宮古の被災地の友と再会浄土ヶ浜へ

宮古の被災地の友と再会浄土ヶ浜へ 16・7・17
 東北地震以降5年を経たが、今まで地震の被災地に行ったことはなかった。ようやく5年後の7月7日、宮古市黒田町に生き残った遍路友達Kさんを訪ねた。かつて四国歩き遍路を行って四国の方々のお接待に感動した人達が、そのお返しに空き缶ひろいを提案する動きあり、私も同感して行動を起こした。2003年のことである。その際、先駆的にごみ拾いを個人としてはじめていたのがⅯさんだった。当時横浜在住のⅯさんを訪ねて話を聞き、アドバイスを受けて私たち遍路有志の「お四国の道清掃隊」が数人で空き缶ひろいを始めた。
 やがてMさんは老母の介護のため、郷里岩手県宮古市に転居されたと聞いたのは約10年前のことだった。年賀状のやり取りなどをしていたところへ、2011年の大震災と原発事故が起きた。ニュースではⅯさんの住む宮古市の海岸一帯は大津波で数百人の死者を出す大惨事だった。電話をかけても通じない。海岸線に近いⅯさんも津波に流されて亡くなったと思った。二カ月後の5月たまたま見つかった携帯電話にかけると「もしもし」と言う元気な声がか返ってきた。「あなたは生きていたのですか。死んだと思って居た」と私は言った。「うちは明治以来の金物店で1階の店の出入り口は鉄製の頑丈なシャッターになっていた。そのおかげで津波がぶつかったが二階に逃げて助かった」と言う。やはりお四国遍路でごみ拾いをしたおかげだと思った。
 一度、奇跡的に生き残った生き仏のⅯさん親子にお会いして拝みたいと思いながら年月が過ぎた。すると昨年の年末に「母が百歳で天寿を全うしました」という喪中挨拶があった。電話をして、今年こそ拝みに行きますと約束。ようやくそれが実現したわけである。 私は、四国歩き遍路の際に着た白衣と菅傘、杖という遍路姿で列車に乗って出かけた。再会したⅯさんは元気溌剌としていた。震災後全く水道も電気もない自宅の二回でペットボトルやコメなどの食料を頼りに生き延びた。一度も避難住宅に入ることなく、自宅周辺の汚泥やごみなどをボランティアなどの協力を得て自力で再生した。その大震災を生き延びた知恵の数々を教えてもらった。
 例えば、まったく水も電気もない真っ暗な中ではろうそくの灯が頼りだった。また水はペットボトル数十本を用意していた。トイレの水が出なくなったので母親の介護用のおむつで用を足した。食糧もお米や調味料などの備えもしていた。明治初期以降は昭和8年と二度の津波を経験している歴史をもつだけに、その備えを日ごろからやっていたのだ。
 翌日は、Ⅿさんが「ぜひ見せたい」という浄土ヶ浜と世界最大の堤防がもろくも崩壊した田老町の現場を案内して頂いた。浄土ヶ浜ではレストハウスなどは津波にのまれて崩壊したが再建されていた。青い空と海はなにごとなかったかのように輝いていた。砂浜で小石二つを拾った。Ⅿさんは海岸で「津波てんでこ」という教訓があると語った。「津波が来たら子や親のことなど構わないで、てんでんこに逃げろということです。祖母が幼稚園児を連れに行ってともども波に呑まれ、先生が引き連れて逃げた園児は助かった」。田老町では、世界最大の高さ10㍍、2000m余の堤防を津波は乗り越えた。それをまたかさ上げする工事が進んでいる。「国と県のやっていることはおかしい。堤防を作って海を見えなくする。ゼネコンをもうけさせるだけだ。海を毎日眺める方がいい。津波が襲ってくるときも分かりやすい。東京オリンピックと騒いでいるが東北はこれで捨てられたと思う」というⅯさんの言葉が印象に残る。話は尽きなかったが後日、またブログで紹介したい。
 宮古の町で友人の「生き仏」を拝み、浄土ヶ浜で小石を拾い、ウミネコの乱舞する巨大な三つの岩山に向かって祈った。亡き友と先輩、そして生きて病んでいる方々のことを念じつつ祈った。そして幸運にも東京に帰ってから、この10年近く私の鬱屈の種であったものすべてが解消する出来事があった。残りの人生はいくばくか不明だが、なぜか解放された思いで生きて行けそうな気分だ。東京の街に帰ってあわただしい雑踏の電車の中で「東京の空気は臭い」と実感した。あの清冽な浄土ヶ浜の空気が幸運をもたらしたと実感した。
 嬉しきこと人には言はじ合歓の花 ウミネコ舞ふ浄土の浜に合掌す 漫歩
      (写真 浄土ヶ浜の全景)

