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社会党閣僚で唯一叙勲を断った伊藤茂さん

社会党閣僚で唯一叙勲を断った伊藤茂さん 17・6・18
 自社さ政権やその前の細川連立政権で閣僚経験者は、ほとんどが岩垂議員と大同小異の理屈をつけて勲一等の叙勲に預かった。野坂浩賢建設大臣のごときは市民団体の「もっと議論を」の声を無視して1995年5月に長良川河口堰の運用を宣言。当時は産経新聞を除くすべてのマスコミが「世紀の愚行」と批判した。長良川河口堰建設をやめさせる市民会議の天野礼子は「野坂は党と自分への建設業界からの金と票に目がくらんで運用を宣言した」と著書のなかで述べている(「巨大な愚 行」風媒社刊)。しかも野坂氏は勲一等を貰うと自ら胸像を鳥取市内に建てるということまでやってのけた。民主党政権の閣僚では、あれだけの愚かな政権運営でマニフェストをことごとく裏切った閣僚立で、右も左も叙勲を断った閣僚はいない。
 しかし、社会党出身の閣僚経験者で唯一叙勲を断った人がいた。1973年の細川連立政権で運輸大臣を務めた伊藤茂さんである。私は数年前、三宅坂の社会党本部が解体されるということになったころ、社会党関係者のOBの集まりで直接伊藤さんに話を聞いて確かめた。伊藤さんは言った.「社会党がこんなザマになって勲章を貰うなんてできないですよ」。あの惨憺たる、細川連立政権から、自社さ政権に至る1993年から95年に至る社会党の崩壊消滅の過程ははなんだったのか。究極のところは護憲の党は、改憲の党自民党を政権に復帰させる役割を果たしただけであった。伊藤さんはそれを「恥」として認識していた、ただ一人の閣僚経験者だった。性格的には寛容で時には物足りなさを感じることもあったが、彼の一言に敬意を表したくなった。
 私は伊藤さんに、私のブログ「老人はゆく」に唯一叙勲を断った閣僚として書きたいと了承を得ていた。しかし伊藤さんは昨年の9月病没された。約束を果たす前に亡くなったのである。当時の新聞には、衆院議員を8期務め、細川連立政権の運輸相や社民党幹事長を歴任した。伊藤茂(いとう・しげる)氏が11日、病気のため死去した。88歳。山形県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行ったとあった。私は1955年9月に当時の港区桜川町の左派社会党青年部の専従事務局長となった。しかし翌月には左右社会党統一で三宅坂の旧社会党本部に勤務することになった。伊藤さんは当時すでに党本部の政策審議会の書記などを経て、1960年代にソ連の核実験に対する評価をめぐって日本の原水禁運動が分裂した際の、党国民運動事務局長だった。東北の山形県出身で、温厚な人柄で知られた。
 同じころ総評の国民運動担当の書記だったのが岩垂数寄男氏である。相前後して神奈川県で代議士となったが、それぞれ細川、村山政権で閣僚を務めた。伊藤さんは陸軍士官学校卒業後に終戦を迎えた。東大経済学部を卒業後、旧社会党本部書記局に入り、1976年に旧神奈川1区から衆院議員に初当選。政審会長、副委員長を経て、93年に政権交代した細川連立内閣の運輸相を務めた。総評出身の最左派岩垂数寄男氏は勲一等叙勲を「もらいたくなかったが支持者がもらえというもんで」と弁解しつつもらった。人間の出所進退はむつかしいが叙勲一つでその価値がわかる。
 2013年に伊藤茂さんから届いたメールに亡妻を偲ぶ句が書かれていた。「お彼岸の中日。昨日は亡き妻の墓参り。今日は静かな日を過ごしています。いくつかの駄句。お笑いください」とあった。合掌
 遺影ゆらと物言いたげな春の朝
 彼岸入り妻のお墓でひとりごと
 妻恋いの在宅写経梅一輪
 十ほどは若いといわれ春を待つ
 咲いて散るあと幾たびの春を見む


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徘徊老人

Author:徘徊老人
88歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
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路上公園などの観察、
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読書、眠り薬になること多し

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