無意味なミサイル防衛訓練を笑う

>無意味なミサイル防衛訓練を笑う 17・9・22
 白井聡(京都精華大学人文学部教授)が神奈川新聞8月26日に「頭を抱えればミサイルから身を守れるのか?」という論稿を載せた。全く同感である。以下にその要旨を紹介したい。
◆無意味な訓練の意味  
 北朝鮮から日本に本当にミサイルが飛んでくるのか、現在のところ可能性は低いと見るが、究極的には分からない。だが仮に本当に飛んでくるとしても、こうした訓練は意味がない。小学校の体育館に逃げ込んで身を守れるのか。体育館に集まった方が安全だと判断する根拠はどこにあるのか。頭を抱えたところで、落ちてくるのはミサイルであり、対処法は基本的にない。政府は、グアム方面に発射されたミサイルを日本上空で迎撃すると言い、島根、広島、高知の3県に地上配備型迎撃ミサイル「PAC3」を配備した。だがこれも無意味だ。日本上空を通過するときにはミサイルは高高度を飛んでいるためPAC3で撃ち落とせない。北朝鮮が米本土に向けて撃つミサイルを日本が撃ち落とすなどと言っているが、これもばかげた話。この場合、ミサイルは日本上空を通過しない。 これらに共通しているのは危機認識の前提や、その対処方法に「全く合理性ない」という点だ。太平洋戦争末期に政府が「竹槍(たけやり)で爆撃機B29を落とす」と言っていたのと変わらず、見ているこっちが恥ずかしくなる。戦時中、竹槍でB29を落とす訓練に「そんなのは無意味だ」などと言おうものなら、「お前は何を言っているんだ。非国民だ!」と爪はじきにされた。いま行われている弾道ミサイル避難訓練はこの構造とよく似ている。
◆朝鮮戦争にこそ原因  
大いに懸念されるのは、こうした訓練を繰り返すことで、人々の心が「とにかく頭を抱えるべきなんだ」となり、同時に「なぜ、こんなことになっているのか」という問いが消えてしまうことだ。なぜ日本がミサイル攻撃を受ける可能性があるのか。なぜ私たちはそこまで憎まれているのか。なぜそれほどの犠牲を強いられるのか。こうした根本的理由を問うことをやめ、せいぜい「あの国は理解できない」などという説明で納得した気になってしまう。だが当然ながら問題はそんなに単純ではない。もつれた歴史の糸をほぐしながら考えなければいけない。 これは朝鮮戦争が終わっていないことに起因している。国際法的には今も戦時であって、一時的に休戦しているに過ぎない。この状態が60年余り続いているのは異常だ。米国はこの戦争の当事者であり、だから北朝鮮は、米国に対抗するために核開発とミサイル開発をやめない。60年以上続くこの異常な状態を解消しなければいけないと考えるべきだが、日本人の多くにそうした発想はない。
◆本質から目そらすな
 「東アジアの安全保障環境が厳しさを増している」という理由づけで、安倍政権は2014年7月に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、翌年安全保障関連法制を成立させた。このとき、集団的自衛権行使の前提として「存立危機事態」にあることが条件とされた。「日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態だ。では、その「存立危機事態」はなぜ生じているのか。原因は明らかに米朝関係と日米安保体制に求められる。この現実から目をそらしてはいけない。こうして全体を俯瞰(ふかん)して分かるのは、解決しなければいけない問題は別の次元にある。頭を抱える練習をしたところで、何も守れはしない

