野上弥生子 昭和天皇の戦争責任を問う

野上弥生子 昭和天皇の戦争責任を問う18・5・26 
 作家の野上弥生子は、1970年公害研発足当初に取り組んだ臼杵市の大阪セメント反対運動のリーダー小手川道郎さんの叔母にあたる。よく話をきかれた。そういうなかで野上弥生子の反戦の思想は、戦前から強固だったことを知った。中村智子著『野上弥生子の日記から』によれば、弥生子は天皇の戦争責任について繰り返し書いている。
 三百十万の民衆を殺した責任者 沖縄の悲惨を「ねぎらう」の一言。「日比谷公園ではじめて政府主催の戦没者三百十万人の追悼式が行はれ天皇皇后は終戦が布告された11時カツキリに黙悼、追悼の言葉のあった事が新聞紙上に報じられている。しかしこの310万人の人が誰の名において死んだかをもし考へることができたなら、こんな場所にのぞむ勇気はもちえないはずであらうに。」(63・8・16) 「三百数十万の民衆を殺した責任者が、その責任を間はれないのみか、臨席してゐるのを光栄としてゐるのだから、空虚で形式だけの記念会になるのはいっそあたりまへであらう」(65・8・15) 「武道館で行はれた[沖縄復帰の]祝賀会での天皇の言葉にはいまさらに驚かされたものだ。彼はオキナワ人民の今日までの悲惨な体験に対して、「ねぎらう」なる言葉しか用ゐず、また今日の復帰をもち来すまでの苦心をも「多とする」といつたのみであった。これに憤りを感じない人間はないはずだが、新聞もテレビも決してその一事には触れなかった。こうした日本を一度こさえ直さないかぎり、美しい日本もなにもあったものではない。」(72・5・18)「天皇が今日で歴代のどの天皇より長く在位になると発表。どの天皇もしなかった対外戦争で、あれほどの惨禍に人民を陥れて、のうのうと長生きしてゐることにおいても、他の天皇にはないものであらう」(72・6・23)[終戦記念日]天皇の空虚な言葉、いつものことながら不快なおもひ。自己の責任についてはセキゲン、半句もない。』(72・8・15)
●沖縄と弥生子
 フンドーキン株式会社会長・小手川力一郎氏による野上弥生子のエピソード。氏は、野上弥生子の甥である。
 ある時、伯母から突然、お前は、会議所の会頭だそうだが、沖縄を助ける事は出来ないかと言われました。私は思いもよらぬ事を言われて、唖然としました。沖縄を助ける事は政治家のする事です。臼杵の会議所の会頭に何が出来ましょうか、認識違いも甚だしいと答えました。伯母は、会議所には全国組織がないのかと聞くので、それはあります。然し、会議所に沖縄を助けるそんな力はありませんよ、と言いました。伯母はそれっきり黙ってしまいました。私は、伯母は何とトッピな事を言う人かと思いましたが、その時の真剣な伯母の顔だけは頭に残りました。
●戦争ぎらいだった弥生子
 弥生子は戦争ぎらいでした。戦争は絶対起こしてはいけないと思っていました。朝日新聞は、毎年正月一日に新春のことばと題して多くの人の今年の願いを掲載致しました。昭和十二年の一月一日の新聞に、野上弥生子は、一つのねぎごと(神に祈る事)として「神聖な年神さまにたった一つのお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか、いいえどちらでもよろしゅうございます。コレラとペストが一緒にはやってもよろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように……」
 この事は反戦思想であるとして、随分評判になりました。不幸にして、その年の七月に支那事変が始まりました。
注: 野上弥生子(のがみやえこ)、旧姓小手川、1885年(明治18年)5月6日生まれ−1985年(昭和60年)99歳没。(現小手川酒造)三代目、角三郎とマサの長女として臼杵に生まれた。本名ヤエ。15歳で単身上京、同郷の野上豊一郎と結婚したのち、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始めた。以後、99歳で逝去するまで現役作家として、「海神丸」「真知子」「迷路」など多数の作品を発表した。昭和39年に「秀吉と利休」で、女流文学賞を受賞、昭和46年には文化勲章を受章した。

