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タンプリン博士と初期日本の反原発運動

タンプリン博士と初期日本の反原発運動 18・5・24
仲井富 2012・1・9 地域社会研究会へのメモ

◆東京の市民運動とタンプリン博士・高木仁三郎氏の出会い 
 日本国内における反原発運動は、当初は福島、福井、新潟など1070年代初めから原発立地地域の現地における反対運動が主流だった。これが都市住民の反対運動にひろがったのは1975年のタンプリン博士来日を契機として「原子力と人類は共存できない」というタンプリン博士ら米国の反核、反原発の専門家による指摘が最も大きい。タンプリン博士を招いた東京の集会は、75年6月7日、東京で初の反原発市民集会、タンプリン博士は「人類は原発と共存できない」と講演した。つづいて京都市で同年の8月24-26日日本初の反原発全国集会が開かれた。その頃には全国で原発計画に対抗する住民運動が活発に活動し始めており、それら各地の運動の全国的な連携のためにこの集会が開かれた。それを中心的に準備したのは、女川、(宮城)柏崎(新潟)熊野(三重)浜坂(兵庫)伊方(愛媛)川内(鹿児島)などの住民団体だった。
高木仁三郎氏も、このころから反原発運動の理論的指導者として登場してくる。高木氏は2000年10月9日に、肝臓がんで62歳の若さで死去するが、その遺著となった自伝的著書「市民科学者として生きる」(1999年9月刊行 岩波新書)のなかで当時の模様を以下のように記している。
―1974ごろから私は、反原発の東京の市民運動などの集まりに顔を出すようになっていた。特に日本消費者連盟、公害問題研究会、一人一人が原子力の恐ろしさを考える会、原水禁国民会議などが中心となって、タンプリンを日本に呼ぼうということになり、そのための会合が、四谷の緑林館という事務所(仲井富氏が主宰)で何回か開かれ、それに顔を出したのを覚えている。…この頃に私は、原子力に批判的な研究者という立場から、反原発市民運動の活動家という立場へと踏み込んでいた。ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた。
―●タンプリン博士、緑林館を訪問 (緑林館通信75・6)
 5月の連休明けからは反原発市民連絡会議(反原連)の準備会事務局を緑林館に置くこととなった。おかげでこの1か月間は6月7日の反原発市民大会を中心とした一連の行事に忙殺されてしまった。各地の皆さんの問合せや、相談事に充分おこたえできなかったのはそのためである。ここにお詫びしておきます。
 反原連の招きで来日したタンプリン博士が6月2日の夜、松岡信夫さんらに案内されて緑林館に立ち寄られた。渡辺文学、高木仁三郎、宮島郁子などの各氏とささやかな招宴をひらいた。タンプリン博士はサントリーのダルマを愛好し、「駅弁がたべたい」などとおっしゃるほどに和食が好きである。二度の来日にしてはまことに器用な手つきで箸を使って刺身や、にぎり寿司を賞味される。気さくな野人的学者である。
 ある夜、野党国会議員団との対談を終えて渡辺文学氏の車で送る途中、タンプリン博士は「私は離婚していま独身である」といったのにたいして、渡辺文学氏「われわれも常に離婚寸前までは行くのだけれど・・・」タンプリン氏曰く「あなた方はおそらく奥さんから追い出される方であろう」われわれ一同期せずして「同感」。タンプリン博士の考え方は、「原発は人類の能力を超えており、これとの共存はあり得ない。化石燃料の節約こそもっとも有効なエネルギー政策である。」ということにつきる。私はこれにも同感である。

