海ゴミ拾いの仲間が当選

海ごみ拾いの仲間が選挙区当選 2月5日
 昨日は九州で春一番が吹いた。昨日、今日と東京は暖かい。やはり春一番が吹き、立春を過ぎるとなんとなく春近しという感じがする。いままで6時ころにラジオ体操に外に出ると暗かったが、今朝あたりは夜明けという感じになった。確実に春は近づいていると思う。
 今日は久しぶりに国会で友人に会った。こんど北海道10区から選挙区で初当選した稲津久さんだ。かれは前回の総選挙で公明党の比例区北海道から当選している。民主党が北海道の11選挙区ですべて敗退したが、その一議席を公明が占めた。稲津さんとの付き合いは、私の友人で公明党参議の草川昭三さんの紹介である。公明党の新人で環境問題に熱心な人が出て来たからと紹介された。
 会ってみると、ずいぶん長い間NPO活動などやっており、河川の浄化につながる植林活動を仲間と続けていることを知った。私が四国遍路道の空き缶ひろいを4年間してきた、という話をしたら、「私たちも海岸のごみ拾いをやっている。こんど石狩市でやります」という話。それがきっかけで草川議員と事務所のスタッフと同行して、2010年9月18日、北海道石狩市郡別港でのごみ拾いにゆくことになった。 
 海ゴミ拾いは初めて経験だった。稲津代議士を中心に、今まで活動してきたNPOや町民など数十名が集まった。港の周辺道路など三区域に分担して海岸や、道路わきのごみ拾いにかかった。わざわざ捨てにきたと思われる事務所用品や家具などが多かった。また海岸には貝を取りに来て、勝手にバーべキューをやってそのままゴミを捨てたもの、ペットボトル、空き缶、船具などが散乱していた。
 一時間くらいであっという間にきれいになったが、道路の奥深く藪の中に捨てられた目に見えないものはまだたくさんありそうだ。海ゴミは韓国や朝鮮など日本海の対岸からのものが多いといわれていたが、ほとんどはわが同胞が捨てたものだった。環境省の調査でも、おなじ傾向がみられるという。
 稲津さんの選挙区には留萌市もあるが、稲津さんは「留萌でも昨年海ゴミ拾いをやるはずだったが突風で中止した」と言った。ここはブログ友達がいて、秋葉原の留萌料理の店を教えられたという話をしたら、稲津さんも行ったという。「美味しくて海老の食べ放題がいいね」と笑っていた。稲津さんは選挙のアンケートで「2030年代の原発ゼロ政策には、賛成」と答えている。TPO、集団的自衛権の見直し、核武装にも反対だ。これからも協力してやりましょうと握手した。
  海ごみは同胞捨てしと秋かもめ 漫歩
  春一番身内に滾(タギ)るものありて
      (写真 海ゴミ拾い 石狩市郡別漁港)

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今日の日記

ピカドンの落ちた日から67年 8月6日
◆ヒロシマ原爆で鬼畜米英に降参した
 敗戦の1945年の夏も、灼熱の暑さだった。当時は山村の情報というのは新聞だけ。ヒロシマ原爆の事は新聞には載らなかった。やがて噂話で、広島に新型爆弾が落ちた。ピカドンというとそうじゃ、という話が広まった。
ようやくヒロシマの原爆投下とその惨状を知ったのは8月15日の敗戦日以降である。
 何も知らされず、勝った、勝ったという新聞記事が、次第に転進、転進という表現に変わった。それでも大本営発表は赫々たる戦果を挙げたと、いつもなっていた。バカバカしい話だが、軍国少年たちは、それを信じて、毎日必死に、松の根を掘って松根油という油をとることや、食糧増産のための開墾に駆り出されていた。
 時々、各家庭を回って、廃品回収ということで、新聞紙や雑誌の回収をしていた。ある日、結核で寝ていた遠縁のおじさんの家に行った時、「お前らまだそんな馬鹿なことやっているのか。戦争は負けるにきまっているのに」と怒鳴られた。軍国少年の私は、この当時でいえば非国民のおじさんを、激しく憎んだ。しかし終わってみれば、正しかったのはおじさんだった。
 何も知らず、知らされず、ただ鬼畜米英と戦うために、進め一億火の玉だ、一億玉砕などというスローガンに踊っていた。そして鬼畜米英は鬼だ。戦争に負けたら、男はキンタマを抜かれ、女はすべて犯されると言われ、それを信じていた。敗戦後は一夜にして教科書に墨を塗り、大人たちは鬼畜米英にひざまずいた。以後軍国少年は大人と天皇とは絶対に信じない子になった。
◆フクシマ原発事故は第二の敗戦
 いまの北朝鮮を非難する人は多い。飢えているのに核開発に必死になっていることを冷笑する、だが北は賢いと思う。彼らはどこの国も攻撃せず、侵略もしない。国連という場で、堂々と核の独占を非難してはばからない。日本は国連を脱退して、いまのマスゴミも、戦争推進の太鼓を先頭になって叩いた。そしてヒロシマ、ナガサキの原爆で足腰立たなくなるまでやられて、負けを認めた。しかも、核の平和利用などという美名で米国の原発技術を輸入し、フクシマ原発事故で回復不可能な災害を招いた。これはヒロシマ原爆に次ぐ第二の敗戦だと思う。
 同世代の少年少女たちは工場などに駆り出されて爆死した。広島の平和公園には、さまざまな原爆記念碑が立っている。全国の中学校、女学校などの少年少女たちの学校名を刻んだ碑もそのひとつだ。私は山国の中で生き残り、彼らは前途空しく、死んでいった。被爆した同世代の仲間もほとんど亡くなった。いまなお生きていることの不思議さを年とともに痛感する。
  俄雨ヒロシマの日は祈るのみ 漫歩
  生きていることの不思議よ原爆忌

