通巻300号を迎える『禁煙ジャーナル』

通巻300号を迎えた『禁煙ジャーナル』 18・34・24
 徘徊老人が、かつて発刊していた『月刊環境破壊』は公害環境問題、主として住民運動の立場からとらえて、1970年から1987年まで17年間発刊して幕を閉じた。その当時、公害問題研究会の事務局長をしていた渡辺文學さんとは、刎頸の友として48年間の付き合いだ。彼はその後、禁煙運動にのめりこみ、たばこ天国の日本を禁煙に変えた大功労者だ。かつては酒、煙草を愛好し、車の運転をしていたが、運転免許を返上し禁煙運動一筋に生きて来た。彼の発刊する「禁煙ジャーナル」が通関300号を迎えて、先週その記念の集いがあった。以下は禁煙ジャーナル40年にあたって、彼のブログに掲載された禁煙ジャーナル通関300号の記事の要旨である。
 - 『禁煙ジャーナル』が通巻300号を迎えた。1989年4月「タバコと健康全国協議会」の機関紙として『タバコと健康』の発行に踏み切りました。財政的な裏付けも全くなく、思い切った決断だったと思います。そのころの全国協議会の会長は、九州禁煙協会の川野正七氏で、平山雄博士や伊佐山芳郎弁護士、穂積忠夫弁護士、愛知県肺癌対策協会の通木俊一氏らと相談の上、創刊号の発行にこぎつけました。2年後、1991年1月から、現在の『禁煙ジャーナル』に改題して発行を続け、次号、5月1日発行号で通巻300号を迎えます。本紙発行当初の社会情勢と比べると、現在は劇的な変化を見せています。航空機、列車、バス、タクシー、病院、学校、野球場、競技場、劇場、公共施設などの禁煙が当たり前となり、国、自治体、企業のタバコ規制もかなり進んできました。しかし、大幅に遅れているのが飲食店です。「健康増進法」の改正案では、当初厳しい規制方針が盛り込まれていましたが、自民党タバコ族議員の圧力で、大幅に後退した内容となってしまい、メディアからも厳しい批判がなされています。
 ■JTの広告・スポンサーシップは問題
 タバコの煙に悩まされる機会は大幅に減ってきました。しかし、問題は山積しています。まず何といってもJTの「広告」と「スポンサーシップ」を禁止させなければなりません。JTは今「分煙」を強調していますが、どんな内容であれ「タバコの広告は全面禁止」が世界の常識です。
 国会の取り組みも遅れています。テレビ・新聞でもよく報道されますが、テーブルの上の灰皿やスタンド灰皿など、一向になくなっておりません。「国会敷地内全面禁煙」をめざしてほしいものです。
 ■加熱式タバコとの新たな闘い
 「紙巻タバコ」のような煙や臭いの少ないことを謳った「加熱式タバコ」が急増中です。しかし多くの専門家は「ニコチンや発がん性物質を含むことに変わりはない」と指摘しており、健康に及ぼす悪影響について警鐘を鳴らしています。「タバコはタバコ」です。紙巻タバコと同じように、厳しい規制対策を進めていくべきです。
 ■財務省の関与をなくせ
1985年から施行されている法律が「たばこ事業法」で、「わが国たばこ産業の健全な発展を図る」と書かれています。このような法律を持っている国はありません。また、JT株の33.35%は麻生財務大臣の名義となっています。タバコ問題の国際会議では、タバコ会社を「死の商人」と位置づけてきましたが、「死の商人」と呼ばれる会社の株を30%以上も保有しており、監督官庁が財務省ということも大きな問題です。故平山雄博士は「厚生省に大政奉還せよ」と常々語っていました。私は、300号の発行にあたり、平山先生の遺言を胸に、タバコ問題の抜本的な解決、さらにはタバコのない社会をめざして全力を注いでいく決意を新たにしております。 18・34・24ー