電車内の化粧へ家でやれとの反撃 

電車内の化粧へ家でやれとの反撃 017・9・17
 電車内でのマナーの乱れについて、先週「スマートホン・ゾンビ」なる見解があることを紹介したが、最近の新聞記事で、最近特に目立つ電車内での化粧についても痛烈な批判があることを知った。苦々しく思っているのは徘徊老人だけではないのだ。今や80代半ばの徘徊老人には人と争う気力、体力がない。70代の半ばまでは、電車内で延々と化粧している女性に向かって「ここは化粧室ではない」と怒鳴りつけたりしていた。またホテルのレストランで駆けっこをしている孫をたしなめもしないでニコニコしている祖父母に「ここは運動場ではない」と怒鳴りつけ露骨に嫌な顔をされたこともある。もうな70代後半以降は、知らぬ顔をしているだけだ。
 ところが最近の新聞によると、なかなか勇気のある御仁がいて、化粧している女性に痛烈な批判をしていることを知った。毎日新聞「松尾貴史のちょっと違和感」に面白い話を発見した。松尾氏は電車内で強烈な香水の匂いを発散させる女性がきらいらしい。「隣に私の嫌いな香水をつけた女性が座った。もしすし屋で隣に座られたら席を移してもらうか、さもなければ店を出る」とのべ、。ソシャール・ネットワーク・サービスで読んだ話を紹介している。この話が面白い。電車内で化粧していた美人女性がいた。近くにいた二枚目の男性がいて、彼が途中の駅で降りる際に、紙片を女性に手渡した。いわゆる「車内ナンパ」でメールアドレスでも伝えたのか。彼女は爽やかな彼の後姿を目で追い、持たされた紙に目を落として一瞬固まったそうだ。すかさず横から盗み見したら、「家でやれ」と書いてあったとか。
 もう一つは先日、大阪にある料理店の店主から教えてもらった話。彼が地下鉄に乗っていると、空いている隣の座席に70代と思われる清潔そうな紳士が「失礼します」と座った。新聞を取り出して、熟練された手つきで新聞紙を最小限の空間の中でご自身の肩幅以下に畳み、読み始めた。ふと前を見ると、向かいの席に座った女性がせっせと化粧している。読んでいた新聞を膝のあたりに下げた隣の紳士が、向かいの女性を見据えて、これまた最小限の声で、しかし相手にしっかり聞こえる声で、「パンツは家ではいて来い」と注意した。険悪な空気が流れるかと思えば、向かいの女性は「すみません・・・」と小さな声で言って、すぐに化粧道具をしまったそうだ。この二つのエピソードを紹介したうえで松尾氏は「なぜトイレのことを化粧室というのか、考えてほしいものだ」と結んでいる。(毎日新聞9・10)
 道徳教科書に安倍総理の顔まで載せた教科書が出回っているそうだ。学校で子供に道徳教育をなどと声高に叫ぶ前に、日常生活の中で最低限のマナーさえ、忘れ去っている現状を具体的に上げて、現代の大人老人などが、いかに孫や子の家庭内教育を怠っているかを問題にすべきだ。優先席に孫を座らせて婆さんは立たっているなどという滑稽な風景こそ問題だ。孫に「ここは、体の悪い人とか、老人とか、赤ちゃんを抱く母親が座る席だ」と教えるという、最低限のマナーを知らない、老人や親たちにこそ「大人の道徳教育」をすべきではないか。