     (写真 一家全滅を示す墓標 「佐々木雄一郎」撮影)

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海ゴミ拾い

2010年9月18日、北海道石狩市郡別港海ごみ拾い
 海ゴミ拾いに初めて参加した。草川昭三参議や地元の稲津代議士、NPO、町民など数十名が集まった。港の周辺道路など三区域に分担して海岸や、道路わきのごみ拾いにかかった。ここでも、わざわざ捨てにきたと思われる、事務所用品や家具などが多かった。また海岸には貝を取りに来て、勝手にバーべキュウをやってそのままゴミを捨てたもの、ペットボトル、空き缶、船具などが散乱している。一時間くらいであっという間にきれいになったが、道路の奥深く藪の中に捨てられた目に見えないものはまだたくさんありそうだ。海ゴミは韓国や朝鮮など日本海の対岸からのものが多いと思っていたが、ほとんどはわが同胞が捨てたものだった。環境省の調査でも、おなじ傾向がみられるという。 
 海ゴミは同胞捨てし秋日和 漫歩
  海ゴミ   

●四国歩き遍路で道の病みを知る
金澤良彦さん夫婦の発心
特に信仰心があるわけでなく、
特に神仏にすがるような理由があるわけでもないが、
四国八十八箇所遍路の1200キロメートルを
夫婦二人で二度巡った。
普段、自動車に乗るばかりの生活の中、
己の両の足で大地を踏みしめ、道に座し、這い、道にころがり、
道の病みを知った。
道中いたるところに打ち捨てられたポイ捨てのゴミ、
不法投棄ゴミ、道端の産業廃棄物に触れ、嗅ぎ、
汚れた大地と、それ以上に汚れた
人のモラルの低下を実感しました。
そしてそのあたりまえの結果としての環境の悪化に
問題意識を持たざるをえない状況となりました。
私たちは四国で得た感慨と経験を生かし、
定年後の時間を活用して
環境問題に一石を投じたいと考えました。
身近なゴミの問題に焦点を当て、
夫婦で共通の生涯事業の一つとして
徒歩での日本列島縦断の旅を思いたちました。
すべての問題の原点に人の心の問題が存在し、
親が子たちに美しい大地を残せるよう努力すること、
親が子に大地を汚さぬよう親自らが示し、教えること、
そんなあたりまえであったしつけの原点に立ち戻り、
夫婦で歩いて静かに訴えて回ろうと決断しました。