 
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映画「おだやかな革命」の話、

映画「おだやかな革命」の話、通産省前テントひろば 18・2・17
 通産省前テントひろば1807日後、テント日誌2月15日号に映画「おだやかな革命」の話が載っていた。以下要旨を紹介する。
―経産省の近くに来ると鳩が次々と飛んできた。顔に激突する直前でターンして減速し地上に降りる。何羽もやって来て視界は鳩でいっぱい。今日も座り込みのオープニングは鳩吹雪とプラタナスの木に満開の雀たち。東中野ポレポレで「おだやかな革命」を観てきたIさんが映画を紹介してくれた。それは小さな地域社会が目指すそれぞれの「エネルギー自治」のドキュメンタリー。畜産農家が立ち上げた飯舘電力、石徹白(いとしろ)の100世帯全戸が出資した小水力発電、首都圏の消費者・地方の農家・食品加工業者が連携して進めている秋田県にかほ市の市民風車。森林資源を生かしたビジネスを立ち上げる岡山県西栗倉村等々。 
自然エネルギーを中心に話が弾んだ。皆の質問に勉強家のUさんが話題の上昇気流になってくれた。「止める・阻止する」話も大切だけれど「始める・進める」話はとても楽しかった。アベ船籍のガレー船に乗らず自ら作った小舟のオールを漕ぐ。ワクワクするな。アベが言うカクメイ?とは大違いだねー
◆畏友加瀬勉の映画と著書発刊「加瀬勉戦いに生きる」の知らせ
 私も時々中野ポレポレで映画を観る。昨年はいまなお続く三里塚闘争の第三期工事反対を含めた闘争参加者の話を撮った「三里塚のイカロス」を観た。このなかに砂川闘争以来の友人である加瀬勉も出ている。82歳の彼はいまなお空港騒音下の千葉県多古町で2町五反の田圃を耕す現役農民だ。彼から昨年末自著『加瀬勉戦いに生きる』発刊の知らせがあった。
 ー仲井大兄 気力十分「こんな世の中を残して死んでたまるか」お互いに健在でなにより。俺のことを映画に撮るなら底辺で生きている人を社会の表舞台に立たせて発言の機会をあたえろ。年明けて新年には「加瀬勉戦いに生きる」800頁、4500円の本が出版される。こんな高価な本を日本の大衆は読まない。俺のことなどどうでもよい。大衆のなかへ、大衆のなかへ。大衆路線を堅持して自民党独裁を倒さなくてはならない。社会党が消えて、共産党が三里塚から逃げて、新左翼は霧散無消・立憲、民進党は無能力市民権無し。55年間、命を懸けて闘ってきてこのありさま。虚しさを克服して奮いたつ毎日である。「一日一生」わが命尽きるまで、前へ。

