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62年前の新潟米軍飛行場拡張反対闘争を訪ねる 

62年前の新潟米軍飛行場拡張反対闘争を訪ねる 18・1・16
 1月9・10の両日、メールマガジン・オルタ編集長の加藤宣幸さんと二人、雪の新潟に出かけることにした。目的は、新潟県の野党共闘の世話役の一人である、新潟市議会議員の中山均さん(緑の党グリーンズジャパン共同代表)の話を聞くためである。9日の午後新潟市議会の控室にお訪ねした。新潟県の2016年7月の参院選の森ゆうこ氏の2700票差の勝利を契機として、市民と野党の共闘で、同年10月の米山知事の6万1,000差の勝利、そして2017年10月総選挙における6選挙区中4選挙区での市民と野党共闘の勝利の内実について、共闘の仕掛け人の一人であり、政策担当者としても活躍した山中さんの話をじっくり聞くことが出来た。
 1月10日午後には、今回の新潟行きの主目的である62年前の新潟米軍基地反対闘争に関連する話を聞いくために、かつて新潟県総評の事務局長を務めた風間作一郎さんにお会いした。62年前の新潟米軍基地反対闘争に関連する話を聞いた。風間さんは当時、全日通労組に所属していた。反対期成同盟の箱岩事務局長(県労協事務局長)は1956年8月15日急逝されたことは知っていた。砂川闘争の現場や、全国基地連等の集会で顔なじみだった保科事務局次長は、日農出身だったが、新潟闘争後は新潟県総評のオルグとなり、米軍拡張予定地内の女性と結婚、一児をもうけたが若くして交通事故で急死されたという
風間さんの話で面白かったのは、農民は米5合、労組員は50円の拠出によって購入された宣伝カー「平和号」の話だ。平和号は新潟の反対闘争の仲間を載せて、砂川現地に行ったり、第二回、第三回原水禁大会に参加した。ところが宣伝カーの運転は大型免許が必要となる。そこで全日通労働組合の風間さんが運転手を務めることになった。それがきっかけとなって、社会党の党員となり、今なお新潟社民党の党員として生き残っている。
 風間さんは1970年代、新潟県総評の事務局長となり、当時の新潟水俣病、そして新潟柏崎原発反対運動に直接かかわった。当時の新潟県総評の議長宮下幸治氏とは、かつて70年代の初めに私が公害問題研究会を発足させたころ『月刊労働問題』誌上で、公害問題と労働運動なるテーマで座談会をやったことがあった。宮下氏は全逓出身だったが、物腰の柔らかい頭のいい人だった。風間さんは彼と組んで、新潟水俣病や柏崎原発反対闘争の労組員カンパなどで苦楽を共にされた由である。とうてい1回の話だけでは無理だと思った。そこで春になれば、もう一度伺って話を聞くことにした。
 新潟県立図書館に行って、資料担当の方に、新潟飛行場反対闘争の資料検索をお願いした。当時は翌日開票があり、北村大勝を報じた新潟日報は21万票差の大見出しだった。しかし最終的には差は25万8,000票だったことが判明した。この大勝が支えとなり、新潟米軍飛行場拡張反対闘争は、野党の社会党や県労協、日農などが担いだ北村知事を先頭に、1955年の砂川闘争と同じ時期に始り、1958年3月、米軍の撤退により完全勝利を勝ち取った。
 しかし大きな課題が見つかった。その一つは、戦後の米軍基地反対闘争のなかで、県知事を先頭に一糸乱れず全県民的反対運動によって、完璧に米軍基地の拡張を阻止した唯一新潟の反対闘争の記録は県政史料のなかに残っていない。新潟県の県史における新潟米軍飛行場反対運動の抹殺はなにかという疑念をぬぐうことが出来ない。今年は新潟にときどき出かけて、老年の最後の仕事として新潟飛行場完全勝利の62年前の実相を追究してみたくなった。
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お帰りなさい。私はまだアルゼンチンで活動中です。新潟取材、ぜひ継続してください。これは徘徊さんしかできない活動です。隠ぺいの成り行き、戦いの真相など私は知りたいです。あと、1カ月少々で日本の土を踏めます。生き続けることは苦しいこともあるけど、寿命があるあいだは、目的意識的に行動したいですね。徘徊さんのようなお手本がある私は幸せです。
ようこそ!「老人はゆく」へ
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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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