歩きスマホする人はゾンビだ

歩きスマホはスマートホン・ゾンビ 17・9・11
 今朝のパソコン上に「歩きスマホはスマートホン・ゾンビ」という記事をみつけた。以下にその要旨を紹介する。徘徊もスマートホンによる若者中年の横行にいささか頭にきている。一つはスマートホン・ゾンビは自分以外は全く関心がない、電車の中でも開いている席があればそれが高齢者や障害者の優先席でもまったく意に介しない。即座に座るや否やスマートホンに熱中する。昔は優先席に孫を座らせている祖父母に、バカではないかと思って注意した。しかしスマートホン・ゾンビたちは数が多すぎて注意することもできない。ただただ嘆息しているだけだ。以下、 水島朝穂早大教授」雑談(115)「スマートなアホ化」と政治より2017年9月4日
の要旨である。
ー3年前の夏、俳優の故・菅原文太さんのラジオ番組「日本人の底力」(ニッポン放送)に呼ばれて、1時間ほど語り合ったことがある。2週連続の放送となった。菅原さんは、安倍首相による強引な内閣法制局長官人事にたいそうお怒りで、話はそこから始まった。しかし、後半では、「政治家の質が下がっているのはなぜなんでしょうか」という質問から、スマホやツイッターなどを駆使して、政治家の言葉がすごく軽くなっていることなどに話が及んだ。「そういうものがひとつの文化、遊びとしての文化で終わればいいんだけど、そうじゃなくて、政治とか国の大事な仕組みに関わることにまで侵犯して、人間の意識までも変えてるんじゃないかって、こんな指一本で世の中を動かせるとしたら・・・スマホなんてまったく使わない俺みたいな人間でも、その影響を受けざるを得ない。その結果、即断即決、すぐに答えを出すことを求められるようになり、一人ひとりの人間が“熟慮”することができなくなっているんじゃないか。」(菅原文太『日本人の底力』〔宝島社、2015年〕144-155頁)。
 文太さんの危惧は現実のものとなっている。先日、私自身、時事通信のインタビューに応じたところ、8月13日14時23分に「安倍首相に改憲資格なし=水島朝穂早大教授-インタビュー・憲法改正を問う」としてアップされるや、ひどい言葉がネット上にあふれた。「この馬鹿! SEALDsと一緒に国会前で踊ったあのボンクラ教授だろ? すっこんでろ!💢💢 【悲報】水島朝穂早大教授「安倍晋三という人物に改憲する資格無し!」 人間として最低な人物! 国民は早く気がついて欲しい!」。そのSNS上のネトウヨと一体化し、発信源となっているのが『産経新聞』である。一例が、8月13日0時40分のデジタル版の記事。朝日新聞論説委員のコラムに対するSNS上の下品な言葉をそのまま記事と見出しに使って、自ら「炎上」をけしかけている。タイトルは、「論説委員コラム「北朝鮮化する日本?」がネットで炎上 「寒気がする。悪意しか感じない」「朝日は終わり。頭おかしい」」。このような記事は報道機関が出すべきものではない。これではネトウヨの書き込みをまとめて拡散する「まとめサイト」と変わらない。
 ところで、「歩きスマホ」をやっている人間のことを、英語で「スマートフォン・ゾンビ」というらしい。「人間の姿をしているのに人間らしい思考も感情もない。うつろな目をして集団で動き回る」。こうしたゾンビたちを横断歩道から締め出す条例がハワイのホノルル市で制定された。10月下旬施行で、スマホを使いながら横断すると15ドルの罰金が科せられるという(『朝日新聞』8月7日付「天声人語」)。「スマホ歩き」をしていると首が前に垂れ、前屈姿勢になる。やや古いが、ここで2013年の新聞記事の切り抜きを紹介しよう。韓国では、スマホのやり過ぎを一因として、若者に首の異常が急増しているという。韓国保健福祉省所管の国民健康保険公団によれば、同国で20代を中心に頸椎椎間板ヘルニアが急増しており、うつむいた姿勢でのスマホの使い過ぎが一因とみられている。下の写真は、スウェーデン・ストックホルム市内のスマホ歩き警告の道路標識である(Süddeutsche Zeitung vom 4.5.2017)。スマホ歩きは、世界各国で規制の対象になってきている。スマホ歩きの危険性だけでなく、スマホの思考への影響も深刻ではないか。ー
  優先席 スマホが占拠 秋暑し 漫歩
      (写真 ストックホルムの道路標識)