62年前の新潟米軍飛行場拡張反対闘争を訪ねる 

62年前の新潟米軍飛行場拡張反対闘争を訪ねる 18・1・16
 1月9・10の両日、メールマガジン・オルタ編集長の加藤宣幸さんと二人、雪の新潟に出かけることにした。目的は、新潟県の野党共闘の世話役の一人である、新潟市議会議員の中山均さん(緑の党グリーンズジャパン共同代表)の話を聞くためである。9日の午後新潟市議会の控室にお訪ねした。新潟県の2016年7月の参院選の森ゆうこ氏の2700票差の勝利を契機として、市民と野党の共闘で、同年10月の米山知事の6万1,000差の勝利、そして2017年10月総選挙における6選挙区中4選挙区での市民と野党共闘の勝利の内実について、共闘の仕掛け人の一人であり、政策担当者としても活躍した山中さんの話をじっくり聞くことが出来た。
 1月10日午後には、今回の新潟行きの主目的である62年前の新潟米軍基地反対闘争に関連する話を聞いくために、かつて新潟県総評の事務局長を務めた風間作一郎さんにお会いした。62年前の新潟米軍基地反対闘争に関連する話を聞いた。風間さんは当時、全日通労組に所属していた。反対期成同盟の箱岩事務局長(県労協事務局長)は1956年8月15日急逝されたことは知っていた。砂川闘争の現場や、全国基地連等の集会で顔なじみだった保科事務局次長は、日農出身だったが、新潟闘争後は新潟県総評のオルグとなり、米軍拡張予定地内の女性と結婚、一児をもうけたが若くして交通事故で急死されたという
風間さんの話で面白かったのは、農民は米5合、労組員は50円の拠出によって購入された宣伝カー「平和号」の話だ。平和号は新潟の反対闘争の仲間を載せて、砂川現地に行ったり、第二回、第三回原水禁大会に参加した。ところが宣伝カーの運転は大型免許が必要となる。そこで全日通労働組合の風間さんが運転手を務めることになった。それがきっかけとなって、社会党の党員となり、今なお新潟社民党の党員として生き残っている。
 風間さんは1970年代、新潟県総評の事務局長となり、当時の新潟水俣病、そして新潟柏崎原発反対運動に直接かかわった。当時の新潟県総評の議長宮下幸治氏とは、かつて70年代の初めに私が公害問題研究会を発足させたころ『月刊労働問題』誌上で、公害問題と労働運動なるテーマで座談会をやったことがあった。宮下氏は全逓出身だったが、物腰の柔らかい頭のいい人だった。風間さんは彼と組んで、新潟水俣病や柏崎原発反対闘争の労組員カンパなどで苦楽を共にされた由である。とうてい1回の話だけでは無理だと思った。そこで春になれば、もう一度伺って話を聞くことにした。
 新潟県立図書館に行って、資料担当の方に、新潟飛行場反対闘争の資料検索をお願いした。当時は翌日開票があり、北村大勝を報じた新潟日報は21万票差の大見出しだった。しかし最終的には差は25万8,000票だったことが判明した。この大勝が支えとなり、新潟米軍飛行場拡張反対闘争は、野党の社会党や県労協、日農などが担いだ北村知事を先頭に、1955年の砂川闘争と同じ時期に始り、1958年3月、米軍の撤退により完全勝利を勝ち取った。
 しかし大きな課題が見つかった。その一つは、戦後の米軍基地反対闘争のなかで、県知事を先頭に一糸乱れず全県民的反対運動によって、完璧に米軍基地の拡張を阻止した唯一新潟の反対闘争の記録は県政史料のなかに残っていない。新潟県の県史における新潟米軍飛行場反対運動の抹殺はなにかという疑念をぬぐうことが出来ない。今年は新潟にときどき出かけて、老年の最後の仕事として新潟飛行場完全勝利の62年前の実相を追究してみたくなった。

渡辺文学氏禁煙40年の挨拶とポイ捨て拾い

渡辺文学氏禁煙40年の挨拶とポイ捨て拾い 17・6・17
 畏友渡辺文学こと文さんから昨日「7月23日に傘寿を迎えます」とのメールが届いた。それで彼の禁煙歴は40年になると知った。ということは文さんは40歳までは煙草を吸い酒を飲み運転もしていたわけである。何しろ若かった。横浜で公害研の会議を終えて東京に帰る時、彼の車に乗せてもらった。煙草を吸いながら、アルコールが入って夜の京浜国道を走るわけだからスピード違反すれすれで、乗っていてハラハラしていた。それが突然、煙草をやめ、車の免許までも返上した。以降は禁煙運動の旗手として日本のたばこ問題の第一人者として今日まで活動を続けている。以下は彼のメールである。

―あと10日。7月23日に、80歳=傘寿を迎えます。1985年に平山雄先生と「たばこ問題情報センター」を創設。1989年に『禁煙ジャーナル』の発行に踏み切り、その後、紆余曲折を経ながら、28年間にわたって発行を継続してこられましたことは、多くの皆様方の温かいサポートの賜物と、心から御礼申しあげる次第です。1977年5月6日、約20年間のニコチン嬢との腐れ縁(煙)にピリオドを打った年から、今年2017年は、ちょうど40年目という節目の年でもあります。また、コピーライターの中田みどりさんが「嫌煙権」という造語を提唱した年も1977年であり、いろいろと不思議な現象が、私の「断煙」を機に起こった年でもありました。
 時あたかも「受動喫煙防止法」(「健康増進法改正案」)が大きな話題となって、政治の場でも真剣に取り上げられることとなり、都議選で岡本光樹弁護士が、貴重な議席を得ることが出来ましたことは、まさに「天の時・地の利・人の輪」が、タバコ問題の解決に向けて大きなステップ踏み出した歴史的な年でもあります。2020年まで、あと3年。抜本的なタバコ規制対策をめざして、皆様のバックアップをいただきながら、JT、財務省、自民党たばこ賊(族)議員、御用学者・ジャーナリストなどと徹底的にたたかう決意を新たにしております。「誕生日」を目前に、一言御礼と決意の言葉を述べさせていただきました。―
 同日もう一本のメールが届いた。彼がこの春から続けている、地元世田谷区内でのたばこのポイ捨て拾いの報告である。
 ー渡辺文学 禁煙・嫌煙権運動関係者各位  6月23日~7月1日まで、会津に行っていてブランクがありましたが、今朝の「365本」には驚きでした。世田谷区に5月上旬から「対策」を要請してきましたが、全く何の動きもありませんでした。(これが、今までの最高本数です。)ようやく12日に環境政策課の石塚氏から電話があり、南烏山地区の団体と相談したとのことでした。また、区として、道路上に「ポイ捨て禁止」の表示を業者に委託する旨も言っておりました。保坂区長、あまり「タバコ問題」には関心が薄いようなのが残念です。ー
      (写真 文学さんが拾ったタバコ最高記録)