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被災地宮古の遍路友その後

被災地宮古の遍路友その後 2016・3・13
 このブログで5年前の5月、宮古市に住む遍路友達のMさんが奇跡的に助かったという記事を書いた。自宅の固定電話に何回電話をかけても出てこない。もう彼女は津波の犠牲になって生きていない、と思った。なししろ宮古市は震災で最大の被害を出した。世界に誇る高さ10メートル。最大幅25メートル、総延長2・4キロという防潮堤、同市田老地区は津波対策のモデルとされた。しかし今回の津波は防ぎきれず、宮古市全体で死者412人、行方不明者355人という惨状である。地図で見てもMさんの自宅は海岸近くにある、完全に津波に襲われたことがわかった。句会で「遍路友の消息絶へし地は零下」などという句を詠んだりもした。
 たまたま知り合いが携帯電話を教えてくれた。それが通じたのでびっくり。「もしもしMです」という元気な声が返ってきた。「あっMさん、あなた生きているんですか」と聞いた。本人だった。「生きでいますよ。津波にやられたが奇跡的に助かって、なんとか老母も助かって、やっと家に落ち着いたところです」という話。「わたしは何度固定電話にかけても出ない。もう津波にさらわれて親子ともども亡くなったと思い込んでいました」といった。
 Mさんの話を聞いた。津波は防潮堤を超えてせまってきた。急いで店のシャッターを下ろした。そして老母を二階に上げたときに津波が自宅に押し寄せた。ところがシャッターが昔の頑丈な作りだったのが幸いして、津波が一階になだれ込まず、そのまま通り過ぎた。そして地区全体が津波にさらわれた。しかしMさん宅はシャッターのおかげで、土砂などの浸水もなく、なんとか形を残して二階で生き延びることができた。「母もつい最近引き取って生活を始めたばかり」という話だった。
 Ⅿさんは忘れられない人である。2003年に「カンカンラリー」という、東京のお遍路経験者による四国八十八ヶ所のごみ拾いをはじめたのだが、そのきっかけを作ったのはⅯさんだった。当時、四国の遍路道が、ペットボトルや空き缶の投げ捨てで荒れていることが問題となった。わたしも何とかしなければと思ってはいた。ところが偶然に、「掬水へんろ館」というブログで、ハンドルネーム「愚」と名乗る方が、遍路道でごみ拾いをはじめていることを発見した。それが横浜市に住むMさんだった。それがきっかけとなって数年間にわたる空き缶ひろいがスタートしたのである。
 そのMさんからの今年の賀状には「老母が百歳の長寿を全うしました」という知らせが入っていた。震災5周年の11日、5年ぶりに電話してみた。いまや老母を送って一人住まいという。話を聞くと昨年の三月と10月の二回に分けて四国歩き遍路に出かけて、八十八カ所を打ち終えたという。彼女と老母の奇跡的な生存は四国遍路のおかげだろうと私は思っていた。そして彼女もそう考えて、老母を送った後、お四国の遍路に出たのだと思う。私は日本全国の鉄道を旅した。北は北海道網走から、南は鹿児島の最南端の駅枕崎まで乗った。唯一行っていないのが仙台から青森県八戸に至る三陸鉄道だ。そんな話をして、ようやく復旧なった鉄道を使って宮古市に行ってみたいと話をした。「ぜひ来てください」ということなので、生きているうちに三陸鉄道を利用して宮古を訪れる約束をした。生きているということは良いこともあるのだと思うこのごろである。
  地震(ない)五年宮古の友は一人生く 漫歩

はと麦物語 神戸大震災ボランティアから 

はと麦物語 神戸大震災ボランティアから 16・3・9
 はと麦ポンは、私の四国遍路中に立ち寄った四国高松の喝破道場主の野田大燈師との御縁で東京都内を中心に広まった。そのきっかけは神戸大震災のボランティア活動だった。その経緯を大燈師が、3月の『喝破だより 四恩の里』のなかで「はと麦物語」として明らかにされた。以下はその全文である。

