山村の軍国少年が経験した戦争

山村の軍国少年が経験した戦争 17・8・18
●叔父茂のブーゲンビル島からの葉書
 戦争が終わったときは12歳だった。72年前の話である。山村の軍国少年の戦争体験は、外地から引き揚げてきた人々や、都会で空襲を受けた方々の地獄絵図のような体験からみると大したことではない。それでもいま思い返すと、片田舎の山村でも生死というもは日常茶飯事だった。支那事変から太平洋戦争にかけてたくさんの屈強な若者が召集された。私の父方の叔父1人、母方の叔父兄弟も召集されて出て行った。父方の叔父は無事に帰ってきたが、母方の叔父兄弟は2人とも帰って来なかった。兄の方の敏継叔父が北支那で戦病死したのは昭和14年。当時、小学校1年生だった私の記憶では、白木の箱に収まった遺骨を囲んで、親戚一同が声をあげて泣いていたことくらいである。弟の茂叔父は、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年に召集された。いつものように村境の峠まで村の人々とともに送って行った。「天皇のために戦って来い」という激励はあったが「生きて帰って来い」ということばはなかった。私は小説を読む楽しさを教えてくれた叔父が好きだった。その叔父が最後に脇を向いて涙をぬぐっていたのを今でも思い出す。“忠勇無双のわが兵”としては見せてはならぬものといわれていたが、あの涙は子ども心にも悲しかった。
母方の祖父母は我が家の隣に住んでおり、祖父は炭焼きなど山仕事で生計を立てていた。茂叔父も召集までは一緒に炭焼きに山へ通う日々だった。時々届く葉書が祖父母の唯一の頼りだった。いまでもはっきり覚えているが、「南方派遣沖6094部隊浜野隊4班 上畑茂」と書いてあった。あるとき色鉛筆で炭焼き小屋を描いた葉書が来た。そこには「炭を焼く老爺の肩に白き雪」とあった。赤道直下の炎熱のジャングルで、どんなにか雪降る故郷は恋しかったろう、と今にして思う。
●母の死、敗戦、叔父の死と祖母の狂気
 昭和20年は、私の人生にとっても、祖父母にとっても忘れ難い年となった。祖父母は子どもとの縁薄く、すでに長男は戦病死、次女は嫁入り先で病死していた。残されたのは長女である私の母と茂叔父だけだった。まず子ども6人を生んで病気一つしたことがなかった私の母が風邪をこじらせて半年間病臥して20年の4月に亡くなった。そして8月の敗戦である。軍国少年のわたしは茫然自失、涙も出なかった。人は悲しみ極まると涙も出ないものだと知った。まして鬼畜米英に負けると女は強姦され、男は金玉を抜くといわれていた。それを信じていたから絶望と恐怖におびえた。
 負け戦を玉砕といってたたえ、戦線を後退するごとに撤退という言葉でごまかした。最後は特攻精神で「一億玉砕」「進め一億火の玉だ」と小学生まで竹やり訓練の日々だった。敗戦間近かのころである。廃品回収に子どもたちがグループで回っていた。親戚の30代の男性が肺結核で1人で静養していた。そこえへお願いに行ったとき「お前らまだこんな莫迦なことをしているのか。この戦争は負けるに決まっているんだ」と罵られた。軍国少年の私はこの男性を「非国民」と激しく憎んだ。
 敗戦を契機に、村には復員軍人、軍属などが帰郷して賑やかになってきた。徴用工として呉市にいた私の長兄、少年兵として加古川市にいた次兄も帰ってきた。食べ物はなくそれこそさつま芋の葉っぱまで食べる日々だった。しかし南方派遣の茂叔父の消息はまったく途絶えていた。祖母は毎日、庭先に出てなにかを待っていた。というより待ちわびていた。年を越えた冬のある日、茂叔父の戦友という人が訪ねてきてた。叔父は敗戦前日の昭和30年8月14四日、ブーゲンビル島で栄養失調のため死亡した、という。白木の箱ではなく粗末な入れ物のなかには茂叔父の紙一枚で骨はなかった。。その夜、祖母は狂った。「わあー」というような叫び声をあげて裸足のまま雪の夜道に走り出た。あのなんとも形容し難い悲痛な「咆哮」は72年後のいまも耳朶に残る。最後の望みであった茂叔父の死によって、祖父母は4人の子どもすべてを失った。
●戦争責任をうやむやにした大人の世代
 戦争に万歳を叫んで、天皇のために死ねと叫んだ大人や先生方は見事に変身した。なんのためらいもなく教科書に墨を塗らせ、鬼畜米英転じて平和と民主主義礼賛になった。天皇は人間となり、新たに全国を回った。それを歓呼の声で迎える大人たち。あの違和感はいまでもぬぐえない。食料難のなかで謹厳極まりない怖い校長先生が、父兄からの食物の差し入れに見せた卑しい笑顔を垣間見た。絶望と落胆、人間不信、そしてどん底の中でこそ芽生える「希望」のようなものをこの一年間で存分に味わった。
 やがて軍国少年も人並みに平和少年に転身する。米英憎悪から、戦争指導者への憎悪に変った。だがそれでよかったのかと、いまにして思う。日本人全体が、どこかで決着をつけるべき事柄を、あいまいにしたまま戦後の平和と繁栄を貪り続けてきたのではないか。歓呼の声で若者を戦場に送り出した民衆の責任、また戦場に行った模範青年たちがやむなくかあるいは自発的にか冒した殺人や強姦、略奪の責任、そういうものすべてに口をぬぐって生きてきた。それは「戦犯」にのみに押し付けてすむ問題ではなかったはずである。決着をつけないままの戦後72年が今日の改憲、靖国、自衛隊問題に噴出していると思う。その意味で私はいま80代以上の戦争体験者の「戦後責任」は重いと思う。
●戦後12年後他界した祖父そして自殺した祖母
 祖父母は黙々として、世間へのかかわりすら避けるように生きた。戦後、すべての家庭に電灯が灯るようになった。私はラジオで聞く世界の広がりに歓喜したが、祖母は頑なに電灯をつけることを拒んだ。苦しんで死んだ息子を思えば、そんな現世的な楽はできないというのだった。私たち6人の孫は、頑固な祖父母を顧みることなく、前を向いてそれぞれ東京へ、北海道へ、あるいは京阪へと散っていった。私は昭和30年に東京に出た。32年春に結婚して父や祖父母と会いに帰った。それが最後である。その年7月、祖父上畑太平治78才で病死。追うように11月、祖母きしのが75才で死去。父から祖母は自殺と伝えられた。
  叔父の骨いまだ帰らず敗戦忌 漫歩