タンプリン博士と初期日本の反原発運動

タンプリン博士と初期日本の反原発運動 18・5・24
仲井富 2012・1・9 地域社会研究会へのメモ

◆東京の市民運動とタンプリン博士・高木仁三郎氏の出会い 
 日本国内における反原発運動は、当初は福島、福井、新潟など1070年代初めから原発立地地域の現地における反対運動が主流だった。これが都市住民の反対運動にひろがったのは1975年のタンプリン博士来日を契機として「原子力と人類は共存できない」というタンプリン博士ら米国の反核、反原発の専門家による指摘が最も大きい。タンプリン博士を招いた東京の集会は、75年6月7日、東京で初の反原発市民集会、タンプリン博士は「人類は原発と共存できない」と講演した。つづいて京都市で同年の8月24-26日日本初の反原発全国集会が開かれた。その頃には全国で原発計画に対抗する住民運動が活発に活動し始めており、それら各地の運動の全国的な連携のためにこの集会が開かれた。それを中心的に準備したのは、女川、(宮城)柏崎(新潟)熊野(三重)浜坂(兵庫)伊方(愛媛)川内(鹿児島)などの住民団体だった。
高木仁三郎氏も、このころから反原発運動の理論的指導者として登場してくる。高木氏は2000年10月9日に、肝臓がんで62歳の若さで死去するが、その遺著となった自伝的著書「市民科学者として生きる」(1999年9月刊行 岩波新書)のなかで当時の模様を以下のように記している。
―1974ごろから私は、反原発の東京の市民運動などの集まりに顔を出すようになっていた。特に日本消費者連盟、公害問題研究会、一人一人が原子力の恐ろしさを考える会、原水禁国民会議などが中心となって、タンプリンを日本に呼ぼうということになり、そのための会合が、四谷の緑林館という事務所(仲井富氏が主宰)で何回か開かれ、それに顔を出したのを覚えている。…この頃に私は、原子力に批判的な研究者という立場から、反原発市民運動の活動家という立場へと踏み込んでいた。ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた。
―●タンプリン博士、緑林館を訪問 (緑林館通信75・6)
 5月の連休明けからは反原発市民連絡会議(反原連)の準備会事務局を緑林館に置くこととなった。おかげでこの1か月間は6月7日の反原発市民大会を中心とした一連の行事に忙殺されてしまった。各地の皆さんの問合せや、相談事に充分おこたえできなかったのはそのためである。ここにお詫びしておきます。
 反原連の招きで来日したタンプリン博士が6月2日の夜、松岡信夫さんらに案内されて緑林館に立ち寄られた。渡辺文学、高木仁三郎、宮島郁子などの各氏とささやかな招宴をひらいた。タンプリン博士はサントリーのダルマを愛好し、「駅弁がたべたい」などとおっしゃるほどに和食が好きである。二度の来日にしてはまことに器用な手つきで箸を使って刺身や、にぎり寿司を賞味される。気さくな野人的学者である。
 ある夜、野党国会議員団との対談を終えて渡辺文学氏の車で送る途中、タンプリン博士は「私は離婚していま独身である」といったのにたいして、渡辺文学氏「われわれも常に離婚寸前までは行くのだけれど・・・」タンプリン氏曰く「あなた方はおそらく奥さんから追い出される方であろう」われわれ一同期せずして「同感」。タンプリン博士の考え方は、「原発は人類の能力を超えており、これとの共存はあり得ない。化石燃料の節約こそもっとも有効なエネルギー政策である。」ということにつきる。私はこれにも同感である。