ー喝破道場では約二○年前に購入したボン菓子機が『はと麦ボン』の製造に大活躍です。平成七年一月十七日早朝の阪神淡路大地震で甚大な被害が宵されました。喝破道場では慰問のために食料や電化製品をトラックに積み、塾生達は全員バスで神戸に向かいました。海岸寄りは道路が寸断されているために六甲山を山越えしての神戸入でした。
 二度目の訪問を前に塾生たちが,被災された方々は元気を失っているので元気にしてあげたい」と言うことからポン菓子の機械を購入して現地でパットライスを作って食べさせては、と言うことになりました。ボン菓子機の製造所に問い合わせると三十八万円でそのような経済的余裕のない道場でしたが、元塾生で道場の活動に理解の深いD君に相談すると「被災者のために使ってくれるなら喜んで!」とボン菓子機代を寄附してくれました。
 彼の善意がなければボン菓子機を使っての慰問は実現しなかったでしょう。改めてD君に感謝です。五度の訪問でしたが結果は大成功で、塾生たちもこの慰問を通して大きく成長してくれました。 慰問を終えてからのボン菓子機は暫らく倉庫に眠っていましたが、食慾旺盛な塾生のための三時のお八つ作りに使用するこにしました。しかし毎回が白米のパットライスでは塾生も飽きてしまい、何か他によいものは…、と思案しておりました。
 当時はハト麦を栽培してお茶にして飲んでいましたが「和尚さん、このハト麦をボン菓子にしたら?」と言う提案が塾生からありました。しかしハト麦には硬い穀が覆って
いますので「殻が硬いからダメだ」と言うと、諦めきれなかった数名が一升瓶にハト麦を詰めて棒で突いて殻を取り除き「和尚さんこれならどうですか?」大爆音と共に実験は見事に成功しハト麦は正に《美味!》でした。 知人に試食してもらったら「これは健康にいいから販売しては…」と言う事から「はと麦ボン」の商標登録を行い本格的な販売に入りました。
 その販売糸口を作って下さったのは四国八十八所巡拝中にお立ち寄り頂いた東京のAさんの人脈とPR力でした。お陰様で現在は道場の主力販売品となっております。阪神大震災↓慰問↓D君依りのボン菓子機のご寄附↓ハト麦のパットライス化↓東京AさんのPR力…、どの一つが欠けても現在の「ハト麦ぼん」は存在しません。今後もこの原点を見失わずにハト麦ボンを通して健康に貢献して参りますー。

      (写真 喝破道場のはと麦ポン)

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歩き遍路が出会う元軍人の戦争体験

歩き遍路が出会う元軍人の戦争体験 16・3・6
 私が本格的な歩きに目覚めたのは、2001年からの四国歩き遍路だった。当初は歩き遍路なんて暇な老人くらいと思っていた。しかしそうではなかった。老人はもとより、女も歩いている。「主人がなんで一言も残さずに自殺したかを考える遍路」と宿帳に書きのこしている女性もいた。「看護婦生活十数年、もう一度これからどうあるかを考える」という若い女性。「鬱病で会社を辞めた。妻に勧められて歩いている」という中年男性。「主人ががんで、神頼みではないがともかく一緒に歩く」という女性。ことごとく現丗の生き様がお四国にはあった。なかでも遍路一年目の十月、十八番恩山寺の入り口にある遍路宿に泊まった。そこには宿泊した歩き遍路の感想や意見が数多く書かれているノートがあった。そのなかで深く心に残ったのは八十一才の老人が書き残した一文である。
◆歩けない者は置いていく
 「わたしは太平洋戦争の南方派遣軍の生き残りです。上官に言われた。お前たち腕の一本や眼の一つはなくしても生きていけるぞ。しかし足はダメだ。豆をつくったり筋肉痛で膝が笑うものは、役に立たない兵隊だから置いていくぞ。転進のとき、歩けない者は置いて行きました.。泣いていました。しかし四十㌔の完全軍装ではついていけません。自殺するしかありません。戦死ということになります。行くも残るも唯涙、涙です。足は大切です.生と死の分岐点です」。生き残った老軍人の悲痛な叫びを聞いたおもいがした。
 わたしの叔父も太平洋戦争に徴兵された。祖父母のところにハガキが時々来た。色鉛筆で炭焼き小屋を描いた便りがあり「炭を焼く老爺の肩に白き雪」という一句が添えてあった。ハガキが途絶えて音信不通のまま敗戦。半年くらい経って、叔父は敗戦前日の八月十四日、栄養失調で死んだと伝えられた。後年叔父の死は餓死であったことがわかった。叔父もまた置き去りにされた兵士の一人だったのだろうか。
◆義足の元海軍特攻隊員
 遍路二年目の2002年十月、西条市から四十五キロの六十五番三角寺をめざして歩いていた。新居浜市に入ったところで足をひきずりながら近寄って来る老人に出会った。「お接待させてください」と二百円を差し出した。立ち止まって話を聞いた。老人は太平洋戦争の海軍特攻隊の生き残りのポツダム少尉。戦友の多くは戦死したが奇跡的に生き残った。戦友の供養のために四国八十八カ所回りを七回続けたが、七十才のときに交通事故で片足を失い義足となった。「もう歩けないから毎日道ばたに出て、歩き遍路が来ると二百円だけお接待をさせてもらっている」.秦正男さんという七十八才の老人に「お元気で」と合掌して別れた。三角寺で秦さんと亡くなった特攻隊員、そして同じく南方派遣軍で死んだ叔父のために祈った。