横浜市民カジノ反対が61.5%、

横浜市民カジノ反対が61.5%、賛成が16.3% 17・8・14
 民進党の江田憲司氏が「今週の直言」でカジノ誘致は加計学園と同じ構図!・・・横浜市長選でわかったカジノ反対の民意 という書いている。(2017年8月 9日)横浜市長選挙の出口調査でカジノ反対が6割を超えたと要旨以下のように述べている。
 ー私が横浜市長選にめずらしくこだわった理由。それは横浜へのカジノ誘致に断固反対するためだった。 地元神奈川新聞(市長選出口調査/2227人回答)によると、カジノ反対が61.5%、賛成が16.3%。男女別に見ると、男性では反対が56.9%、賛成が24.2%。女性では反対が66.1%、賛成が8.1%。年代別では賛成(24.6%)が一番多い30代でも反対が52.4%。60代では賛成(10.4%)が一番少なく、反対が71.6%だった。
 ちなみに、そんなカジノ実施法を、安倍政権は今秋の臨時国会で成立させようとしているのだが、その自民党支持層に限っても、賛成が29.8%、反対が44.4%となった。こうした中、政府の「IR整備推進本部」は、8月1日、カジノを含むIR(統合型リゾート)の運営ルールに関する報告書を安倍首相に提出した。これが「曲者」で、その内容が極めて意図的であることを国民やメディアは早く気付いてほしい。安倍官邸は性懲りもなく、あの加計学園と同じ構図で事を進めようとしているのだ。
 その誘致のルール・基準に、国際会議場、展示場、ホテルなど計5施設を備えることを条件としたのだ。特に「国際会議場の併設」を義務づけ、かつ、カジノ設置数も当初は2~3という上限を定めることで、獣医学部新設で加計学園しか通れない「穴」をあけたように、カジノについては横浜と大阪しか通れない「穴」をあけようとしているのだ。その証拠に、この5月、こうした政府の動きをいち早く察知した和歌山県知事が抗議の会見を開いた。そう、カジノ誘致に熱心な地方で、ペイする(稼働日数を確保できる)国際会議場を設けるのは至難の技で、これでは地方にカジノは誘致できないとルールの見直しを求めたのだ。
 和歌山県は市南部の人工島「和歌山マリーナシティ」へのIR誘致を進めてきたが、知事は「地方創生の観点が抜け落ちている」「地方都市でその要件を満たすことは極めて困難」と指摘。こうした施設を国際会議の需要が少ない和歌山で維持していくことは現実的に難しいことが最大の理由である。
◆安倍政権の盟友維新の会との結託によるカジノ誘致作戦
 それでは、なぜ、横浜と大阪なのか。それは昨年末、カジノ解禁法案を強行成立させた背景を探ればわかる。強権的な国会運営は安倍政権の常とう手段とは言え、この法案の場合はさらに異常な手続きが踏まれたのだ。そう、当時、与党の公明党まで置き去りにして、安倍官邸と今や盟友関係となった大阪維新の会とが手を組んで強行したのだ。本法案について、公明党に公党としての意思決定の暇(いとま)も与えないままに。こんなことは従来の国会運営の常識では考えられないことだろう。結果、山口代表も井上幹事長もカジノ解禁法案に反対票を投じた。
 さて、いよいよ現実味を帯びていたカジノ誘致。3選された林横浜市長はどう対処するのだろうか?菅官房長官のおひざ元で、カジノを誘致しないという決断はできるのか?横浜の商工会議所もこぞって誘致推進だ。そこには大きなお金が落ち、利権も絡んでくるからだ。 林横浜市長は選挙戦を通じて「カジノ誘致の是非は、議会や市民の意見を尊重して決める」と言ってきた。にもかかわらず、この市長選で出た明確な「カジノ反対」という民意を踏みにじってカジノを強行するならば、私は、リコール運動を含め、あらゆる手段を講じて阻止していく決意である。ー


