自民党支持層も原発拒否全国アンケート 

自民党支持層も原発拒否全国アンケート 18・5・27
テント日誌5月26日(土)経産省前テントひろば1807日後より転載、
「今だけ、金だけ、自分だけ」の大嘘つき! その74 自民党支持層も安倍政権・経産省を信用せず原発を拒否~全国アンケート(岩波「科学5月号」)が示す「国民」の反原発~木村雅英(経産省前テントひろば)
 「自民党への投票者もその他の政党への投票者も過半が原発を拒否している」。
広瀬弘忠さん(東京女子大、安全・安心研究センター)が岩波「科学5月号」に報告している。昨年秋の衆議院選挙の2か月後(2017年12月)に行われた全国アンケート調査結果は、自民党支持層も含めて多くの「国民」が原発を心配し原発に反対している。すなわち、「自民党の候補者に投票した人々のうち、半数を優に超える人々が原発再稼働に反対している」のだ。
 選挙の「自民支持層」、「希望、公明、維新支持層」、「立憲民主、共産、社民支持層」に分類してアンケートした結果のうち、以下では「自民支持層」の結果を記載する。
● 「原発再稼働への賛否」 やや反対:50.4%、絶対反対:13.7%、合計64.1%が反対
● 「原発事故発生後から現在に至るまでの原発観の変化」 非常に危険だと思うようになった:32.4%、かなり危険だと思うようになった:49.1%:合計81.5%が危険だと思うようになった
● 「原発再稼働で福島第一原発並みの事故の起こる可能性」 起こる;14.4%、たぶん起こる:49.4%、合計63.8%が事故再発可能性
● 「国の原発事故対策の評価」 あまりできていない:60.3%、全くできていない:15.7%、合計76%が国の対策を批判
● 福島第一原発は今も危険な状態が続いているか:まだ非常に危険な状態である:34.2%、かなり危険な状態である:46.1%、合計80.3%がイチエフまだ危険
● 再生可能エネルギーの利用:大幅に増やした方がいい:43.5%、少しずつ増やした方がいい:50.9%、合計94.4%再エネ利用指示
 これらのアンケート結果は、自民党候補に投票した人までもが、安倍政権の原発推進政策を批判的に見ていることを示している。まして5月19日に発表された第5次「エネルギー基本計画」(案)は、世耕経産相の指示を受けて、今迄と変わらずに原発をベースロード電源とし、2030年に電力20~22%としている。「国民」と遊離した亡国の省、経産省だ。