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大石武一元環境庁長官と市民運動

大石武一元環境庁長官と市民運動 16・10・18
 大石武一元環境庁長官が2003年10月19日に94歳で亡くなられてまる13年を経た。1970年の環境庁発足以来、大石環境庁長官の活躍ぶりは、当時仔細にマスコミなどに報道され知らぬものはない。だが政界引退後、住民運動の求めに応じて東奔西走されたことを知る人は少ない。83年に73歳にして政界を引退された後も終生自然保護活動を中心とする住民運動の第一線に立ち続けられた。自民党出身の環境庁長官や農水大臣を歴任した方が、引退後も各地の住民運動に最後までかかわって下さった。まことに稀有のことである。
◆大規模林道反対運動の代表に
 私は1994年の6月、エネルギージャーナルの清水文雄編集長と福島県会津若松市で開かれた大規模林道反対集会に出席する機会があった。環境公害問題は都会と海岸の汚染だと思い込んでいたが、日本全土の山のなかにも大規模林道という環境破壊の事業を森林開発公団という農林省の外郭組織が行なっていることをはじめて知った。そこで知り合った山形県白鷹町の「葉山の自然を守る会」や会津若松市の「博士山のブナ林を守る会」などのメンバーとの話し合い、東京で全国集会を開く責任を負うことになった。当時岩波書店にいた加藤彰紀さんなどと事務局を構成した。さて代表には誰がいいかなどと議論となり私が「大石武一さん」という名前を上げるとみんな賛成した。先生すでに80代半ばの頃だ。勇を鼓して神田神保町近くにあった馬事畜産会館を訪ねた。話を聞くなり先生は即座に「それはいいことだ。引き受けるよ」と言われた。
 後々分かったことだが、元農林大臣の経験者として、農林行政に文句を付けることになる森林開発公団の大規模林道計画に反対することなど通常はあり得ない。しかし先生は「戦後の拡大造林政策」でブナやナラなどの自然林を壊して杉やヒノキで埋め尽くした農林行政の失敗を反省されていた。これを改めるいい機会だと思っていらっしゃった。お蔭で1995年の「大規模林道東京集会」は成功をおさめた。先生は以後94歳でお亡くなりになるまで、健康と時間の許す限り大規模林道の全国集会や内外の自然保護運動に貢献された。
 ある時、清水文雄編集長と「一度大石先生の労をねぎらおう」と相談して長野県穂高町のビューホテルで温泉に入り上高地を歩いた。先生は草花や森林などが大好きだから大いに喜んでくださった。さらに大石先生はなかなかの健啖家だった。穂高のホテルで夕食の相談をした。ご老体だからと気をきかせて「先生、和食と洋食がありますが和食にしましょう」と言ったところ「いや肉のほうがいい」と言下に洋食を希望された。しかもわれわれよりも早いスピードで肉を平らげる。「やはり長生きする人は肉も食べるし、食欲旺盛だ」と感心した。
 先生は戦前から銀座八丁目にあった千疋屋のハヤシライスを好まれた。こちらもそれを承知で「先生、今日は千疋屋で昼食をしながら相談したいのですが」というと、機嫌よく出かけて来られた。晩年まで闘志旺盛で「君たち、やる以上は全国的なスケールの運動にしたまえ」と叱咤激励された。いい加減な気持ちではだめだという意味が込められていた。どちらかというと易きに付きやすい私への叱声と受け止めた。大石先生没後13年の秋、恩寵まことにありがたく忘れ難い。合掌
  
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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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