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保守論壇長老西尾幹二の安倍政権批判

保守論壇長老西尾幹二の安倍政権批判 17・9・2
 安倍政権に対するきびしい批判がようやく右翼保守論断でも行われるようになった。最近注目したのは、「民族俗の生存懸けた政治議論を 評論家 西尾幹二氏の発言である。 産経2017・8・18正論」の記事である。西尾幹二氏は、すでに2011年5月、福島原発事故について、保守論壇の原発容認を強く批判し「この国家的危機において原発廃棄の方向に進むべき」と主張してきた人でもある。
以下「民族俗の生存懸けた政治議論を 評論家 西尾幹二 産経2017・8・18正論」の要旨を紹介する。
◆仲良しクラブでは窒息死する
 今でも保守系の集会などでは当然ながら、安倍晋三政権を評価する人が少なくなく、私が疑問や批判を口にするとキッとなってにらまれる。「お前は左翼なのか」という顔をされる。今でも自民党は社会体制を支える最大級の保守勢力で、自民党の右側になぜか自民党を批判する政治勢力が結集しない。欧州各国では保守の右側に必ず保守批判の力が働き、米国でもトランプ一派は共和党の主流派ではなかった。先進国では日本だけが例外である。日本政治では今でも左と右の対立がすべてであるかのように思われている。自民党も民進党もその硬直によって自らを衰退させていることに気づいていない。
 それでも国内の混乱が激化しないのは、日本は「和」の国だからだという説明がある。まだ経済に余裕があるからだとも。米国のある学者は、世界では一般に多党制が多く、二大政党制を敷く国は英国をモデルにしたアングロサクソン系の国々で、ほかに一党優位制を敷く国として、日本やインドを例に挙げている。しかし選挙のたびに浮動票が帰趨を決めている今の日本では、一党優位性が国民に強く支持されているとは必ずしも思えない。受け皿があればいっぺんに票が流れるのは、欧米のように保守の右からの保守批判がないからだ。左右のイデオロギー対立ではない議論、保守の立場から保守政権を正々堂々と批判する、民族の生存を懸けた議論が行われていないからである。保守政党が単なる仲良しクラブのままでは国民は窒息死する。
◆保身や臆病風に吹かれた首相
 私は安倍首相の5月3日の憲法改正案における第9条第2項の維持と第3項の追加とは、矛盾していると、6月1日付の本欄で述べた。そのまま改正されれば、両者の不整合は末永く不毛な国内論争を引き起こすだろう、と。今は極東の軍事情勢が逼迫し、改正が追い風を受けている好機である。なぜ戦力不保持の第2項に即刻手をつけないのか。これに対し、首相提案を支持する人々は、万が一改憲案が国民投票で否決されたら永久に改憲の機会が失われることを恐れ、国民各層に受け入れられやすい案を作る必要があり、首相提言はその点、見事であると褒めそやす。
 さて、ここは考え所である。右記のような賛成論は国民心理の読み方が浅い。憲法改正をやるやると言っては出したり引っ込めたりしてきた首相に国民はすでに手抜きと保身、臆病風、闘争心の欠如を見ている。外国人も見ている。それなのに憲法改正は結局、やれそうもないという最近の党内の新たな空気の変化と首相の及び腰は、国民に対する裏切りともいうべきだ。
◆保守の立場から堂々と批判を
 憲法改正をやるやるとかねて言いそののあげく、旗を掲げていた安倍氏がこの突然の逃げ腰―5月3日の新提言そのものが臭いものに蓋をした逃げ腰の表れなのだが、-そのあげく、万が一手を引いたら、、もうこのあとでどの内閣も手を出せないだろう。やると言って何もやらなかった位致問題と同じである。いつも支持率ばかり気にし最適の選択肢を逃げる首相の甘さは、憲法問題に至って国民に顔向けできるか否かの正念場を迎えている。
 そもそも自民党は戦争直後に旧敵国宣撫工作の一環として生まれた米占領軍公認の政党で首相のためらいにも米国の影がちらつく。憲法9条は日米安保条と一体化して有効であり、米国にとっても死守すべき一線だった。右からの攻撃を受けても、右からの生存闘争をしないで済むように米国が守ってくれた。
 しかし、今こそ日本の自由と独立のために自民党は嵐とならなければいけない。保守の立場から保守政権を堂々と批判する見識が今ほど必要なときはない。