「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」結成集会決議文 転載
  参加者一同

 日本原電(株)は、東海第二原発の再稼働(20年延長申請)審査を昨年
の11月24日に原子力規制委員会に申請した。現在、原子力規制委員会による適合性審査が行われているが、東海第二原発は1978年に運転を開始し、今年の11月28日に40年を迎える老朽原発であり、11月27日までに、全ての審査を終えなければ廃炉となる。原発の立地30キロ圏内には96万人の住民が暮らし、一度過酷事故が発生すれば、1500万人が生活する東京はもとより、50キロ圏の栃木東部、80キロ圏の千葉をはじめ関東一帯の住民は避難するまもなく、被ばくする。
 東海第二原発は、東日本大震災で被災、損傷した原発である。急遽建設
された6.1mの防護壁から進入した津波により、非常用発電機1台が停止。
冷温停止まで3日半かかるという事態を引き起こしている。また、応力腐食割れなどの劣化が進行し、シュラウドのひび割れも発覚。茨城沖地震が頻繁に発生している中で、中規模な地震によってもひび割れが破断となり、制御棒が挿入できなくなる事態が懸念されている。このような重大な危険性がある原発を運転継続40年の原則を反古にし、再稼働することは許されない。さらに、東海第二原発は、東電福島第一原発事故を引き起こした原発と同型の沸騰水型原発である。
 事故原因の究明も曖昧なまま、新規制基準への適合性のみで安全が担保
されるわけではなく、二度目の過酷事故は防ぐことはできない。建設時270ガルだった基準地震動は、1009ガルに引き上げられているものの、一定程度は強化されたところもあるが、原子炉の基本構造はそのままであり、見せかけに過ぎない。又、原電は、『燃え易いケーブルの半分を難燃性ケーブルに交換。残り
は防火シートでくるむ』としている。だが、安全系のケーブルについて言
っているだけで、ケーブル全体総延長1400kmから見ると、既に難燃化し
てあるのが6%、今から難燃性に交換するのは9%のみである。原発事故は地震や津波だけで起きているわけではない。スリーマイル島原発事故や国内の事故例を見ても、安全対策費の削減による事故が繰り返し起きている。
 日本原電は、東海第二の再稼働にあたって、1740億円の安全対策費を東電などからの資金援助によるとした。その費用はさらに膨らむであろう。一企業の商業利益と引き換えに住民の暮らしといのちが犠牲になる再稼働は断じて許せない。東海村には核施設が集中している。原発に隣接する東海再処理施設に放
置されている「高レベル放射性廃液」は、冷却機能が失われれば東日本全
滅の破局的事態になる。「新規制基準」に照らしても、東海第二原発の再稼働審査は同施設を複合災害の審査対象にしなければならないことは明らかである。
 廃止が決まった再処理施設には防潮壁はなく、廃液のガラス固化に20年、
施設廃止には70年を要する。
 JCO臨界事故、動燃再処理工場火災事故、原子力機構プルトニウム被
曝事故。繰り返される事故に住民の不安と怒りは計り知れない。
 茨城県内44市町村6割の27自治体において、20年延長反対、再稼働反対
の意見書が可決されている。
 もはや、日本原電、東電、東北電などの電力各社、規制当局に私たちのいのちと子どもたちの未来をゆだねることはできない。3月11日、首都圏の市民と茨城の住民500名は、日本原電に対し、東海第二原発の再稼働反対、廃炉を求める抗議、申し入れ行動を行った。
 東海第二原発の再稼働は私たち首都圏の住民の力でとめる。
 そのために大衆的な闘いを拡大強化し、再稼働を許さない行動をより広
範囲な皆さんに訴え、共に行動するため、本日、『とめよう!東海第二原
発 首都圏連絡会』を結成する。日本原電は直ちに東海第二原発の再稼働を撤回し廃炉とすべきである。 右決議する。
2018年5月21日「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」結成集会参加者一同
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タンプリン博士と初期日本の反原発運動

