百歳の句集 朝山義高『高濱村』を読む

百歳の句集 朝山義高『高濱村』を読む 17・9・25
 9月初めの定例句会で、規子先生から愛媛県久万高原に近いところにお住いの百歳の朝山義高さんという方の句集『高濱村』を紹介して頂いた。句会のはじめには、いつもさまざまな俳人の句集紹介の時間があるのだが、今回は百歳の俳人ということで興味を持った。しかも朝山さんは、私が延8年間の四国歩き遍路で最も有難いお接待を受けた愛媛県久万高原の奥にお住いのようである。先生にお願いして本をお借りして読んだ。実に興味深い。年を取ったせいか、若い俳人より年老いてなお俳句を作り続けるような先達に心引かれる。そして『高濱村』を読了してわかったことを漫歩の推察を交えて書いてみた。
 著者のあとがきによると、平成5年77歳のとき、広田俳句教室に入会、後に砥部金曜句会に参加するようになった、と記している。そして「この度、百歳を迎え、これを記念して、愛媛若葉会の高岡周子先生のお力添えを賜り句集を出すことになりました」と述べている。
◆戦争で徴兵北満で7年間の軍隊生活
 この方が、どういう人生を送って、百歳まで久万町もしくは砥部町の山奥の村で自立した一人の生活を送っているのか知りたくなった。だがそれは俳句を通じて類推するしかない。まずこの方の年齢百歳は、昭和より以前大正6年生まれだとわかった。私の二人の叔父はともに徴兵されて戦争に連れ出され二人とも生きて還らなかった。長男の叔父は昭和13年に召集され、同年北支派遣軍として参加、昭和14年河北省隆平に於いて戦病死した。指折り数えてみると、朝山さんはちょうど叔父と同年輩の方である。生きておれば叔父は百歳なのだと思った。朝山さんは、召集されて北満に派遣されたらしい。
 北満の立哨偲ぶ虎落笛 ニイハオを交せし記憶黄砂降る 復員の飢ゑを凌ぎし心太 などの句にそのことを推察することができる。そして久万高原の奥の高濱村は雪深く、馬車で物を運んでいた。私の故郷の岡山県鏡野町越畑も鳥取県堺に近い山村で、祖父は馬車曳きだった。物を運ぶのにトラックなどは戦後の話で、木材、木炭などはすべて馬車に乗せて山道を下った。それと同じことを朝山さんの家も先祖代々やっていたらしい。そして北満に召集された朝山さんは、軍馬を使って荷物を運ぶ、輜重部隊に配属されていたと思わせる。 蹄鉄師住みしはここら花はこべ 父の日や父の形見の馬の鈴 落馬せし傷跡疼く今朝の雪 
 朝山さんは百歳にしてなお母恋の句をつくる。母親は早く亡くなったのであろう。 根の国の玭にかたりぬ柏餅 久万山は玭の故郷麦こがし 玭の忌や庭を離れぬ夕蛍
◆脱藩の道に通じる久万高原
 久万高原には山間の難所として知られる名刹、44番大宝寺、45番岩谷寺がある。朝山さんは遍路の句も多い。御詠歌のどこか玭似の冬遍路 勅使橋渡る子連れの秋遍路 
また高知からの山越えの道は明治維新の脱藩の道でもあった。志士たちは大門峠を越えて久万町から松山に下り、松山港から船で大阪に向かったのだ。朝山さんは詠んでいる。 竜馬越ゆ大門峠黄菅咲く 
 朝山さんのひとり暮らしの愉しみの一つは、お盆や正月に帰って来る子どもや孫と酒を酌むことだ。しかも近くに同じく百歳を過ぎた友人もいる。百歳にしてなお健康なひとり暮らしだ。84歳の私は、まだ青二才だなと思ってしまう。 
 赤丸は子らの来る日や新暦 正常と医師の一言冬ぬくし 百越えし友と筆談年惜しむ
(注)現在高濱村という地名はない。合併によって統合されたのである。その仔細はいまのところ不明である。
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最初の空き缶拾いカンカンラリー 