長谷川賀彦元中村市長逝去と四国遍路

長谷川賀彦元中村市長逝去と四国遍路 16・2・21
  先週の末、高知県春野町の遍路友達のMさんから電話があった。「元中村市長の長谷川さんが1月6日に亡くなられた」という知らせである。確か私とは5歳年上だから88歳の大往生である。2001年からの四国歩き遍路で訪れた高知県中村市。かつて田宮虎彦の小説「足摺岬」が評判を呼んでいた頃、友人と足摺岬を訪れ、中村駅前の旅館に一泊したことがあった。いまから40数年くらい前のことだ。2001年春からの歩き遍路を12月末に足摺岬の金剛福寺で打ち終えた。帰途中村市に再び立ち寄った。松山の親友、故渡瀬巧さんの紹介で、同じ全逓出身で中村市長をつとめた長谷川賀彦さんに出会った。当時の私は68歳、長谷川さんは5歳年上の73歳の頃である。「どこを見たらいいでしょうか」と相談すると「幸徳秋水の墓があり、資料館もある」と教えていただいた。なんという無知だろうか。わたしは長年、政党とか住民運動などの世界にいながら、中村市が大逆事件の幸徳秋水を生んだ街とは知らず、せいぜい四万十川下流の小京都といわれる古い街だという程度の知識だった。
 2001年の12月末、はじめて幸徳秋水の資料館を訪ね、そして市内の四万十川河畔に近い秋水の墓に詣でた。南国とはいえ厳しい寒さで雪さえ舞っていた。天下の革命家幸徳秋水の墓とは思えぬほど質素な墓である。墓前に線香を手向けた。資料館にあった秋水最期の言葉にも大きな感動を覚えた。明治44年(1914年)1月24日、秋水は東京市ヶ谷監獄で絞首台の露と消えた。40歳である。資料館には死刑宣告を受けた2日後に秋水が、看守の求めに応じて書き上げた絶筆がある。「区々成敗旦休論 千古唯応意気存 如是生而如是死 罪人又覚布衣尊」(こまごまとした成功失敗について今あげつらうのはやめよう。人生への意気を捨てぬことこそ古今を通じて大切なのだ。このように私は生きてこのように死んでいくが、罪人となってあらためて無官の平民の尊さを覚ることができた)。
◆秋水の母多治子の物語『一粒の砂』
 これが縁となって、私はその後数年にわたって歩き遍路の途次、中村市を訪ねた。そして1月末に毎年行なわれる幸徳秋水の墓前祭に参加した。それを終えて椿の散る足摺半島を歩いて空き缶ひろいをしながらの歩き遍路を続けた。中村市の幸徳秋水顕彰会の方々とも親しくなった。すべて長谷川さんの人脈につながる方々だった。
2005年の1月、長谷川さんから『一粒の砂-小説・幸徳秋水の母多治子の生涯』という本を送っていただいた。中村市出身の作家山岡千代子氏の書かれたものである。秋水の母親多治子が71歳の病弱の身でありながら、当時の汽船や汽車を乗り継いで市ヶ谷監獄に最期の面会に訪れる物語である。秋水は多治子に「ぼくの生まれたのが百年早過ぎただけと思うちょります。お母さんもそう思うてください。百年経てば、ぼくの考えが、自由思想というものが理解されるようになります」という。
 多治子は秋水の目を見てわが子の無実を確信する。「あの子は百年後の島を作るために一粒の砂になるのじゃというた。わちもお前と同じ砂の一粒になろうぞ」と心に決める。食事を口にしなくなり数日後他界した。明治43年12月28日、享年71才。大逆事件公判終了の前日だった。母とはいつも強く哀しきものである。被告すべてが死刑または無期懲役となったが、家族もまた大逆事件の重みを一身に背負う犠牲者だった。長谷川さんのおかげで『一粒の砂』という心に残る作品に出会った。歩き遍路の旅の邂逅の有難さである。2006年には、長谷川さんが市長・県議生活の後、中村市の福祉施設の長としての体験をまとめた『老いを極める』を送呈された。今この本をふたたびひもといて、在りし日の長谷川さんを偲び、秋水獄死102年を思う。合掌

        (写真 幸徳秋水の墓 中村市)

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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