登山家守屋益男の戦争体験と護憲論

登山家守屋益男の戦争体験と護憲論 16・2・24
 郷里岡山の友人Tから手紙が届いた。そのなかに岡山市旭操・富山9条の会の会報が入っており、代表守屋益男さん80歳の「今私が思うこと」という一文があった。守屋さんは登山家であり、今年1月14日、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(タンザニア5995㍍)の登頂に成功した。三度目の挑戦で80歳にしての登頂だった。
―私も、もう何年生きているれるかわからない。戦後70年間、戦争をしなかった日本、この平和な日本が、安倍内閣の出現によって戦争をする国に変えられようとしている。このことに警鐘を鳴らさなくてはならない。平和な日本を後の世代の人たちに残していかなければならないと思う。
◆私の戦争体験 岡山大空襲で丸焼けとなり疎開
 私は1935年(昭和10年)11月、岡山市小原町(現清輝本町)で生まれた。日本軍がアメリカ。ハワイの真珠湾を奇雲攻撃して始まった1941年12月8日の太平洋戦争開戦日のことは、子供心にもはっきりと覚えている。当時、私は満歳で、清輝幼稚園の園児であった。朝、幼稚園に登園すると、先生に連れられて地域のお宮である春日神社に〈戦勝祈願〉のお宮参りをさせられた。そして、お弁当を食べでからの午後も、また春日神社にお参りをさせられ、一日に二度も同じ神社にお宮参りをすることを不思議に思った。小学校)に入学した頃には授業時間は普通だったが、2年生、3年生と進級するにつれてアメリカの爆撃機が日本に飛来するようになり、警戒警報、空雲警報のサイレンが鳴りひびく日が多くなり、そのたびに自宅へ下校するため勉強する時間が少なくなっていった。
 生徒はみんな六尺棒(武具約180cm)を買わされ、脚にゲートルを巻いて六尺棒を小銃に見立てて軍事教練のまねごとをさせられた。兵隊になって戦争で死ぬときは『天皇陛下ばんざIい』と言って死ぬのだ、と先生に教えられた。学生服の胸には、荒鷲のマークと血液型を書いた布を縫いつけていた。授業が終わり、みんなで教室を清掃し、級長として清掃が終わったことを職員室の先生のところへ報告に行ったときは、直立不動の軍隊式で、さっと右手で敬礼し『三年一組の守屋です。清掃が終わりました!』というふうだった。
 生家は『天心堂」という煎餅の製造兼お菓子の小売業で、父親がせんべいを焼き、母親が表の店舗でいろんなお菓子を販売していた。しかし戦争がはげしくなるにつれてお菓子の材料が入らなくなり、店は廃業し、父は岡山兵器廠へ軍属として勤めるようになった。
 そして私が9歳4年生の1945年6月29日、岡山大空襲に遭った。幸い家族6人は全員無事だったが、家はまる焼けとなり、着の身着のままの姿で母の実家・備中高松へ疎開した。それでもラジオ「鬼畜米英撃滅」と放送し、神風が吹いて、神国日本は必ず勝利すると、僕は信じていた。
◆新憲法の下で生きてきたこの九条を大切にしたい
 そして8月15日、日本は敗北した。学校の名前が国民学校から小学校に変り、教科書の半分以上のページに大きなバツ印を付けるよう先生から指導された。翌年、日本国憲法が公布され、先生から『日本は、今後決して戦争しない国になったのだ。永世中立のスイスを見習って、日本は東洋のスイスになるのだ』と教えられ安心した。新憲法第九条のことだった。『新しい憲法 明るい生活」という冊子が日本の全所帯に配られ、その表紙には、戦車や戦闘機や軍艦が釜茄でにされ、その下から電車、汽船蓮消防車、鉄塔、ビルディングが湧き出してくる絵が載っていた。成長して世の中の仕組みや現代史を学び、明治以来、日本の富国強兵の軍国主義教育がどんなに恐ろしいものであるかを知った。純真無垢な子どもを軍国少年に仕立て上げる。こんなことを二度と許してはならない。日本軍国主義が指導した1930年からの15年戦争で日本はアジア、大洋州の国々を侵略し、2,000万人以上の人々をあやめ、日本人310万人が犠牲になった。その教訓から日本国憲法第九条が生まれたのである。世界に誇るこの第九条は絶対に変えてはならないと思うー。
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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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