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最初の空き缶拾いカンカンラリー 

最初の空き缶拾いカンカンラリー 17・8・26
 私の四国歩き遍路は2001年の春からだった。最初の一年は夢中で歩いて12月に足摺岬の金剛副寺で結願した。2年目の2002年からは周囲をやや落ち着いてみるようになった。そして気づいたのは遍路道の林道や国道、海岸沿いの谷底に厖大なごみが捨てれれてゐることだった。そして東京近郊の歩き遍路達が、それに気づいて「お接待」のお返しに四国遍路道のごみ拾いを計画していることを知った。私は当時、東京では毎朝、居住地周辺の「もく拾い」を数十分やっていた。千代田区の禁煙条例ができたばかりで、たばこの吸い殻を中心に拾っていた。そういうこともあり、「カンカンラリー」という趣意書を、愚さんこと河野幸江さんから頂き、主宰の菊池昭さんの呼びかけに全面的に賛同した。そして私も、自分で空き缶拾いを実践してみた。
◆最初の空き缶ひろい2003年3月から
 2003年の3月3日から数日間の歩き遍路で二度目の結願をしたが、雨にたたられたので、晴れた日の二日間だけ一人でやってみて、いろいろのことがわかった。行程は一回目が四国36番の青龍寺の近くの国民宿舎土佐からスタート。横浪スカイラインを経て、須崎市の仏坂から岩不動、須崎駅のコースだ。車の走行は少ないが、道路の両側には、空き缶が次々に転がっている。私のやり方は、途中で出来るだけ空き缶を小刻みに、置かせてもらうということに主眼を置いた。まず一番に、国民宿舎土佐の支配人の池上孝次(代表取締役)に、カンカンラリーの趣旨を説明したら、全面的な協力を約束して下さった。また支配人自身が「休みの日に子供たちと空き缶拾いをしている。たくさん集めた子供に褒美をやることにしている」という話を聞き嬉しかった。
2番目には、横浪スカイラインの途中に帷子崎(かたびらさき)という展望のよい場所があり、夏場には休憩所になっています。そこには空き缶などを入れるボックスがいくつかあり、そこでまず拾った10個ばかりを入れた。ボックスの回りにも空き缶が転がり、ごみもあったので、休憩所のほうきで、掃除もしてきれいにした。3ん番目に、横浪スカイラインを下って、浦ノ内に入る手前にある、土佐工芸村には入り口に沢山の自動販売機が置かれており、そこで工芸村の方に、「遍路道の空き缶を拾ってきたので置かせてください」とお願いすると快く受け入れてくださった。4番目には須崎市に入って浦ノ内湾沿いの道が合流するところに酒屋さんがあり、自動販売機も沢山あった。ここは声をかけたが留守なので、20個ばかりを、空き缶ボックスに置かせてもらった。ただ今後無断でおく時は、自分の納め札に、遍路道の空き缶を置かせていただいた、ということを書いておくべきだと思った。
 5番目に、仏坂越えの遍路道は、人にはまったく会わなかったが、それだけに坂の途中は、目を覆いたくなるほど
、ごみの散乱していた。仏の坂ではなくごみの坂だった。おまけに岩不動では「うちではそういうことはしていない」と慇懃に空き缶の預かりを断られた。今回の空き缶拾いで、断られたのは唯一、此処だけだった。一杯のビニール袋を下げて歩いて、大野郷の駅の手前で道を聞いた、軽トラックの老人が、「わたしがあずかろう」と快く、トラックの荷台に乗せて下さった。合掌。
◆自治体の担当者から歓迎 共にやろうと激励され
もう一日は宿毛の39延光寺からから松尾峠越えで愛媛県の40番観自在寺までの宿毛、一本松、城辺、御荘、宇和島の5市町村の道程だった。ほぼ同じやり方で地元の方に預かって頂いた。)感激したのは、御荘町の役場に寄り、生活環境課に空き缶袋を持参したときだ。課長の本多正登さんが自らでてきて空き缶を受け取って「ありがとう」といわれた。そして周辺5町村の課長会議で、「空き缶などは役場でも受け入れる」と話し合いをした由。菊池さんたちの働きかけが自治体にも大きな影響をあたえていた。
宇和島市では生活環境課長の白井栄一郎さんに歓迎され「本来、地元のやるべきことを東京の方にやってもらって」と感謝された。そこでわたしはかねてから考えていたことを提案しました。四国遍路道関係市町村が、罰則付きの空き缶などポイ捨て禁止条例制定することと、お四国の1200キロの遍路道を春と秋、いっせいに清掃するクリーンウォーク運動の二つです。いずれにも賛意を表された。とりわけ空き缶などのポイ捨て禁止条例は、宇和島市も、御荘町もすでに準備を始めているとのことだった。私は行く先々の道端で「わたしも置いていかないで、拾って」という声を聞いた。袋にいれてやると中でカロコロと空き缶たちが会話します。「会えてよかったね。も一度生まれ変わったらまた会えるよね」と言っているみたいだった。この経験が遍路仲間と数年続く遍路道や富士自然歩道等の清掃活動となったのである。