◆東京の市民運動が原発反対運動に取り組む契機 住民ひろばと緑林館
73年3・1・29 草の根消費者運動が石油タンパク禁止の申し立て厚生省に提出、
2・11 大日本石油、鍾渕化学など企業化中止表明、禁止を勝ち取る。
3・24 第二回反火力全国連絡会、銚子市で開く、松下竜一、宇治田一也、橘進と会う
6・22 渋谷に「住民ひろば」発足。発起人会、助川、宮崎、小手川、西村、正木、松本文、川本、東京から野村、大高、横山、渡辺ら、ひろば使用料100円
74・4・20、獲られたものを取り返す消費者の会発足、
74・5 緑林館が四谷に発足、 9・9獲られたものを取り返す消費者の会、原告70名石油六社を相手に石油集団訴訟を提訴。以上のような消費者運動の新しい波が、「一人一人が原子力の恐ろしさを考える会」へと発展した。
75・6・7 東京で反原発市民集会、タンプリン博士による「原子力と人類は共存できない」講演会開催、
 以上のような経緯を踏まえて、高木仁三郎氏らを中心に75年の9月に、神田司町に無給の高木氏が専従として、原子力資料情報室がスタートした。
78・5『はんげんぱつ新聞』創刊、2008年で満40年を迎えた。高木氏とともに原子力資料情報室を担ってきた西尾獏氏は「人間でいえば不惑の年を迎えんとしている。再稼働の道を断つ本格的廃炉の時代が始まる。原発のない社会を創り出す一助になれと、月刊4頁の小さな新聞の不朽の40年」と2018年の年賀状に書いた。スリーマイル島事故の一年前に発刊されたのである。これが今日まで、原発問題の中心的役割を果たすことになる。