タンプリン博士と初期日本の反原発運動 18・5・24
仲井富 2012・1・9 地域社会研究会へのメモ

◆東京の市民運動とタンプリン博士・高木仁三郎氏の出会い 
 日本国内における反原発運動は、当初は福島、福井、新潟など1070年代初めから原発立地地域の現地における反対運動が主流だった。これが都市住民の反対運動にひろがったのは1975年のタンプリン博士来日を契機として「原子力と人類は共存できない」というタンプリン博士ら米国の反核、反原発の専門家による指摘が最も大きい。タンプリン博士を招いた東京の集会は、75年6月7日、東京で初の反原発市民集会、タンプリン博士は「人類は原発と共存できない」と講演した。つづいて京都市で同年の8月24-26日日本初の反原発全国集会が開かれた。その頃には全国で原発計画に対抗する住民運動が活発に活動し始めており、それら各地の運動の全国的な連携のためにこの集会が開かれた。それを中心的に準備したのは、女川、(宮城)柏崎(新潟)熊野(三重)浜坂(兵庫)伊方(愛媛)川内(鹿児島)などの住民団体だった。
高木仁三郎氏も、このころから反原発運動の理論的指導者として登場してくる。高木氏は2000年10月9日に、肝臓がんで62歳の若さで死去するが、その遺著となった自伝的著書「市民科学者として生きる」(1999年9月刊行 岩波新書)のなかで当時の模様を以下のように記している。
―1974ごろから私は、反原発の東京の市民運動などの集まりに顔を出すようになっていた。特に日本消費者連盟、公害問題研究会、一人一人が原子力の恐ろしさを考える会、原水禁国民会議などが中心となって、タンプリンを日本に呼ぼうということになり、そのための会合が、四谷の緑林館という事務所(仲井富氏が主宰)で何回か開かれ、それに顔を出したのを覚えている。…この頃に私は、原子力に批判的な研究者という立場から、反原発市民運動の活動家という立場へと踏み込んでいた。ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた。
―●タンプリン博士、緑林館を訪問 (緑林館通信75・6)
 5月の連休明けからは反原発市民連絡会議(反原連)の準備会事務局を緑林館に置くこととなった。おかげでこの1か月間は6月7日の反原発市民大会を中心とした一連の行事に忙殺されてしまった。各地の皆さんの問合せや、相談事に充分おこたえできなかったのはそのためである。ここにお詫びしておきます。
 反原連の招きで来日したタンプリン博士が6月2日の夜、松岡信夫さんらに案内されて緑林館に立ち寄られた。渡辺文学、高木仁三郎、宮島郁子などの各氏とささやかな招宴をひらいた。タンプリン博士はサントリーのダルマを愛好し、「駅弁がたべたい」などとおっしゃるほどに和食が好きである。二度の来日にしてはまことに器用な手つきで箸を使って刺身や、にぎり寿司を賞味される。気さくな野人的学者である。
 ある夜、野党国会議員団との対談を終えて渡辺文学氏の車で送る途中、タンプリン博士は「私は離婚していま独身である」といったのにたいして、渡辺文学氏「われわれも常に離婚寸前までは行くのだけれど・・・」タンプリン氏曰く「あなた方はおそらく奥さんから追い出される方であろう」われわれ一同期せずして「同感」。タンプリン博士の考え方は、「原発は人類の能力を超えており、これとの共存はあり得ない。化石燃料の節約こそもっとも有効なエネルギー政策である。」ということにつきる。私はこれにも同感である。

◆東京の市民運動が原発反対運動に取り組む契機 住民ひろばと緑林館
73年3・1・29 草の根消費者運動が石油タンパク禁止の申し立て厚生省に提出、
2・11 大日本石油、鍾渕化学など企業化中止表明、禁止を勝ち取る。
3・24 第二回反火力全国連絡会、銚子市で開く、松下竜一、宇治田一也、橘進と会う
6・22 渋谷に「住民ひろば」発足。発起人会、助川、宮崎、小手川、西村、正木、松本文、川本、東京から野村、大高、横山、渡辺ら、ひろば使用料100円
74・4・20、獲られたものを取り返す消費者の会発足、
74・5 緑林館が四谷に発足、 9・9獲られたものを取り返す消費者の会、原告70名石油六社を相手に石油集団訴訟を提訴。以上のような消費者運動の新しい波が、「一人一人が原子力の恐ろしさを考える会」へと発展した。
75・6・7 東京で反原発市民集会、タンプリン博士による「原子力と人類は共存できない」講演会開催、
 以上のような経緯を踏まえて、高木仁三郎氏らを中心に75年の9月に、神田司町に無給の高木氏が専従として、原子力資料情報室がスタートした。
78・5『はんげんぱつ新聞』創刊、2008年で満40年を迎えた。高木氏とともに原子力資料情報室を担ってきた西尾獏氏は「人間でいえば不惑の年を迎えんとしている。再稼働の道を断つ本格的廃炉の時代が始まる。原発のない社会を創り出す一助になれと、月刊4頁の小さな新聞の不朽の40年」と2018年の年賀状に書いた。スリーマイル島事故の一年前に発刊されたのである。これが今日まで、原発問題の中心的役割を果たすことになる。

