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無名戦士墓苑で敗戦日を思う 

無名戦士墓苑で敗戦日を思う 18・8・17
 一昨日8月15日、騒音の靖国神社に参拝することはやめて、毎年、千鳥ヶ淵の無名戦士墓苑に参詣する。今年も午後4時ごろ墓苑に向かった。千鳥ヶ淵は涼しい秋の風という感じで、快く参詣を終えた。百日紅の花と、白百合の花が咲いてゐた。8月15日は、戦中世代にとって様々な感懐を呼び起こす日だ。徘徊の敗戦日は岡山県の山里の小学校で天皇の言葉を聞いた。ラジオが悪いのか天皇の声はかすれがちで聞き取りにくかったが、戦争に敗けたことは判った。あれ以来昭和天皇が嫌いになった。
 敗戦を聞いて、12歳の少年は恐怖に震えた。それは、大人たちから、戦争に敗けると鬼畜米英の兵士たちは、男は睾丸(きんたま)を抜かれ、女は鬼に強姦されると聞いていたからだ。その前の週には広島に原爆が落とされた。詳報はなかったがピカドンという爆弾が落ちて大変なことになっているという風評は聴いていた。当時のマスコミは政府の広報紙だったから、あの大被害を全く報道しなかった。
 替って大本営発表1945年8月7日15時30分の「広島に新型爆弾」という見出しで状況はわずかに分かった。これによると①咋8月6日広島市は敵B29小数機の攻撃により相当の被害を生じたり。②敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり。そして以下のような報道が続く。広島市の戦災地を視察して8日帰着した中部軍管区司令部の赤塚中佐は「新型爆弾決して恐るるに足らず、として次のように語った」と冒頭して、従来の教訓を徹底すれば十分これに対抗し得るということだ、などと報告させている。あっという間に広島市を破壊し、被害者が川に流れている状況を無視した、恐るべき大本営発表だった。
 我々は、こういう嘘と誇大妄想で固められた東条以下の大本営発表で、勝った、勝った、負けても勝ったという宣伝を信じて、ついに320万人の戦争犠牲者を出すまで、戦争を継続し、広島、長崎への原爆投下とソ連参戦でようやく戦争終結、敗戦日をむかえたのである。12歳の少年は、敗戦後大人たちや政府の言うことを信じなくなった。以降は自分の目で確かめたことだけを信じる。敗戦後の学校の教師が、教科書に墨を塗って、平然と平和教育に転換した。口舌の徒である政治家や、学者、評論家は信じないということを身につけて行った。
 敗戦の年の4月20日には、六人の子供を残して母政子が数え年38歳で、肺炎のため短い生涯を終えた。そして8月15日の敗戦、母方の祖父母は、長男敏継をシナ事変で失った。次女は結核で早世。長女の母は死亡。唯一の希望は南方に参戦した叔父茂のみだった。しかし年明けて間もなく叔父茂は南方ブーゲンビル島で、敗戦前日の8月14日飢え死にしていたことが分かった。当時60代半ばの祖母はその夜狂った。ワアーという声にならない声を上げて雪深い山里の道を走り出したのだ。あの祖母の獣のような悲痛な叫びはいまなお86歳の耳朶に残る。祖父母たちはその後12年生きた。1957年相次いでこの世を去った。祖母は祖父の死後病を得て、自ら命を絶ったと聞いた。私が砂川基地反対闘争に現地オルグとして参加していた1957年秋24歳のころだ。
   敗戦日飢えて死にたる叔父ひとり  返らざる骨120万敗戦忌

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辛いお話ですね。徘徊さんの祖父母親兄弟、皆さん戦争に痛めつけられた。徘徊さんも。でも、残された者は力強く生きようとした。杖をつきながらも徘徊さんの足腰は力強い。それは心の強さでもある。今は例えるなら、不安と言う水槽に無気力に浮かんでいる人が何と多いことか。
ようこそ!「老人はゆく」へ
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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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