◆タンプリン博士を最初に招いた原水禁国民会議
 タンプリンと日本の市民運動との出会いは1975年だが、それに先立つ1973年に原水禁国民会議が、タンプリン博士を招いている。これは当時の原水禁国民会議の森滝森滝一郎代表に寄れば以下のような経緯があった。
―被爆二十七周年大会(一九七二年)で「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再代表の処理工場設置に反対しよう」というスローガンを掲げた。国内では、とくに原発設置反対の現地の住民運動があちこちに起こり、それを横につなぐ全国連絡会議の必要が起こり、「情報センター」の必要性も起こり、学者・専門家の助言・協力の必要性も切実に起こっていた。原水禁国民会議は、そんな必要性に対応する態勢をこの年あたりから取りはじめていた。
 この年の国際会議(一九七二年)には、前年から予約していたゴフマン教授は身辺の都合で出席できなくなったが、入念なレポートを送ってくれたし、日本側からは辻一彦参院議員が「わが国における原子力発電所の問題点」という詳しい報告をした。とくに忘れがたいのは、この年のコルビー女史の発言であった。そのなかでコルビー女史は言った。「過去において成功とは、核兵器の全面的かつ恒久的な廃絶を究極的になしとげることを意味しました。今日、成功とは、戦時、平和時を問わず原子力が使われることによって生ずるすべての放射能の廃棄をめざして成果をあげることを意味しております」と。軍事利用、平和利用ともに否定すべき方向を提唱したのである。そして「危機に陥っている惑星の市民として暗闇の谷間から真実の進歩の高原に通じる道を示さなければなりません。そのときこそ私たちは、原子力がもはや『人類の輝かしい夢』ではなく、むしろ悪夢であることに気づくでありましょう」と結んだ。コルビー女史が原水禁国民会議の「核絶対否定」に深く共鳴し、一貫して支持・協力する理由がここにある。
 翌年、被爆二十八周年(一九七三年)の原水禁大会には、ゴフマン博士に代ってその盟友アーサー・タンプリン博士が来日した。博士は単に国際会議に出席するだけでなく、その前に一週間ばかり、日本各地の原発設置個所を精力的に視察したり住民運動と交流したりした。そして、国際会議では、タンプリン博士の特別講演が重要な内容となった。それ以後、この講演は、わが国の原発反対運動の基本理論を構築していく出発点ともなった。
 私は、心ある人びとに、いまの時点でのあの講演(被爆二十八周年大会報告決定集の付録資料)をもう一度あらためてじっくりと読みかえしていただきたい。ここで博士は、「原子炉は、いまだかつて人類が経験したことのないような大事故の可能性をもっている」とし、炉心溶解による大量の放射能流出を語る。そして、この種の事故を防ぐものとしての緊急炉心冷却装置(ECCS)も、その実験はまだすんでいないことを語る。
 さらに、博士が力説したのは原子炉が大量につくりだす放射性物質の問題、放射性廃棄物の究極的処理の未解決の問題、最後に、最大の問題としてプルトニウムの軍事転用と核拡散の問題はもとより、その絶望的な猛毒性の問題、その管理のために私たちの子孫が永久的にこうむる重圧の問題-。原発反対の基本論理は、ほとんど解き尽くされたのである。 なお、博士は最後にミクロネシアのロンゲラップ、ウトリックの島の住民の問題にふれ「放射能は、いまなおこれらの島に残っている」と警告した。―
◆田原総一朗の『原子力戦争』の衝撃(1977年1月 講談社文庫)
東京に原発をと言った三人 (ブログ「老人はゆく」2011・4・15)
 福島原発事故は、二重の意味で罪が重い。ひとつはこの原発の恩恵に浴していたのは、3300万人の首都圏の人々であり、原発事故にあった地域は、東北電力管内であった。さらに問題となっている避難地域の南相馬市や飯館村は、原発立地関係町村ではなく、一円の交付金ももらっていない。そういう地域の人々が、放射能汚染という一方的な暴力で、田んぼを奪われ、牛飼いの手段を喪い、工場を失うと言う悲惨な状況に追い込まれた。政府の対策も、これらの市町村の原発難民に細かい配慮をしているとは思えない。怒りが出てくるのは当然だ。
 東京では、石原老害知事が相変わらず、原発必要論を至極当然のように語っている。石原知事はかつて「東京湾に原発をつくってもいい」と公然と発言している。2000年4月26日、有楽町にある東京フォーラムで開かれた日本原子力産業年次大会で以下のように講演した。「私は完璧な管理が行われるのであれば東京湾に立派な原子力発電所を作ってもよいと思います。また日本にはそれだけの管理能力がある、技術があると思っておりますし、その技術が改善されていく余地があると思っております。それくらい冷静な認識を持たないと、何でも反対ということで禍根を残すことになります」。
 これより前の1981年に作家の広瀬隆が「原発が安全というならば、長大な送電線建設コストのかかる地方ではなく、電力の大消費地である首都圏に原子力発電所を建設してはどうか」と指摘した『東京に原発を!』(JICC出版局)原発賛成と反対で立場は違うが、東京に原発をということを、明確に言ったのはこの二人だ。
 だが「安全なら東京に原発を作れ」と言ったのは、もっと以前から、原発反対運動の声として存在していた。今日では原発問題の古典となった、田原総一朗の『原子力戦争』(講談社文庫)に女川原発に反対する漁師多賀井公平の言葉を載せている。「だいたい電気を使うのは東京なんだよ。おれたちは電気なんて大していらないんだ。夜は早く寝るし、クーラーも入れないしよ。東京の電気は東京で作ってくれよ。女川や柏崎や下北を犠牲にするのは、それはよくないぜ。そういうのを差別とか搾取っていうんだだろう。原子力はクリーンで安全なんだろう。霞ヶ関とか皇居で10年20年とか発電してみてよ。それで具合いいようだったらおれたちも考へてみるからよ」(1975年「住民とりで」)いまとなっては、三人のうちもっとも先見性を持った発言をしているのは、女川の漁師だったということになる。(注 「住民とりで」とは 「住民ひろば」のこと)
 田原総一朗氏の「原子力戦争」は雑誌「展望」1976年1月号から4期にわたって連載された。この前年の1975年に田原氏が「緑林館」に現れて、住民運動の話を聞きたいということで、数時間ぶっ通しで取材を受けた。初対面なのにまことに図々しいというかしつこいというか、そのあくなき徹底した取材姿勢に感嘆した。その時に当時生まれたばかりの、一人一人が原子力の恐ろしさ考える会の女性たちのたまり場になっている「住民ひろば」を紹介した。前記の女川の漁師の話は、住民ひろば の取材によって本書に書かれたものである。その田原氏が今日では、原子力側の㏚集会の講師となり、青森の反対派からの公開請求で百万円余の講演料を受け取っていることが明らかにされている。しかし『原子力戦争』は今日あるをすべて予言している点において「原発問題の古典」としての価値は変わらない。高木氏もこの時初めて、田原氏と出会って助言している。