藤田恵の戦中戦後 兵事係りの恣意的徴兵

藤田恵の戦中戦後 兵事係りの恣意的徴兵 17・8・22
 「老人はゆく」、8月18日号に徘徊老人の「軍国少年の戦中戦後」を書いた。これに対する畏友藤田恵氏(元徳島県木頭村村長)から、長文のコメントが寄せられた。以下に紹介したい。彼とは長い付き合いだが、こういうことを話しあったことはなかった。生きているうちにわが友の戦中戦後を知ることができたことを感謝したい。
◆タイトル:兵事係 藤田恵 五人もの兄が戦争に
 一九四五年八月一五日に日本が無条件降伏した日米戦争(第二次世界大戦)では、私の五人の兄に赤紙が来た。二人が戦死、一人はほぼ全滅したガダルカナル戦で一時密林へ逃げ込み奇跡的に生還。後二人の兄も何とか戦後に生きて帰って来た。五人が戦地にいる間に両親は病没し、家に残された六人の兄弟の中で一番の年上はその時一一歳の姉だった。 苦労してやっと一人前に育て、働き盛りの五人の息子を全て強制的に戦地へ送られた両親の無念さと、一一歳の姉の惨さを想像すると、これ以上の過酷な仕打ちは無いと、私は何時も腹立たしい限りだ。これも兄五人が戦争に取られたことが元凶である。
 私は物心が付いてから、何時も頭から離れなかったことは、五人の兄たちとほぼ同年代で、戦争に行っていない元気な人が近くに何人かいることだった。この中には村内で屈指の資産家の二人の兄弟もいた。その頃、意味は解らなかったが兵事係という用語を知り、五人の兄と何か関係があるのではないかと子供心に残り続けていた。その後、この「五人の兄との関係」が判明した。つまり、赤紙を誰に出すかを実質的に決めていたのは村役場の兵事係だったのだ。そのうえ、可成り兵事係が恣意的に決めていたことも分かって来た。 この兵事関係の書類は敗戦と同時に全て焼却されたらしいので、今更詳しい内容を知ることは不可能である。せめてその兵事係の名前だけでも知りたいものだと何時も思っていたが、既に敗戦後七一年も経ち当時二〇歳の若者でも今は九〇歳を超えたことになる。当然、戦時中の村役場の事情を詳しく聞き出すことは到底不可能なことだと諦めている。しかし、私たち一家を不幸のどん底に落とし込んだ兵事係が恣意的だったしたら、絶対に許すことは出来ない。前記のようにせめて名前だけでも知りたいという私の気持ちは、無理の無いことだ思っていた。
◆兵事係へ復讐 松本清張の小説「遠い接近」
 ところが、名前を知りたいどころか、兵事係と軍隊で制裁を加えられ古参兵を探し出して二人に完全犯罪を狙って復讐するいう、松本清張の半自伝的長編小説「遠い接近」を最近読み、私の兵事係に対する推測と、戦争から帰って来た三人の兄から再三に聞かされていた軍隊の過酷さと出鱈目さが事実であったことがはっきりした。「遠い接近」の粗筋は、石版画工の山尾は、腕で一本で家族を養うために印刷屋からの締め切りに毎日追われ、仕事は深夜まで続くので、戦時訓練は休みがちであった。山尾の事情も考えず、欠席を根に持った兵事係は三ヶ月の教育訓練の赤紙を山尾に出す。訓練では何の理由もなく、古参の兵士から翌日も起き上がれないほど殴られる地獄の暴行が続く。三ケ月で家業に復帰できると辛抱していたのに、二ケ月で本式の赤紙を受けて朝鮮へ出兵。稼ぎ手が不在の親子六人は、東京から田舎の広島へ疎開して原爆により全滅する。敗戦後に東京へ帰った山尾は、殴られた古参兵の闇商売の手下となるが、恨みは決して忘れてはいない。そのうえ、自分と家族を破滅に追い込んだ赤紙を出した兵事係を突き止め、二人に復讐を実行する、という内容だ。小説ではあるが、赤紙の理不尽極まりない手続きの実態と、徴兵された兵隊の扱いがどんな過酷であったか。ここまでの話は三五歳で教育召集を受けその後朝鮮へ送られた松本清張の自伝そのものである。
◆ケツベタ、蝉 海軍の棍棒制裁と苛め
 ケツベタ=海軍では何の理由もないのに、精神棒という樫の棒で尻を何回も殴られ、毎日ように殴られる兵隊は尻が腐って死亡したり、除隊させられる者もいた。蝉=同じ理不尽な制裁で、柱などに蝉のようにしがみ付き「みんみんみん」と蝉の鳴き声を強制する。これを笑いながら古参兵らが眺めて「蝉になっとらん」などと背中を樫の棒で叩く。海軍で一人一回の入浴に使える湯は洗面器に三杯まで。これで体を洗い、衣類も全て洗濯しなければならない。洗った服や靴下などを干しておくと必ず盗まれるので、交代で見張りをした。それでもなお少しの隙に盗まれることがあった。服装検査の時などに「盗まれた」と言い訳をすると「天皇陛下の物を盗まれるとは何ごとか」と精神棒が飛んでくるので、必ず盗み返さなければならなかった。以上は海軍の兄から聞かされたごく一部であるが、小説にも全く同じ制裁がある。
◆軍隊で「病死」とは苛め暴行の結果だった
 安倍自公政権は戦争の国を目指して暴走中である。今は戦争をしていなくても学校、職場などあらゆるところで「いじめ」と胡麻化している理不尽な暴行や暴力が日常茶飯事となるほど日本は狂ってしまった。既に現在の自衛隊でも多くの自殺や逃亡が問題となっている。これが徴兵制となり戦争で明日にも戦死するかも知れない軍隊ではどうなるか。小説と兄の話と同じように、全く理由のない暴行や暴力は歯止めなく拡大することは火を見るよりも明らかである。暴行で殺されても、何事も全てが密室の軍隊では「病死」として遺骨だけでも家族に届けば良い方だろう。
  蝉時雨無名戦士の墓に降る 漫歩

