究』第四号に田村秀明氏によって紹介されているとあった。早速、国立国会図書館に出かけて借りてきた。田村氏によるとこれは巌本善治編『増補 海舟座談』(岩波文庫)、「明治三十一年六月三十日」の項で、海舟は次のように語っている。「田中が夕べ来た。お前は何になるのだというたら、総理大臣というからそれは善い心がけだ、ワシが請判すると行って、証文を書いてやった.名宛が、閻魔様、地藏様、勝安芳証としてやった。大層悦んで帰ったよ」。田村氏は「まぎれもなく、海舟がこの日1898年6月30日の前日、つまり6月29日の夜に書いたのである」と述べている。
◆国会議員辞め足尾鉱毒反対の生涯を貫ぬく
 その後の田中正造のたたかいはまさに「辛酸」の一語に尽きる。明治三十二年、勝海舟が亡くなった年には「上州川俣事件」が起きる。足尾鉱毒の被害農民三千数百人が人命救助の請願をしよう押し出したのに対して、多数の警官隊の為に遮られ、被害民六十余名が逮捕され凶徒騒じょう罪の名の下に刑事被告人とされた。古河財閥と結託した明治政府と国会に絶望した田中正造は明治三十四年(一九〇一年)「亡国に至るを知らざれば即ち亡国」との有名な質問演説の後、国会議員の職を辞した。そして同年十二月十日、幸徳秋水の筆になるといわれる明治天皇への直訴状という直接行動によって全国民に衝撃を与えた。ついには鉱毒のため廃村となった谷中村に住み着いて終生足尾鉱毒の解決の為に奮闘、大正二年九月四日(一九一三年)七十二歳の生涯を閉じた。葬儀の会葬者四万五千人と伝えられる。当時72歳だった私は、公害問題を人生後半の仕事に選んだとはいえ、まことに不徹底極まりない人生だったと反省した。も一度明治以来の近現代史を学ぼうと思い立った。以後栃木県佐野市などへ足を運び足尾鉱毒事件の歴史を追っている。



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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
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路上公園などの観察、
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読書、眠り薬になること多し

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