補者男女均等の社会を目指す法律が可決

候補者男女均等の社会を目指す法律が可決へ 18・5・15
 千代田区議で友人の小枝すみ子さんからのメールで、本日の衆議院内閣委員会で可決され、明日本会議で全会一致で可決されるとの報告がありました。以下にその要旨を紹介します。
 ー暑い日差しの中を、今日は旧永田小前を通って、参議院内閣委員会の傍聴に行ってまいりました。地域に山積の課題がありながら、みんなに叱られると思いながら、見届けたくて行ってきました。前回もお知らせした「政治分野における男女共同参画推進法」です。衆院は4月12日に通過しているのですが、国会空転の中で、見通しが立たないと言われていました。それが今日の内閣委員会で、全会一致可決、明日の参議院本会議で可決成立予定です。赤松良子元文部大臣はじめとして、私よりはるかに年長の方々が、粘り強く超党派の会を動かしてくださった。おりしも総務大臣が野田聖子さんであるということも大きかったと思う。私の人生経験の中で国会傍聴は、亀井建設大臣時代の都市法改悪のときと、1990年代のPKO法のとき以来だから20年ぶり。いくつもいくつも身体検査にスカーフまでとられて、権威の象徴たる国会の重々しさ。予定の12時半を過ぎると、大臣側入れ替え、野田聖子総務大臣が入ってこられて、国会議員側は全員同じなのに空気が一変、場面が変わって、まず推進法案の目的概要を自民党の委員長が説明、共産党の議員さんからの賛成討論、民進系の議員さんが中身の濃い付帯決議を提案、メモをとりきれなかったけれど、単なる理念法を理念で終わらせないだろうという未来に向けた内容の重さを聞き取った時、なんだか熱いものがこみ上げて、一瞬涙があふれてしまった。それまで、立ってもしゃべってもいけないと言われていた委員会室が、明るく緩んで、相原議員さんや山本議員さん、そして野田大臣にも握手をしていただいた。
  区議会に戻ると、議長室に松本佳子議長のランプがついていたので、報告すると心から喜んでくださった。きっと、女性と言ってもいい加減な人もいるとやじりたい人の声も聞こえます。けれどここは乗り越えないといけない、きっと30年前に乗り越えておかなければならないことだったのだと思います。明日の本会議採決後はさすがに、新聞テレビでも取り上げられることでしょう。長野で女性議員を増やした大先輩にお電話したら、とても喜んでくださいました。性犯罪が、政治、官僚、子どもたちをも巻き込むような、とめどない状況が新聞を賑わす中、右とか左とか、自民とか立憲とか関係なく、フェアな社会を作り出していく、これが日本の再出発のエネルギーになるように感じましたー。2018年5月15日 小枝すみ子(区議会控室にてspan>)

転倒にもめげず歩行の92歳翁の生き方

転倒にもめげず歩行の92歳翁の生き方 18・5・4
 齢八十半ばともなれば足腰いよいよ衰える。これは必然であり防ぎようがない。しかし今なお90歳を過ぎても歩いてラジオ体操に来たり、電車に一人乗ったりしている先輩を見ていると嬉しくなる。4月30日に満92歳となられた松崎清記翁もその一人だ。何しろ私の知るかぎり、公園の90代は最高齢の松崎翁をともう一人、91歳の池田会長先生のみである。松崎翁を見ているといろいろ勉強になる。まず第一にはその旺盛な食欲である。私と同年齢の君子夫人に言わせると、腹が減ったと言っては近所のレストランで一人食べてくる。1日4食は食べているそうだ。2番目によく転倒される。先日も一緒に神保町方面にあるいているとちょっと坂道の舗道で前のめりに転んだ。あっと驚いたが、通りかかった屈強の若者がすぐに引き起こしてくれた。見ると唇に血が滲んでいる。
 松崎翁はそれでも平気で、ひょこひょこと歩いて帰られた。よほど骨格がしっかりしているのだろう。たびたび転倒されるそうだが、大けがにならないのが不思議だ。3つめにそういう転倒を含めて昨日のことはあまり覚えていない、したがってくよくよ悩むこともないというのだ。自分の名前と、生年月日ははっきりしている。大正15年4月30日、栃木県那須町の生まれだ。そして子供の頃、皇太子―現在の平成天皇が那須御用邸に来られる日は、近辺の学校の生徒たちがお迎えに整列したことは記憶されている。しかし日常茶飯事のことは忘れてもまったく気にしない。「昔は芥川龍之介を読んだりしていろいろ悩んだが、いまはまったく本も読まないし悩みもない」と仰る。自分は死ぬなどといういことを考えないそうだ。日々忘れ去るということも長生きの秘訣かも知れない。
 今日の電車内で偶然乗り合わせた老人に同じような方がいた。半蔵門線の表参道で乗り込んできた老人がバッタリ前のめりに倒れた。他の乗客が引き起こしたので、私の席のそばにすわってもらった。きちんとした服装の老紳士だったが年齢を聴いて驚いた。92歳という。松崎翁と同年だった。そして「今日は独りで国立新美術館に行き、印象派最強の美少女展を見に行った帰りだ」と聞いて2度びっくり。
 電車が一時停車していたので、ところで元気の秘訣なんですかと聞いてみた。老紳士曰く、第1に食事は1日3回きちんと食べる。第2に睡眠、6時間半必ず眠る。第3に歩く、1日に3000歩から4000歩は必ず歩く。老紳士も転倒して80代半ばに足の骨を折って入院した。3年前には階段から落ちて腰の骨を折る重傷だったが、治ったそうだ。「再来年のオリンピックまでは生きるよ」と仰った。日々めげず、くじけず歩き続けられる日のあることを最大の幸せと考えることにしよう。
 杖曳いてくの字に上がる九段坂 蜘蛛の囲のキラリと光る清水門 漫歩 