最初の空き缶拾いカンカンラリー 17・8・26
 私の四国歩き遍路は2001年の春からだった。最初の一年は夢中で歩いて12月に足摺岬の金剛副寺で結願した。2年目の2002年からは周囲をやや落ち着いてみるようになった。そして気づいたのは遍路道の林道や国道、海岸沿いの谷底に厖大なごみが捨てれれてゐることだった。そして東京近郊の歩き遍路達が、それに気づいて「お接待」のお返しに四国遍路道のごみ拾いを計画していることを知った。私は当時、東京では毎朝、居住地周辺の「もく拾い」を数十分やっていた。千代田区の禁煙条例ができたばかりで、たばこの吸い殻を中心に拾っていた。そういうこともあり、「カンカンラリー」という趣意書を、愚さんこと河野幸江さんから頂き、主宰の菊池昭さんの呼びかけに全面的に賛同した。そして私も、自分で空き缶拾いを実践してみた。
◆最初の空き缶ひろい2003年3月から
 2003年の3月3日から数日間の歩き遍路で二度目の結願をしたが、雨にたたられたので、晴れた日の二日間だけ一人でやってみて、いろいろのことがわかった。行程は一回目が四国36番の青龍寺の近くの国民宿舎土佐からスタート。横浪スカイラインを経て、須崎市の仏坂から岩不動、須崎駅のコースだ。車の走行は少ないが、道路の両側には、空き缶が次々に転がっている。私のやり方は、途中で出来るだけ空き缶を小刻みに、置かせてもらうということに主眼を置いた。まず一番に、国民宿舎土佐の支配人の池上孝次(代表取締役)に、カンカンラリーの趣旨を説明したら、全面的な協力を約束して下さった。また支配人自身が「休みの日に子供たちと空き缶拾いをしている。たくさん集めた子供に褒美をやることにしている」という話を聞き嬉しかった。
2番目には、横浪スカイラインの途中に帷子崎(かたびらさき)という展望のよい場所があり、夏場には休憩所になっています。そこには空き缶などを入れるボックスがいくつかあり、そこでまず拾った10個ばかりを入れた。ボックスの回りにも空き缶が転がり、ごみもあったので、休憩所のほうきで、掃除もしてきれいにした。3ん番目に、横浪スカイラインを下って、浦ノ内に入る手前にある、土佐工芸村には入り口に沢山の自動販売機が置かれており、そこで工芸村の方に、「遍路道の空き缶を拾ってきたので置かせてください」とお願いすると快く受け入れてくださった。4番目には須崎市に入って浦ノ内湾沿いの道が合流するところに酒屋さんがあり、自動販売機も沢山あった。ここは声をかけたが留守なので、20個ばかりを、空き缶ボックスに置かせてもらった。ただ今後無断でおく時は、自分の納め札に、遍路道の空き缶を置かせていただいた、ということを書いておくべきだと思った。
 5番目に、仏坂越えの遍路道は、人にはまったく会わなかったが、それだけに坂の途中は、目を覆いたくなるほど
、ごみの散乱していた。仏の坂ではなくごみの坂だった。おまけに岩不動では「うちではそういうことはしていない」と慇懃に空き缶の預かりを断られた。今回の空き缶拾いで、断られたのは唯一、此処だけだった。一杯のビニール袋を下げて歩いて、大野郷の駅の手前で道を聞いた、軽トラックの老人が、「わたしがあずかろう」と快く、トラックの荷台に乗せて下さった。合掌。
◆自治体の担当者から歓迎 共にやろうと激励され
もう一日は宿毛の39延光寺からから松尾峠越えで愛媛県の40番観自在寺までの宿毛、一本松、城辺、御荘、宇和島の5市町村の道程だった。ほぼ同じやり方で地元の方に預かって頂いた。)感激したのは、御荘町の役場に寄り、生活環境課に空き缶袋を持参したときだ。課長の本多正登さんが自らでてきて空き缶を受け取って「ありがとう」といわれた。そして周辺5町村の課長会議で、「空き缶などは役場でも受け入れる」と話し合いをした由。菊池さんたちの働きかけが自治体にも大きな影響をあたえていた。
宇和島市では生活環境課長の白井栄一郎さんに歓迎され「本来、地元のやるべきことを東京の方にやってもらって」と感謝された。そこでわたしはかねてから考えていたことを提案しました。四国遍路道関係市町村が、罰則付きの空き缶などポイ捨て禁止条例制定することと、お四国の1200キロの遍路道を春と秋、いっせいに清掃するクリーンウォーク運動の二つです。いずれにも賛意を表された。とりわけ空き缶などのポイ捨て禁止条例は、宇和島市も、御荘町もすでに準備を始めているとのことだった。私は行く先々の道端で「わたしも置いていかないで、拾って」という声を聞いた。袋にいれてやると中でカロコロと空き缶たちが会話します。「会えてよかったね。も一度生まれ変わったらまた会えるよね」と言っているみたいだった。この経験が遍路仲間と数年続く遍路道や富士自然歩道等の清掃活動となったのである。