◆タンプリン博士を最初に招いた原水禁国民会議
 タンプリンと日本の市民運動との出会いは1975年だが、それに先立つ1973年に原水禁国民会議が、タンプリン博士を招いている。これは当時の原水禁国民会議の森滝森滝一郎代表に寄れば以下のような経緯があった。
―被爆二十七周年大会(一九七二年)で「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再代表の処理工場設置に反対しよう」というスローガンを掲げた。国内では、とくに原発設置反対の現地の住民運動があちこちに起こり、それを横につなぐ全国連絡会議の必要が起こり、「情報センター」の必要性も起こり、学者・専門家の助言・協力の必要性も切実に起こっていた。原水禁国民会議は、そんな必要性に対応する態勢をこの年あたりから取りはじめていた。
 この年の国際会議(一九七二年)には、前年から予約していたゴフマン教授は身辺の都合で出席できなくなったが、入念なレポートを送ってくれたし、日本側からは辻一彦参院議員が「わが国における原子力発電所の問題点」という詳しい報告をした。とくに忘れがたいのは、この年のコルビー女史の発言であった。そのなかでコルビー女史は言った。「過去において成功とは、核兵器の全面的かつ恒久的な廃絶を究極的になしとげることを意味しました。今日、成功とは、戦時、平和時を問わず原子力が使われることによって生ずるすべての放射能の廃棄をめざして成果をあげることを意味しております」と。軍事利用、平和利用ともに否定すべき方向を提唱したのである。そして「危機に陥っている惑星の市民として暗闇の谷間から真実の進歩の高原に通じる道を示さなければなりません。そのときこそ私たちは、原子力がもはや『人類の輝かしい夢』ではなく、むしろ悪夢であることに気づくでありましょう」と結んだ。コルビー女史が原水禁国民会議の「核絶対否定」に深く共鳴し、一貫して支持・協力する理由がここにある。
 翌年、被爆二十八周年(一九七三年)の原水禁大会には、ゴフマン博士に代ってその盟友アーサー・タンプリン博士が来日した。博士は単に国際会議に出席するだけでなく、その前に一週間ばかり、日本各地の原発設置個所を精力的に視察したり住民運動と交流したりした。そして、国際会議では、タンプリン博士の特別講演が重要な内容となった。それ以後、この講演は、わが国の原発反対運動の基本理論を構築していく出発点ともなった。
 私は、心ある人びとに、いまの時点でのあの講演(被爆二十八周年大会報告決定集の付録資料)をもう一度あらためてじっくりと読みかえしていただきたい。ここで博士は、「原子炉は、いまだかつて人類が経験したことのないような大事故の可能性をもっている」とし、炉心溶解による大量の放射能流出を語る。そして、この種の事故を防ぐものとしての緊急炉心冷却装置(ECCS)も、その実験はまだすんでいないことを語る。
 さらに、博士が力説したのは原子炉が大量につくりだす放射性物質の問題、放射性廃棄物の究極的処理の未解決の問題、最後に、最大の問題としてプルトニウムの軍事転用と核拡散の問題はもとより、その絶望的な猛毒性の問題、その管理のために私たちの子孫が永久的にこうむる重圧の問題-。原発反対の基本論理は、ほとんど解き尽くされたのである。 なお、博士は最後にミクロネシアのロンゲラップ、ウトリックの島の住民の問題にふれ「放射能は、いまなおこれらの島に残っている」と警告した。―
◆田原総一朗の『原子力戦争』の衝撃(1977年1月 講談社文庫)