  (写真 92歳の松崎清記翁)
 
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清水港の魚市場と次郎長記念館

清水港の魚市場と次郎記念館 18・4・29
 先週水曜日の25日、岡山の旧友87歳と静岡県清水港で再会した。彼は体のあちこち悪く、年賀状では「もう旅行には行けない。ジパングの更新も中止した」と悲観的な便りだった。何しろ膝が悪くバスの一停留場も歩けない。また耳が遠くなって普通の会話ができない。内蔵の手術もして常に体調悪く医者通いだ。それでも、暖かくなったし、清水市は有名なマグロやカツオの市場だ。あそこなら岡山から一本で来れる行ってみないかと誘った。ようやく同意して25日に静岡乗換の新幹線で来て、10時半過ぎに清水駅に着いた。駅に最短の清水シテイホテルに荷物を預けて駅の裏口から三百メートルの距離にある、清水港の魚市場に直行した。
 そこで新鮮な握り寿司を食べた。本場のマグロやカツオの鮨が千円でおつりがくる。今や東京の築地市場は観光客の増加で、昔の面影はない。かつて千円前後で食べられた寿司屋は姿を消した。今では2000円前後に値上がりしている。しかし清水港の魚市場ではその半額くらいで食事できる。その後港内を巡る遊覧船に初めて乗って、未だ行った事のない三保の松原を目指した。三保の松原から見る富士山は絶景と言われている。しかし実際に行ってみるとがっかり。松はかなりの年輪を経た大木が多いが、散在しているし手入れもあまりされていない。おまけにごみや煙草が散らばっている。「来て見ればさほどでもなし三保の松」というところだ。
 三保の松原からは清水駅にかえるバスに乗った。途中にある清水次郎長の生家と記念館を訪ねることにした。清水港船宿記念館「清水次郎長の船宿」末廣を訪ねた。入場料無料で入れる。江戸城無血開城の立役者は勝海舟となっているが、その海舟の使者として駿府城に乗り込んだ山岡鉄舟のことは良く知られている。だがこの鉄舟の西郷との面会実現のために全面的に協力したのが、清水の次郎長だったことはあまり知られていない。次郎長記念館にはその経緯が明らかにされていた。官軍に追われた鉄舟は漁師姿に変装して次郎長に会い、西郷隆盛と会見場所までの護衛を頼んだ。次郎長は鉄舟を武士の姿に変え、官軍の見張りの手薄な久能街道を通って駿府に入り、官軍総司令官の西郷隆盛のもとに無事に届けた。その日のうちに江戸城総攻撃を中止。その後、江戸で勝海舟と西郷隆盛の正式会談がもたれ、大政奉還明治元年となった。かくして次郎長は同年、官軍東征軍判事の伏谷如水から駿府周辺の市中取締役(現在の警察署長)を命ぜられ侠客家業から足を洗うことになる。
 清水の魚市場も価値はあるが、同時に清水次郎長の記念館や生家などは、三保の松原よりも一見に値する。
 87歳の旧友は、初日は痛み止めの注射を打って来たとかで、足腰スムースに、徘徊老人よりも軽やかに前を歩いていた。しかし一夜明けると、効能は薄れたようだ。もはやバスの一停留場も歩いて行けなくなった。短距離をタクシーで魚市場に向かった。お互いに土産のカツオやマグロ製品を買い、お昼前にサヨナラして、彼は静岡経由で岡山で、徘徊は普通列車で三時間余欠けて東京に着いた。確かに時間はかかるが、ゆっくり電車の中で昼寝して帰るのもいいもんだと分かった。老耄進んで旧友との再会は楽しく、かつ寂しいものだと知る。
  耳遠き友との旅は怒鳴りあい 新緑の山の彼方の白き富士 漫歩