宮古の被災地の友と再会浄土ヶ浜へ

宮古の被災地の友と再会浄土ヶ浜へ 16・7・17
 東北地震以降5年を経たが、今まで地震の被災地に行ったことはなかった。ようやく5年後の7月7日、宮古市黒田町に生き残った遍路友達Kさんを訪ねた。かつて四国歩き遍路を行って四国の方々のお接待に感動した人達が、そのお返しに空き缶ひろいを提案する動きあり、私も同感して行動を起こした。2003年のことである。その際、先駆的にごみ拾いを個人としてはじめていたのがⅯさんだった。当時横浜在住のⅯさんを訪ねて話を聞き、アドバイスを受けて私たち遍路有志の「お四国の道清掃隊」が数人で空き缶ひろいを始めた。
 やがてMさんは老母の介護のため、郷里岩手県宮古市に転居されたと聞いたのは約10年前のことだった。年賀状のやり取りなどをしていたところへ、2011年の大震災と原発事故が起きた。ニュースではⅯさんの住む宮古市の海岸一帯は大津波で数百人の死者を出す大惨事だった。電話をかけても通じない。海岸線に近いⅯさんも津波に流されて亡くなったと思った。二カ月後の5月たまたま見つかった携帯電話にかけると「もしもし」と言う元気な声がか返ってきた。「あなたは生きていたのですか。死んだと思って居た」と私は言った。「うちは明治以来の金物店で1階の店の出入り口は鉄製の頑丈なシャッターになっていた。そのおかげで津波がぶつかったが二階に逃げて助かった」と言う。やはりお四国遍路でごみ拾いをしたおかげだと思った。
 一度、奇跡的に生き残った生き仏のⅯさん親子にお会いして拝みたいと思いながら年月が過ぎた。すると昨年の年末に「母が百歳で天寿を全うしました」という喪中挨拶があった。電話をして、今年こそ拝みに行きますと約束。ようやくそれが実現したわけである。 私は、四国歩き遍路の際に着た白衣と菅傘、杖という遍路姿で列車に乗って出かけた。再会したⅯさんは元気溌剌としていた。震災後全く水道も電気もない自宅の二回でペットボトルやコメなどの食料を頼りに生き延びた。一度も避難住宅に入ることなく、自宅周辺の汚泥やごみなどをボランティアなどの協力を得て自力で再生した。その大震災を生き延びた知恵の数々を教えてもらった。
 例えば、まったく水も電気もない真っ暗な中ではろうそくの灯が頼りだった。また水はペットボトル数十本を用意していた。トイレの水が出なくなったので母親の介護用のおむつで用を足した。食糧もお米や調味料などの備えもしていた。明治初期以降は昭和8年と二度の津波を経験している歴史をもつだけに、その備えを日ごろからやっていたのだ。
 翌日は、Ⅿさんが「ぜひ見せたい」という浄土ヶ浜と世界最大の堤防がもろくも崩壊した田老町の現場を案内して頂いた。浄土ヶ浜ではレストハウスなどは津波にのまれて崩壊したが再建されていた。青い空と海はなにごとなかったかのように輝いていた。砂浜で小石二つを拾った。Ⅿさんは海岸で「津波てんでこ」という教訓があると語った。「津波が来たら子や親のことなど構わないで、てんでんこに逃げろということです。祖母が幼稚園児を連れに行ってともども波に呑まれ、先生が引き連れて逃げた園児は助かった」。田老町では、世界最大の高さ10㍍、2000m余の堤防を津波は乗り越えた。それをまたかさ上げする工事が進んでいる。「国と県のやっていることはおかしい。堤防を作って海を見えなくする。ゼネコンをもうけさせるだけだ。海を毎日眺める方がいい。津波が襲ってくるときも分かりやすい。東京オリンピックと騒いでいるが東北はこれで捨てられたと思う」というⅯさんの言葉が印象に残る。話は尽きなかったが後日、またブログで紹介したい。
 宮古の町で友人の「生き仏」を拝み、浄土ヶ浜で小石を拾い、ウミネコの乱舞する巨大な三つの岩山に向かって祈った。亡き友と先輩、そして生きて病んでいる方々のことを念じつつ祈った。そして幸運にも東京に帰ってから、この10年近く私の鬱屈の種であったものすべてが解消する出来事があった。残りの人生はいくばくか不明だが、なぜか解放された思いで生きて行けそうな気分だ。東京の街に帰ってあわただしい雑踏の電車の中で「東京の空気は臭い」と実感した。あの清冽な浄土ヶ浜の空気が幸運をもたらしたと実感した。
 嬉しきこと人には言はじ合歓の花 ウミネコ舞ふ浄土の浜に合掌す 漫歩
      (写真 浄土ヶ浜の全景)