東京に原発をと言った三人 (ブログ「老人はゆく」2011・4・15)
 福島原発事故は、二重の意味で罪が重い。ひとつはこの原発の恩恵に浴していたのは、3300万人の首都圏の人々であり、原発事故にあった地域は、東北電力管内であった。さらに問題となっている避難地域の南相馬市や飯館村は、原発立地関係町村ではなく、一円の交付金ももらっていない。そういう地域の人々が、放射能汚染という一方的な暴力で、田んぼを奪われ、牛飼いの手段を喪い、工場を失うと言う悲惨な状況に追い込まれた。政府の対策も、これらの市町村の原発難民に細かい配慮をしているとは思えない。怒りが出てくるのは当然だ。
 東京では、石原老害知事が相変わらず、原発必要論を至極当然のように語っている。石原知事はかつて「東京湾に原発をつくってもいい」と公然と発言している。2000年4月26日、有楽町にある東京フォーラムで開かれた日本原子力産業年次大会で以下のように講演した。「私は完璧な管理が行われるのであれば東京湾に立派な原子力発電所を作ってもよいと思います。また日本にはそれだけの管理能力がある、技術があると思っておりますし、その技術が改善されていく余地があると思っております。それくらい冷静な認識を持たないと、何でも反対ということで禍根を残すことになります」。
 これより前の1981年に作家の広瀬隆が「原発が安全というならば、長大な送電線建設コストのかかる地方ではなく、電力の大消費地である首都圏に原子力発電所を建設してはどうか」と指摘した『東京に原発を!』(JICC出版局)原発賛成と反対で立場は違うが、東京に原発をということを、明確に言ったのはこの二人だ。
 だが「安全なら東京に原発を作れ」と言ったのは、もっと以前から、原発反対運動の声として存在していた。今日では原発問題の古典となった、田原総一朗の『原子力戦争』(講談社文庫)に女川原発に反対する漁師多賀井公平の言葉を載せている。「だいたい電気を使うのは東京なんだよ。おれたちは電気なんて大していらないんだ。夜は早く寝るし、クーラーも入れないしよ。東京の電気は東京で作ってくれよ。女川や柏崎や下北を犠牲にするのは、それはよくないぜ。そういうのを差別とか搾取っていうんだだろう。原子力はクリーンで安全なんだろう。霞ヶ関とか皇居で10年20年とか発電してみてよ。それで具合いいようだったらおれたちも考へてみるからよ」(1975年「住民とりで」)いまとなっては、三人のうちもっとも先見性を持った発言をしているのは、女川の漁師だったということになる。(注 「住民とりで」とは 「住民ひろば」のこと)
 田原総一朗氏の「原子力戦争」は雑誌「展望」1976年1月号から4期にわたって連載された。この前年の1975年に田原氏が「緑林館」に現れて、住民運動の話を聞きたいということで、数時間ぶっ通しで取材を受けた。初対面なのにまことに図々しいというかしつこいというか、そのあくなき徹底した取材姿勢に感嘆した。その時に当時生まれたばかりの、一人一人が原子力の恐ろしさ考える会の女性たちのたまり場になっている「住民ひろば」を紹介した。前記の女川の漁師の話は、住民ひろば の取材によって本書に書かれたものである。その田原氏が今日では、原子力側の㏚集会の講師となり、青森の反対派からの公開請求で百万円余の講演料を受け取っていることが明らかにされている。しかし『原子力戦争』は今日あるをすべて予言している点において「原発問題の古典」としての価値は変わらない。高木氏もこの時初めて、田原氏と出会って助言している。