      (松本清張作「遠い接近」文春文庫)

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山村の軍国少年が経験した戦争

山村の軍国少年が経験した戦争 17・8・18
●叔父茂のブーゲンビル島からの葉書
 戦争が終わったときは12歳だった。72年前の話である。山村の軍国少年の戦争体験は、外地から引き揚げてきた人々や、都会で空襲を受けた方々の地獄絵図のような体験からみると大したことではない。それでもいま思い返すと、片田舎の山村でも生死というもは日常茶飯事だった。支那事変から太平洋戦争にかけてたくさんの屈強な若者が召集された。私の父方の叔父1人、母方の叔父兄弟も召集されて出て行った。父方の叔父は無事に帰ってきたが、母方の叔父兄弟は2人とも帰って来なかった。兄の方の敏継叔父が北支那で戦病死したのは昭和14年。当時、小学校1年生だった私の記憶では、白木の箱に収まった遺骨を囲んで、親戚一同が声をあげて泣いていたことくらいである。弟の茂叔父は、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年に召集された。いつものように村境の峠まで村の人々とともに送って行った。「天皇のために戦って来い」という激励はあったが「生きて帰って来い」ということばはなかった。私は小説を読む楽しさを教えてくれた叔父が好きだった。その叔父が最後に脇を向いて涙をぬぐっていたのを今でも思い出す。“忠勇無双のわが兵”としては見せてはならぬものといわれていたが、あの涙は子ども心にも悲しかった。
母方の祖父母は我が家の隣に住んでおり、祖父は炭焼きなど山仕事で生計を立てていた。茂叔父も召集までは一緒に炭焼きに山へ通う日々だった。時々届く葉書が祖父母の唯一の頼りだった。いまでもはっきり覚えているが、「南方派遣沖6094部隊浜野隊4班 上畑茂」と書いてあった。あるとき色鉛筆で炭焼き小屋を描いた葉書が来た。そこには「炭を焼く老爺の肩に白き雪」とあった。赤道直下の炎熱のジャングルで、どんなにか雪降る故郷は恋しかったろう、と今にして思う。
●母の死、敗戦、叔父の死と祖母の狂気
 昭和20年は、私の人生にとっても、祖父母にとっても忘れ難い年となった。祖父母は子どもとの縁薄く、すでに長男は戦病死、次女は嫁入り先で病死していた。残されたのは長女である私の母と茂叔父だけだった。まず子ども6人を生んで病気一つしたことがなかった私の母が風邪をこじらせて半年間病臥して20年の4月に亡くなった。そして8月の敗戦である。軍国少年のわたしは茫然自失、涙も出なかった。人は悲しみ極まると涙も出ないものだと知った。まして鬼畜米英に負けると女は強姦され、男は金玉を抜くといわれていた。それを信じていたから絶望と恐怖におびえた。
 負け戦を玉砕といってたたえ、戦線を後退するごとに撤退という言葉でごまかした。最後は特攻精神で「一億玉砕」「進め一億火の玉だ」と小学生まで竹やり訓練の日々だった。敗戦間近かのころである。廃品回収に子どもたちがグループで回っていた。親戚の30代の男性が肺結核で1人で静養していた。そこえへお願いに行ったとき「お前らまだこんな莫迦なことをしているのか。この戦争は負けるに決まっているんだ」と罵られた。軍国少年の私はこの男性を「非国民」と激しく憎んだ。
