80代からの呆け物忘れ

 
80代の呆け物忘れ進行について  9月30日
 80代になって、心していることは、人によっては80代半ばから、すっぽりと記憶が喪失する何人かの先輩のことを見てきたことだ。今から7,8年前、労働運動の大先輩のⅯさんと過去の話をしたことがる。それは1977年に社会党を離党した江田三郎さんのことに関して、当時Ⅿさんから戴いたアドバイスの話である。当時Ⅿさんは江田離党に関連して、「江田さんは離党にあたって、今まで世話になった総評などの各単産と、戦前からの社会主義運動の大先輩である、荒畑寒村と加藤勘十に挨拶に行くべきである」と助言された。
 それに従って、当時元気だった下町タイムスの今泉清と私が江田さんにつきそって荒畑寒村さんを訪ねた。1977年3月のことである。その話を30年近くたってから、当時出していた遍路のミニコミ「老人はゆく」に書こうと思い立った。当時のアドバイスをしたⅯさんに確認する意味でお聞きしたことがある。ところが大先輩は「いやそんなこと言った覚えはない」とおっしゃった。1977年に江田さんに会っていただいた寒村さんは4年後の1981年に93歳で病没する。その前に、世話になった知人友人に色紙を書いてお別れされた。その色紙には「雲の峯 雷雨ともならで 崩れけり」という一句が記されていた。という話もⅯ大先輩から聞いたことがあった。すると「いやそんなこと私は知らん」と否定されるのである。
 困ってしまったが、幸い、寒村さんが亡くなられた直後に、Ⅿ先輩が、ある新聞に寄稿されていた一文にに、そのいきさつが書いてあったのを発見した。曰く「寒村さんは最後の入院の前に色紙50枚を書いて各々の人に贈った。その色紙というのは、5年前の米寿の折に、歴史家の信夫清三郎氏から寄せられた『孤高とはかくの如きか雲の峯』に応えたもので、まず、“自嘲の心境を込めて”と前置きして『雲の峯雷雨ともならで崩れけり』と書いた。まことに荒畑寒村を語って余すところがない」。これが出て来たので自信を持って、当時のいきさつを書くことができた。
 頭の良い優秀な住民運動の女性リーダーが80半ばになって「植物の名前などごっそり忘れてしまった」と嘆かれていたのを思い出す。剥げ落ちるようにある年代や、ある名前などごっそりと忘れるものらしい。すでにそういう兆候を自分にも発見している。先日会った88翁は「ワープロで原稿書いていたら手紙を書く時、漢字が全く書けなくなった」と笑っていらっしゃった。時々いただく手紙がまるで、小学生の書いたような、ひらがなの多い文字で綴られている。徘徊が駄文駄句を連ねてブログを書いているのも、一言で言えば「ぼけ防止」のためという意味合いが強い。しかし年を重ねるにつれて、何かを失っていくということは間違いない。それを味わいつつ生きて,一歩づつあの世に近づいてゆくということなのだろう。
  時雨るればあの世この世の境消ゆ 漫歩


          (写真 北の丸公園のススキ)

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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