漫歩俳句遊び 風鈴会定例会欠席 

漫歩俳句遊び 風鈴会定例会欠席 17・8・9
 今月の風鈴会定例句会は、所用のため欠席、投句のみの参加とした。漫歩の投句7句は以下の通り。〇は規子先生の選句、▽は句友の選句である。事務局の加藤房子さんより連絡あり。次回は9月1日金曜日、兼題は夜食、蜻蛉
  蝉時雨ひときは高き松林〇
  雨上がる露天のお湯に朝の虹▽
  病むひとの笑顔弾けし朝の虹▽
  夏風邪や痰きり地蔵にお賽銭▽
  駐車場に舞ふ子燕の嬉しくて
  山間のお湯に老鶯声清し
  平和とは田圃に蛍蛙鳴く
 さらに、来月の句会までに過去一年間の選句のなかから、15句を選んで提出されたいとのこと。毎年12月の、定期的に出している風鈴会の句集編纂のためである。今更ながら、一年の短さに唖然とする。以下にこの一年間の選句及び自分の好きな句を選び出してみた。
  清楚とはかくの如きか利休梅
  桜蕊降る母逝きて七十年
  同病を相憐れみて老いの春
  蓮華草咲けど寂しき休耕田
  とんび風に乗りて悠々湖の春
  読書する女が一人花の昼
  断捨離の念切々と春に病む
  ひそやかに柳青めり田安門
  手袋の握手なにかが欠けてゐる
  友逝くや夜のマンション冴え返る
  夢に出る友みな若き春立ちぬ
  生きてゐることは愉しと寒雀
  古里の唯一の賀状のぼる君
  自由とはかくの如きか枯れけやき
  懐かしき人の夢見し老いの春
  ポケットのキイ冷え冷えと寒の入り
  寒暁や声なく飛べり烏二羽
  人肌の恋ひしき夜や寒波来る
  一人居の豆腐半丁根深汁
  忘じ難く候十二月開戦日
  手も足もこころも温き柚子湯かな
  ここに生き杖曳く幸よ小六月
  大根を漬けて古里静もれり
  小鳥くる露天のお湯に一人ゐる
  木枯しに背中押されて坂上がる
  おい生きてゐるかと電話台風禍
  模様替えしてスッキリと秋立ちぬ
  待ちわびし人は来たらず雁帰来
  新涼や生きていたのとハイタッチ
  蜩や別れの言葉なく逝けり
  蜩や古里遠くなりにけり
  留守電につつがなきやと秋の風