 敗戦を契機に、村には復員軍人、軍属などが帰郷して賑やかになってきた。徴用工として呉市にいた私の長兄、少年兵として加古川市にいた次兄も帰ってきた。食べ物はなくそれこそさつま芋の葉っぱまで食べる日々だった。しかし南方派遣の茂叔父の消息はまったく途絶えていた。祖母は毎日、庭先に出てなにかを待っていた。というより待ちわびていた。年を越えた冬のある日、茂叔父の戦友という人が訪ねてきてた。叔父は敗戦前日の昭和30年8月14四日、ブーゲンビル島で栄養失調のため死亡した、という。白木の箱ではなく粗末な入れ物のなかには茂叔父の紙一枚で骨はなかった。。その夜、祖母は狂った。「わあー」というような叫び声をあげて裸足のまま雪の夜道に走り出た。あのなんとも形容し難い悲痛な「咆哮」は72年後のいまも耳朶に残る。最後の望みであった茂叔父の死によって、祖父母は4人の子どもすべてを失った。
●戦争責任をうやむやにした大人の世代
 戦争に万歳を叫んで、天皇のために死ねと叫んだ大人や先生方は見事に変身した。なんのためらいもなく教科書に墨を塗らせ、鬼畜米英転じて平和と民主主義礼賛になった。天皇は人間となり、新たに全国を回った。それを歓呼の声で迎える大人たち。あの違和感はいまでもぬぐえない。食料難のなかで謹厳極まりない怖い校長先生が、父兄からの食物の差し入れに見せた卑しい笑顔を垣間見た。絶望と落胆、人間不信、そしてどん底の中でこそ芽生える「希望」のようなものをこの一年間で存分に味わった。
 やがて軍国少年も人並みに平和少年に転身する。米英憎悪から、戦争指導者への憎悪に変った。だがそれでよかったのかと、いまにして思う。日本人全体が、どこかで決着をつけるべき事柄を、あいまいにしたまま戦後の平和と繁栄を貪り続けてきたのではないか。歓呼の声で若者を戦場に送り出した民衆の責任、また戦場に行った模範青年たちがやむなくかあるいは自発的にか冒した殺人や強姦、略奪の責任、そういうものすべてに口をぬぐって生きてきた。それは「戦犯」にのみに押し付けてすむ問題ではなかったはずである。決着をつけないままの戦後72年が今日の改憲、靖国、自衛隊問題に噴出していると思う。その意味で私はいま80代以上の戦争体験者の「戦後責任」は重いと思う。
●戦後12年後他界した祖父そして自殺した祖母
 祖父母は黙々として、世間へのかかわりすら避けるように生きた。戦後、すべての家庭に電灯が灯るようになった。私はラジオで聞く世界の広がりに歓喜したが、祖母は頑なに電灯をつけることを拒んだ。苦しんで死んだ息子を思えば、そんな現世的な楽はできないというのだった。私たち6人の孫は、頑固な祖父母を顧みることなく、前を向いてそれぞれ東京へ、北海道へ、あるいは京阪へと散っていった。私は昭和30年に東京に出た。32年春に結婚して父や祖父母と会いに帰った。それが最後である。その年7月、祖父上畑太平治78才で病死。追うように11月、祖母きしのが75才で死去。父から祖母は自殺と伝えられた。
  叔父の骨いまだ帰らず敗戦忌 漫歩
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徘徊老人

Author:徘徊老人
80歳の徘徊老人です。
趣味、杖を引いて歩くこと、
お四国歩き遍路、ごみひろい
路上公園などの観察、
キョロキョロ歩き
読書、眠り薬になること多し

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