◆東京の市民運動が原発反対運動に取り組む契機 住民ひろばと緑林館
73年3・1・29 草の根消費者運動が石油タンパク禁止の申し立て厚生省に提出、
2・11 大日本石油、鍾渕化学など企業化中止表明、禁止を勝ち取る。
3・24 第二回反火力全国連絡会、銚子市で開く、松下竜一、宇治田一也、橘進と会う
6・22 渋谷に「住民ひろば」発足。発起人会、助川、宮崎、小手川、西村、正木、松本文、川本、東京から野村、大高、横山、渡辺ら、ひろば使用料100円
74・4・20、獲られたものを取り返す消費者の会発足、
74・5 緑林館が四谷に発足、 9・9獲られたものを取り返す消費者の会、原告70名石油六社を相手に石油集団訴訟を提訴。以上のような消費者運動の新しい波が、「一人一人が原子力の恐ろしさを考える会」へと発展した。
75・6・7 東京で反原発市民集会、タンプリン博士による「原子力と人類は共存できない」講演会開催、
 以上のような経緯を踏まえて、高木仁三郎氏らを中心に75年の9月に、神田司町に無給の高木氏が専従として、原子力資料情報室がスタートした。
78・5『はんげんぱつ新聞』創刊、2008年で満40年を迎えた。高木氏とともに原子力資料情報室を担ってきた西尾獏氏は「人間でいえば不惑の年を迎えんとしている。再稼働の道を断つ本格的廃炉の時代が始まる。原発のない社会を創り出す一助になれと、月刊4頁の小さな新聞の不朽の40年」と2018年の年賀状に書いた。スリーマイル島事故の一年前に発刊されたのである。これが今日まで、原発問題の中心的役割を果たすことになる。