夏の東京五輪不安が圧倒的 Yahoo調査

夏の東京五輪不安が圧倒的 Yahoo調査 17・8・5
 徘徊老人は、もともと東京オリンピック反対論者だ。大国のメダル獲得の場と化した、オリンピックなどとっくに、本来の意義と意味を失った。こんなものに物とカネをつぎ込むのは利権屋とその手下どもだと思って居る。最近ネット上などで知ったことだが、同じように東京五輪への反対と不信は意外に深く広い。「Yahoo!ニュースの意識調査調べでこのことが証明されている。Yahooによると、2020年東京五輪の開幕まであと3年。東京五輪への期待と不安、どちらが大きいですか?と問うた。以下がその結果である。
◆実施期間:2017年7月26日~2017年8月5日
投票合計:126,866票
① 期待が大きい 27.5% 34,901票
② 不安が大きい 65.3% 82,890票
③ わからない/どちらとも言えない 7.2% 9,075票
意外に日本人のオリンピック意識はレベルが高い。オリンピック歓迎はわずかに27・5%、不安と反対が65・3%だ。これに対するコメントを読むと頷ける。
Yukiyasu Hashimoto ・ 栃木県 小山市
 猛暑の7月にやることにアンポンタンの森、小池、丸川の3バカバッカは一人として疑問に思わないのかな?選手や観客の熱中症を考えていないのかな?森、小池、丸川の3バカバッカは猛暑の7月にやるのを止めて、前回通り10月10日に開会式をやるように利権がらみのIOCに働きかけろ!利権がらみの汚染されたIOCが応じないならオリンピックを返上すればいいだけの話である。森、小池、丸川の3バカバッカは利権がらみの汚染されたIOCの言いなりになる必要なない。金は日本が出すのだ!バカ野郎!(激怒)
Ritsuko Ayame Sullivan
 ここ20年ほど北米在住ですが、地球温暖化に伴い上昇している日本の夏に体が対応できません。今年も7月の中旬に日本に戻りその暑さにはまいりました。オリンピックは日本の夏の暑さに慣れていない国から参加する人が多いように思います。開催時期をこんな真夏に決めたお偉いさんは、朝から晩まで冷房の効いた室内・車内にいるだけで、例え15分でも炎天下の下で過ごしたことがないんだと思います。一般人はこんな時期の開催は無謀だとわかります。本当にこの時期に開催したら、選手・観客とも熱中症患者続出で、後世にも残る最悪のオリンピックとなってしまうのは確実です。期待よりも不安が100倍です。
Ryoji Yamazaya
 東京で2回もオリンピックやる必要ない。昔は「参加することに意義がある」といった。今は「一番いい色のメダル以外はいらない」と。ただのスポーツ大会でいいのだ。オリンピックはもはや利権屋の食い物と化している。何の意義も理想もない。消滅させるべきだ。
Yutaka Aoki ·北海道大学
 バブルが発生し一部の連中が大いにもうかる。閉会後はそのバブルがはじけ大きな景気後退が生じるが、それは全員で甘受する(苦笑)できたら止めてもらいたいww
 以上のようなコメントに見られるように、意外に東京五輪反対ないし批判は多数派なのだと知った。今年一月には東京で東京五輪反対の集会とデモが開かれ、いまなお東京オリンピック反対の運動を続けている。徘徊老人も驥尾に付して、今後はオリンピック反対のデモや集会に参加しよう。

            