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被災地宮古の遍路友その後

被災地宮古の遍路友その後 2016・3・13
 このブログで5年前の5月、宮古市に住む遍路友達のMさんが奇跡的に助かったという記事を書いた。自宅の固定電話に何回電話をかけても出てこない。もう彼女は津波の犠牲になって生きていない、と思った。なししろ宮古市は震災で最大の被害を出した。世界に誇る高さ10メートル。最大幅25メートル、総延長2・4キロという防潮堤、同市田老地区は津波対策のモデルとされた。しかし今回の津波は防ぎきれず、宮古市全体で死者412人、行方不明者355人という惨状である。地図で見てもMさんの自宅は海岸近くにある、完全に津波に襲われたことがわかった。句会で「遍路友の消息絶へし地は零下」などという句を詠んだりもした。
 たまたま知り合いが携帯電話を教えてくれた。それが通じたのでびっくり。「もしもしMです」という元気な声が返ってきた。「あっMさん、あなた生きているんですか」と聞いた。本人だった。「生きでいますよ。津波にやられたが奇跡的に助かって、なんとか老母も助かって、やっと家に落ち着いたところです」という話。「わたしは何度固定電話にかけても出ない。もう津波にさらわれて親子ともども亡くなったと思い込んでいました」といった。
 Mさんの話を聞いた。津波は防潮堤を超えてせまってきた。急いで店のシャッターを下ろした。そして老母を二階に上げたときに津波が自宅に押し寄せた。ところがシャッターが昔の頑丈な作りだったのが幸いして、津波が一階になだれ込まず、そのまま通り過ぎた。そして地区全体が津波にさらわれた。しかしMさん宅はシャッターのおかげで、土砂などの浸水もなく、なんとか形を残して二階で生き延びることができた。「母もつい最近引き取って生活を始めたばかり」という話だった。
 Ⅿさんは忘れられない人である。2003年に「カンカンラリー」という、東京のお遍路経験者による四国八十八ヶ所のごみ拾いをはじめたのだが、そのきっかけを作ったのはⅯさんだった。当時、四国の遍路道が、ペットボトルや空き缶の投げ捨てで荒れていることが問題となった。わたしも何とかしなければと思ってはいた。ところが偶然に、「掬水へんろ館」というブログで、ハンドルネーム「愚」と名乗る方が、遍路道でごみ拾いをはじめていることを発見した。それが横浜市に住むMさんだった。それがきっかけとなって数年間にわたる空き缶ひろいがスタートしたのである。
 そのMさんからの今年の賀状には「老母が百歳の長寿を全うしました」という知らせが入っていた。震災5周年の11日、5年ぶりに電話してみた。いまや老母を送って一人住まいという。話を聞くと昨年の三月と10月の二回に分けて四国歩き遍路に出かけて、八十八カ所を打ち終えたという。彼女と老母の奇跡的な生存は四国遍路のおかげだろうと私は思っていた。そして彼女もそう考えて、老母を送った後、お四国の遍路に出たのだと思う。私は日本全国の鉄道を旅した。北は北海道網走から、南は鹿児島の最南端の駅枕崎まで乗った。唯一行っていないのが仙台から青森県八戸に至る三陸鉄道だ。そんな話をして、ようやく復旧なった鉄道を使って宮古市に行ってみたいと話をした。「ぜひ来てください」ということなので、生きているうちに三陸鉄道を利用して宮古を訪れる約束をした。生きているということは良いこともあるのだと思うこのごろである。
  地震(ない)五年宮古の友は一人生く 漫歩