ニセコ高の原発講演に経産局が事前介入

ニセコ高の原発講演に経産局が事前介入 18・4・12
 テント日誌4月10日(火)経産省前テントひろば1807日後、からの転載 要旨。
 4月6日の北海道新聞に驚いた。<経産局、ニセコ高の原発講演に修正要求 不当介入と批判 【ニセコ】後志管内ニセコ町の町立ニセコ高が昨年10月、国の委託事業の一環で行ったエネルギー問題に関する講演について、北海道経済産業局が事前に講師に原子力発電の問題点を指摘する内容を変更するよう求めていたことが5日、発覚した。経産局は「中立的な講演を求めただけ」とするが、住民らは「教育への不当な介入だ」と批判を強めている。つい先日、日本会議の自民党国会議員の照会圧力を受けた文科省が名古屋市の高校教育に介入した。何と経産省も高校教育に介入していたのだ。経産省は<原発の発電コストに関する記述や東京電力福島第1原発事故の写真について「ほかの見解もあるのでは」「印象操作だ」などとし変更を求めた。
 何と、経産省が誤った原発推進政策を続ける為に、原発に関する表現を変えるように講師に圧力をかけたのだ。世耕経産相は4月6日の記者会見で「…誤解を与えかねない面があった…。今後、こうした誤解を生むやりとりが二度と発生することがないように、事業の運営方法を抜本的に見直したいと思っています。」と述べた。見直しは当然だが、誤解ではない。経産省による原発推進政策も、その為の教育への介入も、プロパガンダも、監視し反対し続けよう。また、多くの省庁が、安倍政権の下で「国民」の意向に反する政策を推進する為に、事実を隠すだけでなく、教育やメディアに圧力をかけていることも、警戒せねば。
◆モニタリングポストの継続配置を!!
 原子力規制委員会によるモニタリングポスト撤去の 決定の取り消しを求めます。賛同団体と個人署名にご協力を!  黒田節子@原発いらない福島の女たち  皆さん、よろしくご協力をお願いします。(拡散歓迎)◎【今後の予定について】
この件について、私たちは、原子力規制委員会に「モニタリングポスト(リアルタイム線量測定システム)の継続配置を求める要請書」を提出します。そのほか、各自治体に対しても「モニタリングポストの継続配置を求め続けてほしい」という市民の声を届けると共に住民説明会の開催なども求めながら全体の動きをつなげていく予定です。
「モニタリングポストの継続配置を求める市民の会」 共同代表:鈴木真理・片岡輝美・千葉由美  事務局・問い合わせ先:〒963-0101郡山市安積町日出山1-31
  メールアドレス:monitoringpost.shimin@gmail.com
  TEL:080-2805-9004

酷暑の下で座り込む通産省前テントひろば 

酷暑の下で座り込みを続ける通産省前テントひろば 17・7・12
テント日誌7月10日(月)経産省前テントひろば1807日後 
 希望の牧場の吉沢さんの力強い訴えに聞き入った 7月7日(金) 私の腰痛のため色々な方々が手を差しのべてくれて有り難いやら、心苦しいやらの金曜日である。いつものグッズ+クーラーボックスを台車に積み込み今日は3人で事務所を出発。途中、いつもの安芸路で弁当を購入する。経産省正門前に到着して幟旗をセットセットする。忘れてきたテーブルをYさんが事務所迄取りに行ったり、クーラーボックス入れる氷をSさんが購入しに行ったりで座り込み開始がやや遅れたが5人でスタート。夏の日差しが照り付ける。 座り込み開始すると、鳩や雀が樹上から舞い降りてくる。弁当を食べ始めると餌を催促するように近付いてくる。しかし、金曜日のメンバーは誰1人として餌をやらない。物欲しそうな鳩の表情である。丁度お昼時なので目の前を官僚たちが鳩を蹴散らすように通りすぎていく。
 浪江の希望の牧場の吉沢さんが何時ものように、牛のモニュメントを軽トラの後ろに連結してやって来た。吉沢さんが 大音量のスピーカーで演説を始める。「都議選での自民党の大敗北をした。安倍一強と言われていたが潮目が変わったのだ。みんなで安部を倒そう。我が故郷浪江が帰還解除になったが、たった1%の人間しか戻っていていない。 浪江はこのようにして町が崩れていくのだ。これも第1次安倍内閣の時期に福島原発では津波対策の必要性を指摘されていたにもかかわらず、無視を決め込んだ安倍のせいだ。福島原発事故の検証もせずに原発再稼働や原発輸出にひた走る安倍晋三。みんなの力で安部を倒そう。」と力強く訴える。 軽トラの屋根の上に乗って訴える姿を、人々が見上げながら通り過ぎる。霞ヶ関の官庁街に吉沢さんの声が響き渡る。
 今日は、昨日図書館でやった学習会に沢山参加していた関係で、経産省抗議行動は人が少なめであった。腰の痛みに耐えながらも、経産省抗議行動に久し振りに参加出来た。(S・S)大賑わいの霞が関の七夕 7月7日(金)3時過ぎに到着。暑いと言うと暑い、と言わないようにしながら十人ほどが本館前で座り込み中。冷たい飲物を補給しながら、座って経産省に抗議を続ける。4時過ぎにはいつもの文科省前抗議行動が始まるが、あまり大きな声が聞こえない。腰痛回復中のSさんと行ってみると、試験中なのか高校生がいない。それでも、大人たちで差別反対を強く訴えた。経産省前抗議行動が始まる5時には大分人数も増えた。Hさんの進行で、前日の「プルトニウム+大洗}学習会報告、希望の牧場の吉沢さんの熱い訴え、玄海再稼働阻止の為の近況報告、……と続く中で、チラシ配布をして帰路につく人たちに脱原発と安倍政治を許すなと訴えた。