わが師わが友①南国市にある田尻宗昭さんの墓

わが師わが友①南国市にある田尻宗昭さんの墓
 四国遍路の旅は亡くなった先輩、友人の思い出と共に歩く旅でもある。七〇年代の反公害運動の旗手、田尻宗昭さんの墓が高知県南国市にあることを知る人は少ない。一九九〇年7月4日、転移性肝臓がんで、惜しまれながら六十二歳の生涯を閉じた。田尻さんは九州宮崎生まれ、高等商船学校を出て海上保安部一筋に生きた。四日市海上保安部時代、石油コンビナートの公害を告発したことで一躍、「公害の田尻」として全国に名をとどろかせた。田尻さんの墓所が遍路道に近い高知県南国市にあることを教えてくれたのは、田尻さんと浅からぬ縁のあったY女史である。最初の墓参は十年前、徳島県木頭村の細川内ダム問題で高知空港に降りたときだった。二度目は遍路を始めた最初の年の二〇〇一年十月、小高い丘の上に造られた第二南国公園墓地に田尻さんの墓を訪ねた。晴れ渡った南国土佐の秋空の下で、水をあげ、花を供えた。「海の男は海をみたいだろうに」と呟くと、なぜか感傷的な涙が溢れて止まらなくなった。なんだこの涙はと自分自身におどろきながら泣いていた。
 田尻さんを藤沢の病院に見舞いにいった日の出来事を思い出した。「もう永くないらしいからいまのうちに見舞いに行こう」とエネルギージャーナルの清水文雄、禁煙運動の渡辺文学さんらと連れ立って病室に入った。さぞかしやつれているだろうとの想像を覆して、田尻さんはベッドの上に居ずまいを正して端然と座っていた。そして次の言葉に驚かされた。「諸君、今日は君たちに暴露することがある」というのだった。唖然とするわれわれに田尻さんは続けて「じつは僕は大腸がんが肝臓に転移して、いまこれとたたかっている最中だ」と自らのがんを告白した。意気昂然としてとても命旦夕に迫った人とは思えなかった。あまり長居してもと早々に辞去したが、田尻さんは一人一人と握手を交わした。私も最後に握手した。おどろくほど頑丈な掌で、痛いと思うほど堅く握った。それはまぎれもなく「海の男」の手だった。いまでもあの強烈な握手の感触は忘れられない。
●海の男のダンディズム
 後に聞いたY女史の話では「肝臓にがんが転移したことは本人には隠し通していたはず、トミさんたちにそんな話をしていたなんて夢にも知らなかった」という。田尻さんを見舞った翌日の夕刻、私は市民運動センターの須田春海氏と会っていた。「いやなかなか元気そうで、握手にもすごい力があった」と話している最中、須田氏に電話が入った。「仲井さん、田尻さんが先ほど亡くなったそうです」。やられた、と私は思った。死の前日、端然と居ずまいを正してわれわれを迎え入れ、がんを堂々と告白し、そして最後の握手にも渾身の力を込めた。まさに海の男のダンディズムを見せつけて逝ったのだ。港々の酒場で修行したカラオケは玄人はだしで哀愁のある歌い手だった。ダンス教師の資格を持ち、踊る姿は颯爽としてダンスホールの女性のみならず男性をも魅了した。海の男田尻宗昭の最後の握手を思い出して「海が見たかろうに」と涙したのだった。
 海見えぬ男の墓に秋の風 漫歩


雪見姐さんのアルゼンチン 

雪見姐さんのアルゼンチン 治安悪化とスリ横行 17・7・29
 徘徊のブログにしばしばコメントを寄せて下さる、雪見姐さんはJICA日系社会シニア・ボランティア(出版・就職情報会社からの現職参加)として、アルゼンチンで日本舞踊指導を07年9月までしていた。今年の春、017年JICA短期シニアボランティアとして再びアルゼンチンへ渡り活動している。以下は雪見姐さんブログ「雪見姐さんの思い出ブエノスと日本」からの「アルゼンチンに治安悪化。まったく気が抜けない。スリは「スリ大学(?)卒」のプロだから(2017/07/23 00:08)を紹介します。
 -テロはないけど、アルゼンチン特にブエノスアイレスの治安はどんどん悪くなっていく気がします。インフレが進み、物価が高騰し、貧乏な人はどんどん生活苦になっていきスリや置き引き、強盗が横行する。数日前には公用旅券(JICAボランティアは一般旅券ではなく、公用旅券)を盗まれた隊員が出て、事務所から全ボランティアに注意勧告が出てしまいました。
 「子どもを連れてきたので油断してドアを開けたら、さっと数人がなだれ込んできてお客さんと従業員の財布、店の売り上げを全部盗られた」「臨月に近いお腹をしていた客が、突然痛いと言い出し『夫が近くで待っているから呼んでいいか』と聞かれ、もちろんと言って、入ってきた夫は強盗。彼女のお腹のふくらみは偽物だった」と、お店をやっている友人の話。だから、小さな店やレストランは入口にカギをかけているところも少なくありません。歩行者が歩道と車道のギリギリを歩きながら携帯電話を使っていると、バイクがフルスピードで寄ってきて取り上げる。これは日常的。
 以前、友人の家に行こうと初めての道をキョロキョロしたり、携帯で友人に道を聞いていた。すると、女子高校生数人が「ワァー、チャーミング。あなたは日本人? 中国人? 写真一緒に撮ってくださーい」と寄ってきた。姐さんがチャーミングであるわけがない(笑)、怪しいと直感し「私、スペイン語話せないの、なに?」と言いながら、その場を離れた。今思えば、彼女たちは姐さんが携帯電話をしまった場所(コートのファスナー付きポケット)を知っただろうから、一緒に写真を撮る女子、携帯を盗む女子の役割が決まっての行動だった思う。あぁー、クワバラ、クワバラ。
 仲良し同期も、数日前に地下鉄でスリにやられた。海外生活も長く、JICAボランティアも一度や二度ではないベテランさん。冷静沈着な彼女がなぜ? というほどプロの技は巧です。ひとりではなく、子どもも使って数人で、あたかも自然に「獲物(苦笑)」をとり囲んでくるから怖い。ひとりがニッコリして「獲物」の気をひき、ひとりがその間にバッグのファスナーを開け、財布などを盗む。盗んだ金や品はすぐにほかの仲間に渡す。個人主義的人種といわれるアルゼンチン人も悪さをするときはサッカープレイヤー並みのチームプレイ(苦笑)。事を起こす前に、バッグのどこに財布やiphone、ipad などの小型高級通信機器をしまったか見ていて、忍び寄ってくるので油断も隙もないです。―