はと麦物語 神戸大震災ボランティアから 

はと麦物語 神戸大震災ボランティアから 16・3・9
 はと麦ポンは、私の四国遍路中に立ち寄った四国高松の喝破道場主の野田大燈師との御縁で東京都内を中心に広まった。そのきっかけは神戸大震災のボランティア活動だった。その経緯を大燈師が、3月の『喝破だより 四恩の里』のなかで「はと麦物語」として明らかにされた。以下はその全文である。

ー喝破道場では約二○年前に購入したボン菓子機が『はと麦ボン』の製造に大活躍です。平成七年一月十七日早朝の阪神淡路大地震で甚大な被害が宵されました。喝破道場では慰問のために食料や電化製品をトラックに積み、塾生達は全員バスで神戸に向かいました。海岸寄りは道路が寸断されているために六甲山を山越えしての神戸入でした。
 二度目の訪問を前に塾生たちが,被災された方々は元気を失っているので元気にしてあげたい」と言うことからポン菓子の機械を購入して現地でパットライスを作って食べさせては、と言うことになりました。ボン菓子機の製造所に問い合わせると三十八万円でそのような経済的余裕のない道場でしたが、元塾生で道場の活動に理解の深いD君に相談すると「被災者のために使ってくれるなら喜んで!」とボン菓子機代を寄附してくれました。
 彼の善意がなければボン菓子機を使っての慰問は実現しなかったでしょう。改めてD君に感謝です。五度の訪問でしたが結果は大成功で、塾生たちもこの慰問を通して大きく成長してくれました。 慰問を終えてからのボン菓子機は暫らく倉庫に眠っていましたが、食慾旺盛な塾生のための三時のお八つ作りに使用するこにしました。しかし毎回が白米のパットライスでは塾生も飽きてしまい、何か他によいものは…、と思案しておりました。
 当時はハト麦を栽培してお茶にして飲んでいましたが「和尚さん、このハト麦をボン菓子にしたら?」と言う提案が塾生からありました。しかしハト麦には硬い穀が覆って
いますので「殻が硬いからダメだ」と言うと、諦めきれなかった数名が一升瓶にハト麦を詰めて棒で突いて殻を取り除き「和尚さんこれならどうですか?」大爆音と共に実験は見事に成功しハト麦は正に《美味!》でした。 知人に試食してもらったら「これは健康にいいから販売しては…」と言う事から「はと麦ボン」の商標登録を行い本格的な販売に入りました。
 その販売糸口を作って下さったのは四国八十八所巡拝中にお立ち寄り頂いた東京のAさんの人脈とPR力でした。お陰様で現在は道場の主力販売品となっております。阪神大震災↓慰問↓D君依りのボン菓子機のご寄附↓ハト麦のパットライス化↓東京AさんのPR力…、どの一つが欠けても現在の「ハト麦ぼん」は存在しません。今後もこの原点を見失わずにハト麦ボンを通して健康に貢献して参りますー。

      (写真 喝破道場のはと麦ポン)

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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