空き缶拾いの記・〇三年十一月(2) お四国の道清掃隊
●甘柿のお接待に感激
 十一月八日、高知市内の宿を出てバスで三十二番禅師峰寺の近くまで行き、遍路道をたどって山上にある禪師峰寺を打つ。帰りは車道を歩いたが、いたるところに空缶やペットボトルが投げ捨てられ、道端の竹林はあきらかにわざわざ捨てにきたと思われるごみで埋まっている。ため息をつきながら空缶だけを拾って下った。ちょうどお寺の上り口のところにいた女性に、一杯になった空缶をあずかっいただくようお願いした。快く引き取っていただき話をした。女性はご主人の定年後、お寺の近くなら環境がよいだろうと引っ越してきた。しかしマイカー族の投げ捨てでひどい状態になってしまった。「この上に大きな霊園が出来てから一段とひどくなった」と嘆く。終の棲家は墓地に詣でるマイカー族の心ないしうちで安住の地ではなくなった。
 禅師峰寺から浦戸湾を船で渡る約七・五キロの三十三番雪渓寺に向う。その途中に道端の小さな商店に入って「柿はありませんか」と聞いた。果物好きな私にとって秋の四国遍路は柿や梨の収穫期で楽しみの一つだ。あいにく今日は柿は入ってないという。すると商店にいた一人の老女から「柿ならうちの庭にいっぱいあるから寄りなさい」と声をかけられた。すぐ近くの農家にあつかましくお邪魔した。いやあるある。庭先は甘柿が鈴なりである。二個ばかりいただいて自分で皮を剥いていて食べる。新鮮な味に大満足した。立ち上がりかけると「後で食べればいいからもって行きなさい」とさらに五個ばかりを持たされた。これからの距離を考えるとリュックがずんと重くなるが、せっかくの御好意をありがたくいただいた。赤銅色に日焼けした農家の女性は浜田初子さん。まだ現役で農業をやっている。年をきくと八十七歳だというがとてもそんなには見えない。柿のお接待にパワー溢れる「気」までいただいた。この方もきっとお大師様の身代わりにちがいない。
●めぐりあいから遍路へ 
 雪渓寺の境内で一休みししたとき、隣に腰掛けていた中年の女性から声をかけられた。休日なのでどの程度歩けるか隣の春野町から一,二時間かけて歩いてきたという。次の三十四番種間寺までは二時間くらい、空缶を拾いながら一緒に歩いた。いまは結婚して春野町だが実家は中村市とのこと。中村市なら元市長の長谷川賀彦氏をよく知っているという話をした。ところが女性Mさんは「じつは私は昔、長谷川さんの下で中村市の職員をしていていました。いまでも年賀状のやりとりをしています。妹もお世話になり一家をあげてのおつきあいです」という話。またまた奇遇というべき不思議な出会いにおどろいた。
種間寺に到着すると前日、高知市内の善楽寺で別れた富山の女性遍路Tさんと偶然、再会した。いずれもところは違え私の友人と縁ある方々である。三人で撮った写真がTさんから送られて来た。「今年は愛媛県を巡礼できればと幸せと思い健康で過ごしたいと思っています」とあった。Mさんからは「あれから思い立って徳島一番から土、日の休みを利用して区切り打ちの遍路を始めました。三月末には一番の難所十二番焼山寺に上ります」との手紙が届いた。
●変な老人遍路がいる
 十一月九日、土佐市の宿を暗いうちに出て、三十四番の清滝寺を打つ。宿に折り返して朝食。同じ市内にある青龍寺に向かう。峠を越えて約十五㌔、五時間足らずの道のりだ。塚地峠の上り口で中年の遍路に出会い、一緒に峠を越えた。北九州市からきたというkさんはリストラで早めに退職した独身の年金生活者だ。途中で私を追い越したが変な老人がいると思ったという。なにしろ空き缶が落ちているとまず逆さにして飲み残しを捨てる。次はその空き缶をポーンと前に放り投げたり、蹴飛ばしたして中を空っぽにする。そうしないと空き缶を入れる袋や衣類までが汚れてしまう。だが人様からは空き缶を拾っては、缶蹴りをして歩いている変な老人遍路に見えるらしい。kさんは快適な峠越えができたせいか、以後空き缶拾いを積極的に手伝い始めた。峠を下り海沿いの宇佐に出る。空き缶拾いを見た女性が空缶を引き取り、飲み物と鰹節(めじかぶし)のお接待をいただいた。「主人が肺がんで死んで店をやっているので遍路にはいけないんだ」といわれた。吉峰商店とあっためじかぶしをありがたく、美味しくいただきました。
 十一月十日も雨の中を須崎市まで一緒に歩いた。雨の中では危険なので空き缶拾いはしないのだが、熱意につられ頑張りすぎた。別れた後、がっくりと疲れ果ててしまった。いわゆる「年寄りの冷や水」とはこのことだ。須崎から電車で窪川まで行き、朦朧とした足取りで駅からほど近い三十七番岩本寺納経所へ。「ずいぶん疲れた顔をしていますね、大丈夫ですか」と声をかけられた。日暮の電車でまた中村市まで行き駅前のビジネスホテルに宿をとる。雨にぬれた衣類すべてを洗濯して乾燥機で乾かした。
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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