冷房病に苦しんだ7月の徘徊老人 

冷房病に苦しんだ7月の徘徊老人 17・7・26
 昔から夏には弱かった。若い頃は暑さに負けて夏痩せした。もともと胃腸が悪く、食欲がなくなると痩せてくる。163センチの身長で約53キロくらいしかなかった。夏には腹巻をしないとズボンがずり落ちるくらい痩せていた。中年の頃から体重が増えだした。50代の中頃、夏でも体重60キロ半ばに達した。原因は暑い夏の夜に、当時売り出し中の愛媛の「ポンジュース」を夜中に水代わりに飲んだことが原因だった。まさかジュースで体重が増えるなど思っても見なかったが、甘いジュースは怖いと思った。
 体重が増えるとジーンズなどズボンが穿きにくくなる。あわてて体重を60キロ以下にするように努めたが、なかなか減量というのも難しい。すると、この頃から年齢のせいもあったが、さまざまな病気にかかりだした。最初は心臓がなんとなく苦しくなった。動悸がしたり夜中に寝苦しくなる。厚生年金病院へ行って診察を受けた。医師に階段を上がると動悸がすると訴えたが、年を取ると誰でもそうですよと相手にしない。九段クリニックで一年に一回は健康診断を受けていたが、当時は「お腹の脂肪を増えているから薬を出しましょう」と医師に言われた。そういう時は「半年間運動をしてみますから」と断った。半年ばかり朝の散歩など歩く努力をするとたいてい数値が下がっていた。
 60代の後半から、あちこちにガタがきた。ひとつは胃腸の異常である。目黒の胃腸内科に数年通った。いつもあの苦しい内視鏡検査でポリープが見つかった。それを少し切りとって検査すると「癌ではない」と分かってホットするのだが、この検査というのもうんざり。やがて60代の後半、本格的に心臓の具合がおかしくなった。狭心症と診断され薬を飲むようになった。その頃は大腸ポリープが出来てトイレが真っ赤になるほど出血、外科病院で切りとった。60代から70代前半は、血圧降下剤、狭心症の薬、前立せん肥大症の薬、胃腸の薬、便秘の薬など、常に数種類の薬を飲む老人になってしまった。
◆冷房病恐るべし ちょっとの油断で三週間
それが四国歩き遍路や毎朝のラジオ体操参加などで血圧を下げることに成功した。2011年の東北大震災の頃から、友人に勧められてキャベツと玄米の雑炊という簡素な食事に切り替えてから、次々に薬が要らなくなった。ここ数年はまったく薬を飲まない生活だ。玄米菜食と一日一万歩を歩くことで、すべての症状が消えた。ところが今回の冷房病である。友人に誘われて、冷房のキツイ喫茶店で一時間ばかり食事とお喋りをしたことが原因だ。喉が痛くなり、ついには声が出なくなった。久しぶりに内科医に行って薬を貰った。熱はなかったが、この喉の不調が治まるまで三週間あまりを要した。
毎日、寝る時には小型の扇風機と窓を開けて風を入れる程度で、30度を越す室温の中で寝る。ベッドにはもう10年以上続けているベニヤ版を敷く。その上に薄べりを敷いて熱がこもるのを防ぐ。これは西式健康法で取り入れていることで効果大である。そして基本となる食生活は、キャベツと玄米の雑炊を一日二食。睡眠を夜は最低でも5・6時間、昼寝も一時間以上を取る。汗まみれでのたうち廻って寝ても眠れる。無料のサウナに毎晩入っているようなものだ。「簡素な食生活」こそが基本だと思う徘徊老人である。
ようこそ!「老人はゆく」へ
「老人はゆく」へようこそ

徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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