 

原発避難者訴訟前橋判決 部分的勝訴と評価

原発避難者訴訟前橋判決 部分的勝訴と評価 17・3・19
  3月18日、前橋地裁は原発避難者訴訟で初の判決を下した。「東電、経済性を優先」 国は対策命令怠るという趣旨の判決文である。しかし計約15億円の請求総額に対し、認容されたのは3855万円にとどまった。産経新聞3月19日朝刊は要旨以下のように報じた。
◆東電と国の責任とを追求した最初の判決
-前橋地裁は17日、国と東電の双方が巨大津波の到来を予見可能だったと判断。「経済的合理性を優先させた」「主張は不合理」と、両者の責任を指弾した。前橋訴訟も含め、全国で起こされている28の同種訴訟の原告数は1万2千人を超える。責任追及の争点はほぼ共通しているだけに、国と東電にとっては厳しい判決となった。訴訟の最大の争点は、東電と国は巨大津波を予見し、事故を回避することができたのか-だった。判決が着目したのが、平成14年7月31日に公表された政府の地震調査研究推進本部の長期評価だ。太平洋の三陸沖北部から房総沖の日本海溝でマグニチュード8クラスの津波地震が発生する確率を「30年以内に20%程度、50年以内に30%」と推定していた。具体的根拠はない」とする東電に対し、判決は「長期評価は地震学者の見解を最大公約数的にまとめた合理的なもの」で、公表の数カ月後には「津波が来ることを予見可能だった」と判断。東電が15・7メートルの津波が到来するとの試算結果を得た20年5月には「津波の到来を実際に予見していた」と踏み込んだ。その上で、非常用電源の高所設置などの対策で事故は防げたのに、「経済的合理性を安全性に優先させたと評されてもやむを得ない対応を取ってきた」「約1年間でできる暫定的対策すらしなかった」と東電の対応の不備を列挙した。厳しい目を向けられたのは、国も同様だ。国が津波を予見可能だった時期は、東電と同時期の「長期評価公表から数カ月後」だったと認定。東電による自発的対応が「およそ期待困難な状況」と認識していたのに、事故を回避するための対策を取るよう東電に命令する権限を行使しなかった、と指摘した。国は「当時は規制権限がなかった」とも主張したが「裏付けに欠ける」「不合理で採用できない」と退け、国の責任は「東電と比べて補充的なものとはいえない」と、東電と同額の賠償責任があるとした。ー
◆全国の避難者訴訟に与える影響大
 計約15億円の請求総額に対し、認容されたのは3855万円にとどまった。毎日新聞3月19日は以下のように報じた。ー笑顔なき一部勝訴だった。17日の原発避難者訴訟の判決で、前橋地裁は東京電力と国の賠償責任は認めたものの、命じられた賠償額は原告の請求からは程遠かった。古里を奪われた代償を求めて3年半。大半の原告が周囲に知られないように名前も伏せ、息をひそめるようにして闘ってきた。「もっと寄り添ってくれる判決を期待していたのに」。苦労が報われなかった原告の顔には落胆の表情が浮かんだー
 とはいえ、東京電力と国が、津波が予見されたのに施策を講じなかった責任を明確にした、回の前橋判決は、全国29カ所で提訴されている原発避難者一万数千人の訴訟に大きな影響を及ぼすことは確実だ。
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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