  (晩年の清水次郎長)
   
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通巻300号を迎える『禁煙ジャーナル』

通巻300号を迎えた『禁煙ジャーナル』 18・34・24
 徘徊老人が、かつて発刊していた『月刊環境破壊』は公害環境問題、主として住民運動の立場からとらえて、1970年から1987年まで17年間発刊して幕を閉じた。その当時、公害問題研究会の事務局長をしていた渡辺文學さんとは、刎頸の友として48年間の付き合いだ。彼はその後、禁煙運動にのめりこみ、たばこ天国の日本を禁煙に変えた大功労者だ。かつては酒、煙草を愛好し、車の運転をしていたが、運転免許を返上し禁煙運動一筋に生きて来た。彼の発刊する「禁煙ジャーナル」が通関300号を迎えて、先週その記念の集いがあった。以下は禁煙ジャーナル40年にあたって、彼のブログに掲載された禁煙ジャーナル通関300号の記事の要旨である。
 - 『禁煙ジャーナル』が通巻300号を迎えた。1989年4月「タバコと健康全国協議会」の機関紙として『タバコと健康』の発行に踏み切りました。財政的な裏付けも全くなく、思い切った決断だったと思います。そのころの全国協議会の会長は、九州禁煙協会の川野正七氏で、平山雄博士や伊佐山芳郎弁護士、穂積忠夫弁護士、愛知県肺癌対策協会の通木俊一氏らと相談の上、創刊号の発行にこぎつけました。2年後、1991年1月から、現在の『禁煙ジャーナル』に改題して発行を続け、次号、5月1日発行号で通巻300号を迎えます。本紙発行当初の社会情勢と比べると、現在は劇的な変化を見せています。航空機、列車、バス、タクシー、病院、学校、野球場、競技場、劇場、公共施設などの禁煙が当たり前となり、国、自治体、企業のタバコ規制もかなり進んできました。しかし、大幅に遅れているのが飲食店です。「健康増進法」の改正案では、当初厳しい規制方針が盛り込まれていましたが、自民党タバコ族議員の圧力で、大幅に後退した内容となってしまい、メディアからも厳しい批判がなされています。
 ■JTの広告・スポンサーシップは問題
 タバコの煙に悩まされる機会は大幅に減ってきました。しかし、問題は山積しています。まず何といってもJTの「広告」と「スポンサーシップ」を禁止させなければなりません。JTは今「分煙」を強調していますが、どんな内容であれ「タバコの広告は全面禁止」が世界の常識です。
 国会の取り組みも遅れています。テレビ・新聞でもよく報道されますが、テーブルの上の灰皿やスタンド灰皿など、一向になくなっておりません。「国会敷地内全面禁煙」をめざしてほしいものです。
 ■加熱式タバコとの新たな闘い
 「紙巻タバコ」のような煙や臭いの少ないことを謳った「加熱式タバコ」が急増中です。しかし多くの専門家は「ニコチンや発がん性物質を含むことに変わりはない」と指摘しており、健康に及ぼす悪影響について警鐘を鳴らしています。「タバコはタバコ」です。紙巻タバコと同じように、厳しい規制対策を進めていくべきです。
 ■財務省の関与をなくせ
1985年から施行されている法律が「たばこ事業法」で、「わが国たばこ産業の健全な発展を図る」と書かれています。このような法律を持っている国はありません。また、JT株の33.35%は麻生財務大臣の名義となっています。タバコ問題の国際会議では、タバコ会社を「死の商人」と位置づけてきましたが、「死の商人」と呼ばれる会社の株を30%以上も保有しており、監督官庁が財務省ということも大きな問題です。故平山雄博士は「厚生省に大政奉還せよ」と常々語っていました。私は、300号の発行にあたり、平山先生の遺言を胸に、タバコ問題の抜本的な解決、さらにはタバコのない社会をめざして全力を注いでいく決意を新たにしております。 18・34・24ー