◆タンプリン博士を最初に招いた原水禁国民会議
 タンプリンと日本の市民運動との出会いは1975年だが、それに先立つ1973年に原水禁国民会議が、タンプリン博士を招いている。これは当時の原水禁国民会議の森滝森滝一郎代表に寄れば以下のような経緯があった。
―被爆二十七周年大会(一九七二年)で「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再代表の処理工場設置に反対しよう」というスローガンを掲げた。国内では、とくに原発設置反対の現地の住民運動があちこちに起こり、それを横につなぐ全国連絡会議の必要が起こり、「情報センター」の必要性も起こり、学者・専門家の助言・協力の必要性も切実に起こっていた。原水禁国民会議は、そんな必要性に対応する態勢をこの年あたりから取りはじめていた。
 この年の国際会議(一九七二年)には、前年から予約していたゴフマン教授は身辺の都合で出席できなくなったが、入念なレポートを送ってくれたし、日本側からは辻一彦参院議員が「わが国における原子力発電所の問題点」という詳しい報告をした。とくに忘れがたいのは、この年のコルビー女史の発言であった。そのなかでコルビー女史は言った。「過去において成功とは、核兵器の全面的かつ恒久的な廃絶を究極的になしとげることを意味しました。今日、成功とは、戦時、平和時を問わず原子力が使われることによって生ずるすべての放射能の廃棄をめざして成果をあげることを意味しております」と。軍事利用、平和利用ともに否定すべき方向を提唱したのである。そして「危機に陥っている惑星の市民として暗闇の谷間から真実の進歩の高原に通じる道を示さなければなりません。そのときこそ私たちは、原子力がもはや『人類の輝かしい夢』ではなく、むしろ悪夢であることに気づくでありましょう」と結んだ。コルビー女史が原水禁国民会議の「核絶対否定」に深く共鳴し、一貫して支持・協力する理由がここにある。
 翌年、被爆二十八周年(一九七三年)の原水禁大会には、ゴフマン博士に代ってその盟友アーサー・タンプリン博士が来日した。博士は単に国際会議に出席するだけでなく、その前に一週間ばかり、日本各地の原発設置個所を精力的に視察したり住民運動と交流したりした。そして、国際会議では、タンプリン博士の特別講演が重要な内容となった。それ以後、この講演は、わが国の原発反対運動の基本理論を構築していく出発点ともなった。
 私は、心ある人びとに、いまの時点でのあの講演(被爆二十八周年大会報告決定集の付録資料)をもう一度あらためてじっくりと読みかえしていただきたい。ここで博士は、「原子炉は、いまだかつて人類が経験したことのないような大事故の可能性をもっている」とし、炉心溶解による大量の放射能流出を語る。そして、この種の事故を防ぐものとしての緊急炉心冷却装置(ECCS)も、その実験はまだすんでいないことを語る。
 さらに、博士が力説したのは原子炉が大量につくりだす放射性物質の問題、放射性廃棄物の究極的処理の未解決の問題、最後に、最大の問題としてプルトニウムの軍事転用と核拡散の問題はもとより、その絶望的な猛毒性の問題、その管理のために私たちの子孫が永久的にこうむる重圧の問題-。原発反対の基本論理は、ほとんど解き尽くされたのである。 なお、博士は最後にミクロネシアのロンゲラップ、ウトリックの島の住民の問題にふれ「放射能は、いまなおこれらの島に残っている」と警告した。―
◆田原総一朗の『原子力戦争』の衝撃(1977年1月 講談社文庫)
東京に原発をと言った三人 (ブログ「老人はゆく」2011・4・15)
 福島原発事故は、二重の意味で罪が重い。ひとつはこの原発の恩恵に浴していたのは、3300万人の首都圏の人々であり、原発事故にあった地域は、東北電力管内であった。さらに問題となっている避難地域の南相馬市や飯館村は、原発立地関係町村ではなく、一円の交付金ももらっていない。そういう地域の人々が、放射能汚染という一方的な暴力で、田んぼを奪われ、牛飼いの手段を喪い、工場を失うと言う悲惨な状況に追い込まれた。政府の対策も、これらの市町村の原発難民に細かい配慮をしているとは思えない。怒りが出てくるのは当然だ。
 東京では、石原老害知事が相変わらず、原発必要論を至極当然のように語っている。石原知事はかつて「東京湾に原発をつくってもいい」と公然と発言している。2000年4月26日、有楽町にある東京フォーラムで開かれた日本原子力産業年次大会で以下のように講演した。「私は完璧な管理が行われるのであれば東京湾に立派な原子力発電所を作ってもよいと思います。また日本にはそれだけの管理能力がある、技術があると思っておりますし、その技術が改善されていく余地があると思っております。それくらい冷静な認識を持たないと、何でも反対ということで禍根を残すことになります」。
 これより前の1981年に作家の広瀬隆が「原発が安全というならば、長大な送電線建設コストのかかる地方ではなく、電力の大消費地である首都圏に原子力発電所を建設してはどうか」と指摘した『東京に原発を!』(JICC出版局)原発賛成と反対で立場は違うが、東京に原発をということを、明確に言ったのはこの二人だ。
 だが「安全なら東京に原発を作れ」と言ったのは、もっと以前から、原発反対運動の声として存在していた。今日では原発問題の古典となった、田原総一朗の『原子力戦争』(講談社文庫)に女川原発に反対する漁師多賀井公平の言葉を載せている。「だいたい電気を使うのは東京なんだよ。おれたちは電気なんて大していらないんだ。夜は早く寝るし、クーラーも入れないしよ。東京の電気は東京で作ってくれよ。女川や柏崎や下北を犠牲にするのは、それはよくないぜ。そういうのを差別とか搾取っていうんだだろう。原子力はクリーンで安全なんだろう。霞ヶ関とか皇居で10年20年とか発電してみてよ。それで具合いいようだったらおれたちも考へてみるからよ」(1975年「住民とりで」)いまとなっては、三人のうちもっとも先見性を持った発言をしているのは、女川の漁師だったということになる。(注 「住民とりで」とは 「住民ひろば」のこと)
 田原総一朗氏の「原子力戦争」は雑誌「展望」1976年1月号から4期にわたって連載された。この前年の1975年に田原氏が「緑林館」に現れて、住民運動の話を聞きたいということで、数時間ぶっ通しで取材を受けた。初対面なのにまことに図々しいというかしつこいというか、そのあくなき徹底した取材姿勢に感嘆した。その時に当時生まれたばかりの、一人一人が原子力の恐ろしさ考える会の女性たちのたまり場になっている「住民ひろば」を紹介した。前記の女川の漁師の話は、住民ひろば の取材によって本書に書かれたものである。その田原氏が今日では、原子力側の㏚集会の講師となり、青森の反対派からの公開請求で百万円余の講演料を受け取っていることが明らかにされている。しかし『原子力戦争』は今日あるをすべて予言している点において「原発問題の古典」としての価値は変わらない。高木氏もこの時初めて、田原氏と出会って助言している。
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安倍が安泰な理由

いつも玉稿を有難うございます。
1960年代から1970年代は私も、近くは徳島県の蒲生田岬原発反対闘争、全国的には広島水禁大会、安保反対闘争、三井三池闘争、等々に、全逓(今の若者には読めないのでは)、全電通の活動家として有給休暇を使い果たしていました。反戦青年委員会の仲間など何万人もの若者が全国を走り回っていました。今は上記は全て死語となっています。今の若者はスマホばかり覗いているので、嘘つき病の安倍も安泰なのです。18-05-25藤田 恵

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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