 

日米地位協定独伊の差 国内法適用の独伊

日米地位協定独伊の差 国内法適用の独伊 018・4・18
毎日新聞2018年4月18日は、「日米地位協定と米独、米伊協定の比較」党記事を載せた。沖縄県知事公室の職員3人が2月上旬、米空軍基地がある両国の4市町を訪問し、首長らへの聞き取り調査を実施。報告書を3月末に公表したという記事だが、以下にその要旨を紹介する。
―相次ぐ米軍機の事故やトラブルで、在日米軍の権利などを定めた日米地位協定が改めて注目されている。米軍が特権的に振る舞う根拠となっている協定の改定を求める沖縄県は、日本と同じく第二次大戦の敗戦国であるドイツとイタリアの地位協定を調査した。ドイツ南西部、在欧州米空軍司令部が置かれるラムシュタイン基地。米軍にもドイツの航空法が適用され、午後10時~午前6時は原則として飛行が制限される。基地内にドイツの警官2人が常駐して警察権を行使するほか、「騒音軽減委員会」が設置されている。
◆独伊ともに国内法適用で訓練・演習は許可権限を国と市が持つ
同委には米軍司令官や周辺5自治体の首長、市民団体の代表者ら20人以上が参加し、米軍から深夜・早朝の航空機の離着陸回数などのデータが報告される。ドイツは駐留米軍の訓練・演習について許可・承認する権限も持つ。イタリアでは米軍基地はイタリア軍が管理し、同軍司令官が常駐している。北部の米空軍アビアノ基地があるアビアノ市副市長によると、イタリア航空法令が米軍に適用され、州レベルで地域委員会を設置。自治体の要望によって飛行ルートも変更されるという。
 両国とも、駐留当初から米軍が同様に対応していたわけではない。ドイツは1993年まで3回にわたって米国などとのボン補足協定を改定し、米軍基地がドイツの主権下にあることを明確化した。イタリアでは98年、米軍機がロープウエーのケーブルを切断して乗客ら20人が死亡した事故を機に、米軍機への規制を大幅に強化した。ランベルト・ディーニ元伊首相は沖縄県の調査に対し「ここはイタリアだ。米軍の全活動にはイタリア軍司令官の許可がいる」と言い切った。
◆改定一回もなく米軍主権の日本「騒音違反」も日本では常態
 これに対し、日米地位協定では原則、米軍に国内法が適用されない。航空法は地上の人や物、航空機の安全を確保するため最低安全高度(市街地300メートル)を定めているが、米軍機は対象外だ。政府には米軍の訓練・演習を規制する権限もない。全国の米軍専用施設の約7割が集中する沖縄では、騒音軽減のための日米合意さえも守られない状況が常態化している。96年、日米両政府は嘉手納基地(嘉手納町など)と普天間飛行場(宜野湾市)について、午後10時~午前6時の飛行を原則として制限する航空機騒音規制措置(騒音防止協定)に合意した。だが、防衛省沖縄防衛局の目視調査では、2017年度(今年2月末現在)の飛行制限時間帯の離着陸などの回数は1420回に上る。嘉手納町では騒音などへの住民の苦情件数が同期間で940件もあり、既に前年度の3.6倍に達している。町によると、最新鋭ステルス戦闘機F35A12機が嘉手納基地に暫定配備された昨年11月以降、苦情が激増している。町基地渉外課の我謝(がじゃ)治彦課長は「寝静まっている時間帯に米軍機が飛ぶことに住民は不満を抱いている。米軍へ抗議しても状況は変わらない」と話す。米軍の主権侵害とも言える日本の異常さを物語る。【福永方人、遠藤孝康】
 (図は日米地位協定と米独・米伊協定の比較) .クリック拡大

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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
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